巨大な鬼が、断末魔を撒き散らして地に伏した。たったいまその鬼に向けて氣を放った緋勇が、一つ息を吐いて拳を下ろす。殲滅を確信し、一同も気を緩めて得物を下ろした。桜井が緋勇に歩み寄り、「ナイス八雲!」と言ってその肩を叩く。少しだけ驚いたように振り向く緋勇に笑いかけ、その技の威力を褒め称えた。
「やっぱすごいね、ひーちゃんは!」
「そうだな」
「うん、いっぱい修行したんでしょ?」
「した」
「よーし!ボクも頑張ろう!」
真っ直ぐに前を見詰める瞳に、緋勇がふと視線を落とす。少し離れた場所でそれを見ていた蓬莱寺は、具体的にはさっぱり分からなかったが、緋勇が何やらあさっての方向に沈みだした事を悟った。緋勇という男は、時々思い出したように沈み込む男なのだ。それも、酷く分かりづらく。放っておいても浮上するのだが、蓬莱寺としてはどうにも手を出したくなってしまう。まさか緋勇に限って、とは思うのだが、暗い場所でひとり息を殺す様は、やはり見ていて気持ちのいいものではない。
視線の動きだけでそんな事まで察してしまう自分に呆れながらも、心の隅に優越感がじわりと広がる。誰もが緋勇を見ているのに、緋勇は誰にも自分を見せない。自分だけは例外なのだと、幼稚な自尊心が刺激された。
今度は美里に駆け寄った桜井を横目で見つつ、地上に戻る意を口にした緋勇に歩み寄る。
「なんだよ龍麻、もう終わりか?」
「不満か?」
「もーちょっと潜ろうぜ、殺りたんねぇ」
わざと緋勇が嫌う言葉を使ってみる。しかし予想に反して、緋勇は眉一つ動かさずに冷たく蓬莱寺を見据えた。その瞳に一瞬だけ怯んだが、表面には出さず口を緋勇の耳元に近付ける。肩に腕を回し、囁くような音量で、無表情のまま体ごと引いた緋勇に提案してみた。
「じゃあ、あとで二人で来るか」
ギラリと光った目に睨まれて、素直に体を離す。況してや今は戦闘の直後だ。まだ燻っている氣が、研ぎ澄まされた刃のように蓬莱寺を撫でた。首筋が粟立つ。堪んねぇ、と、声には出さず呟いた。彼の傍に居るだけで、自分まで研ぎ澄まされるような気がする。一振りの刀になった気分だ。鋭く、薄く、尖ってゆく。錯覚だと分かってはいるのだが、この感覚は病み付きになる。
ひとまず地上に戻り、駅に向かう者と寄り道をする者とで別れ、各々の道を踏んだ。そのどちらにも属せず、緋勇と蓬莱寺が視線を逸らしたまま踏み出す。
辺りに自分たち以外の人影が失せると、緋勇が抑えていた氣を解放した。昂ぶっていた緋勇の氣が、それでも抑えられていたのだと察する。僅かでも歩を過てば即死。そんな莫迦げた言葉すら浮かんだ。愛刀を握る手に汗が滲む。発狂しそうな昂揚感に水を差したのは、低く静かな声だった。ふと気付いて見渡せば、世界は下弦の月がゆったりと寝そべる穏やかな秋夜だった。
「本当に行くのか」
「え、なんだよ行かねぇのかよ」
「どうせ一人でも行くんだろう」
「そーだなー、どーすっかなー」
蓬莱寺の視線に誘われて、緋勇も顔を上げる。数秒前まで尖っていた氣が、緩やかに拡散してゆくのを感じた。不意に、虫の声が耳に触れている事にも気付く。喧騒は遠く、旅愁によく似た感傷が胸を打つ。
旅路に吹く秋風のような声が、京一、と囁いた。
「お前は、怖くないのか」
「ん?」
「俺が怖くないのか」
「たまに怖い」
「・・・そうか」
「でも、今は怖くねぇな」
「そうか」
「でも怖いのってちょっと気持ちいい」
「そうか?」
「ギリギリで命の遣り取りしてる感じ」
ふうん、と吐息で応え、緋勇が足を止めた。
「俺は、化物なんだ」
「・・・へえ」
「何かが一つ変われば、退治されるのは俺だったんだ」
「ふーん」
「あの時お前に斬られるのは、俺だったのかも知れない」
「で?」
気の無い返事に、緋勇が言葉を途切れさせる。無表情で、やや離れた蓬莱寺に視線を流す。蓬莱寺は、真昼の教室でふと窓の外を見るような目で緋勇を見ていた。「だから?」とでも言いそうな口が声を発する前に、緋勇が続く言葉を探して視線を彷徨わせる。しかし緋勇が言葉を見付ける前に、蓬莱寺は予想どおりの言葉を吐き出した。
「だから?」
「・・・いや、だから」
「お前が化物で、一歩間違えたらあいつみたいになってて、だから?」
「・・・」
「化物はそんな顔しねぇよ」
果たして本当にそうだろうか、と思ったが、緋勇は口を閉じた。少々間抜け面を晒してしまったようだ。口元を引き締め、音を立てて歩み寄る蓬莱寺を見詰める。そうしてから、蓬莱寺が怒気を発している事に漸く気付いた。
「なあ龍麻、桃太郎って知ってっか?」
「・・・亀に乗った」
「それたぶん浦島太郎」
「・・・太郎はあってた」
「桃から産まれて鬼退治するんだよ」
「ほう」
「でもさぁ、なんで鬼は退治されたんだと思う?」
「・・・悪行を働いたから、じゃないのか」
