スクライドという物語について







興味深い説に出会いました。
「スクライドの最終話は、25話か26話か?」という論争があったそうです。
それに対して「25話は女性向け、26話は男性向け」という公式の零れ話が存在していたらしいのです。

全てはどこからか拾ってきた話で、明確な根拠は確認しておりません。
ここでのわたしの発言は、ただの妄想遊びです。何事かを主張するものではありません。
しかし26話に燃え滾った腐女子がここにいるんだ!他にもいるよね!ね?燃えたよね?
と叫びたくなったので、だらだらと書いてみました。







ストーリー

ムカつく奴がいたので殴ろうと思ったら、もっとムカつく奴が出てきたのでそいつを先に殴った。
その後、仕切りなおして最初のムカつく奴を殴った。そうしたら殴り返されたので、更に殴った。







キャラクタ


カズマ
主人公。熱血。反骨精神旺盛。拳が自慢。バカ(自覚はある)。

劉鳳(りゅうほう)
スカしてる。理屈っぽい。でも理論的ではない(自覚はない)。女にもてる。

かなみ
カズマの嫁。8歳。良妻。健気。人の深層心理にアクセスできる。

水守(みもり)
劉鳳の嫁(希望)。人道主義者。学者。特殊な能力は持たない。 →私見

シェリス
劉鳳の嫁(希望)。劉鳳に救われた。劉鳳が大好き。劉鳳を愛してる。 →私見

君島(きみしま)
カズマの相棒。お調子者だがやる時はやる。カズマが羨ましい。特殊な能力は持たない。 →私見

クーガー
カズマの兄貴(実兄ではない)。最速の男。速さが信条。兄貴。

無常矜侍(むじょうきょうじ)
ラスボス。劉鳳を妬んでいる。コンプレックスの塊。



以下、語りたいキャラは多数いるのだが、割愛する。







キャラクタについて

わたしは、男性向けの物語だと感じた。
何故なら、女性が、とても男性にとって都合のいい存在として描かれているから。健気に一途に想い続け、心配しながらも男の帰りをひたすらじっと待っている。許容し、包み込み、無償の愛を捧げる。それに対して突き詰めた描写は一切なく、ただ前提として母性的な愛のみがある。
しかし事実、このアニメは女性からも多大な支持を得ている。それは何故だろう。わたしの個人的な意見は以下のとおりだ。



キャラクタから推測できる仮説

「バトル燃えるぜぇ!」
と感じる女性が、この世には意外と多く存在しているのではないか。



腐女子的な視点で見ると

勿論、腐女子的な目で見ても充分においしいと思う。
プライド一つ拳に引っ提げ支配に反抗する男。それだけで多くの女性は心惹かれるだろう。わたしは惹かれた。
一方で、眉目秀麗、沈着冷静のように見えて実は誰よりも暴走しがちな男。こちらも素敵だ。個人的に、絶影で足払い→生身で回し蹴りのコンボが格好良かった。それはさておき。

その二人が「気に食わない」だの「腹が立つ」だの「こいつは俺の敵だ」だのとご丁寧にハモりで宣言して、荒野で他人の迷惑も考えずに互いだけを求めてゴツゴツやり合っている姿は、それはもう二人の世界に浸りきっているようにしか見えない。この情熱が恋愛に向いたら、と考えて楽しむのは腐女子の嗜みだろう。
ラスボスに挑む直前で、肩を並べて道を往くシーンでは、なんだこいつらラブラブじゃねぇかと、わたしも思わず呟いた。それはわたしが腐女子であるという事の証明でもある。どうでもいい。



スクライドに燃えるor萌える心理

しかし私見だが、物語に惹かれるというのは、共感なくして有り得ない。まったく理解できない人間に、そもそも興味を持てないのが人間ではなかろうか。
「萌え」と感じた心をキャラクタに託すにしても、限界はある。たとえばカズマを描写するのであれば、カズマに対してなんらかの共感を持ち、自分に重ね合わせる事でその作業が可能になる。つまり、さっぱり分からないキャラクタは好きにもならないだろう。彼の飢餓感や憎悪、怒り、愛情や迷い、不安、そして決意、誇り。自分の中にもそんなものを発見し、初めてそのキャラクタは二次創作の餌食になるのだ。または創作はせずとも、愛しい二次元の想い人となるのだ。

感情を介入させずにただ容姿のみに萌えている、という事もあるかも知れない。しかし、あそこまで激しく泣いたり叫んだりしているキャラクタを見ながら、まったく感情を意識しないというのも考えにくい。



26話について

問題の26話は、本当にびっくりするほどひたすら殴り合いだった。ラストシーンでは、熱の余韻も冷めやらぬわたしが、何年もぶっ通しでやり続けたのかと勘違いしたほど熱く激しいバトルで、ストーリー性は皆無に近かった。
この物語の主人公はカズマである。カズマに共感し、熱くなったからこそ、この作品を愛し、最終回まで見続けたのだろう。そのカズマの行動原理は、ただひたすらにこの瞬間を求めていたのだと、わたしは感じている。

「自分を否定した男に、自分を認めさせたい」
劉鳳はもう充分に認めていたじゃないか、と考える方もおられよう。しかし事の発端は、カズマの敗北である。誇っていた拳を否定され、矜持を折られ、その相手に強い憎しみと執着を抱いたのが、この物語の始まりである。拳を否定されて悔しかったのなら、その拳を認めさせなければいけないのだ。共闘に際して「頼もしい」と感じるようなものではなく、劉鳳が身を以って思い知らなくては、ここに至るまでの過程が全て無意味になってしまう。
だから26話はカズマにとっても、またカズマを愛した視聴者にとっても、必要不可欠なものである。



つまり何が言いたいのか

そんな事はどうでもいい!
燃えたんだよ俺が!
と言いたかっただけなのである。








ところでそこの貴方、暇なんですか?
だったらわたしと遊びませんか?
萌え語りとか燃え語りとか…あとはまあ、萌え燃え語りとかして。