「そんな話は出てこねぇんだよ」
「何が言いたいのか分からん」
「うん、俺も分からん」
退治される理由など全く描写されず、ただ鬼は殺された。蓬莱寺はずっと思っていた。どうして鬼は殺されねばならなかったのか、と。平成の鬼は、どうだったのだろう。
正義などという妄言を信じる気は無いが、道理というものはある。それは己の在り方を己が決定する、という事だ。道を異にする者と衝突し、時に折られ、時に殺し、迷い、悩み、それでも進むという事だ。あの戦いは、そういうものだ。街角で肩がぶつかっただけの少女の敵討ちでもなければ、日本の法律に抵触した者への制裁などでも勿論ない。
「俺はお前を化物なんかじゃないと思うけど、それでも仮にお前が化物だったとして、だから?」
「・・・だから、俺は、本当にはお前の仲間じゃない」
「お前を最初に化物って言った奴、殴りてぇ」
「・・・意味が無い」
「意味なんかいらねぇ。決めた。ぜってぇ殴る」
「そうか」
静かな瞳で、緋勇は蓬莱寺を見た。その目が何故か少しだけ悲しそうに見えて、蓬莱寺は握っていた拳を解いた。怒りが収まった訳ではない。この一つ間違えたら阿呆のように純真な男を傷付けた人間を、許す事はしたくなかった。
自分にとって価値のあるものが、他人にとっても同じ価値のあるものだとは思わない。ただ、守りたいと思うものを傷付けられたのならば、それは自分が傷付けられたのと同じ事だ。やられたらやり返す。まるで子供の喧嘩のようなその考えは、それでも蓬莱寺が心を落ち着かせるのに有効な手段だった。
ふわりと視線を揺らめかせ、緋勇が言う。
「お前の拳は硬い」
「ん?そうか?お前ほどじゃないと思うけど」
「殴られるのは痛そうだ」
「なんでお前が殴られるんだよ」
「いま言っただろう」
何を言ったっけ、と、蓬莱寺はたったいま交わされた会話を手繰ってみた。確かに殴ると言った。緋勇に消えない傷を残した人間を思い、吐き気にも似た苛立ちを覚えた。首を傾げる蓬莱寺に、緋勇が悲しげな瞳のまま言葉を落とす。
「最初に俺を化物と言ったのは、俺だ」
蓬莱寺が落ちた言葉を理解するのに、数秒を要した。理解した瞬間、顔も知らない人間に抱いていた憎悪が、そのまま緋勇に向いた。思わず目を見開く。静かな表情の緋勇を凝視する。無意識の内に再び握られた拳に、爪が食い込んだ。緋勇の顔面を殴れるほど、蓬莱寺は命知らずではなかった。
「俺は化物だ」
「・・・違う」
「お前がそう思うのは、知らないからだ」
「違う!」
「誰も俺を化物だと言わなかったんじゃない」
「黙れよ!」
「言えなかったんだ」
「龍麻!」
「俺が、殺してしまったから」
「うるせぇ!違う!」
単純な否定の言葉に、緋勇は目を逸らした。理解を得られない苛立ちのように見える。蓬莱寺の左手にあった木刀が切っ先を上げた。そのまま一直線に移動し、緋勇の鼻先に固定される。緋勇は眉一つ動かさない。眉間に力を込めて、蓬莱寺はその黒い瞳を睨み付けた。
知らないのは事実だ。蓬莱寺は、緋勇の事を知らない。過去も、望む未来も、感情も。煮えた頭が認識したその事実が、出口を求めて奔流となる。相手が緋勇ではなかったら、それは攻撃に転じていただろう。だが蓬莱寺は、その衝動を堪えた。突き付けた木刀を下げ、深く息を吐く。
「お前は化物なんかじゃねぇ」
懐かしむような表情で、緋勇は蓬莱寺を見た。言葉を、信じていない。悟り、蓬莱寺が唇を歪める。届かない思いに、全てを投げ出したくなる。どうでも良いと思えたら、どんなに楽だろう。よぎった思考に自己嫌悪すら浮かぶ。本当に厄介な人間だ。そういう男なのだと、諦めて溜息を吐くのは容易い。だが蓬莱寺に、容易い道など行くつもりは無かった。
「お前の言うことなんか聞かねぇ。俺が違うっつったら違うんだよ」
自分が信じるものを、全ての害悪から守りたい。子供染みた独占欲にも似た感情を、それでも緋勇に向けて放つ。
緋勇は嘆いている。恐怖の目を向けられて、無言で拒絶されて、傷付いている。
やっぱり、殴りたい。自分を化物だなんて呼んだこの莫迦を、その瞬間に殴りたかった。もしも自分がその場にいたら、全力で殴り倒してでもその言葉を否定してただろう。しかし、蓬莱寺はその場に立ち会う事が出来なかった。憎むべきは運命とかいう得体の知れない存在しかないのだが、蓬莱寺はそんなもの信じていない。
緋勇は自分が忌まれるべき化物だと思い、それを受け入れている。自分が人間から産まれた事すら、疑いながら生きている。愚かしい限りだ。こんなにも、呆れるほどに緋勇は人間だというのに。
「一生付き纏って言い続けてやるよ」
蓬莱寺が得物を下ろして笑うと、緋勇は「変な奴だな」と言って、困ったように眉をしかめた。そりゃお前だろ、とは、言わないでおいた。緋勇が変な奴でも、蓬莱寺は困らない。
|