海岸線の路肩に停車した頃には、二人は疲れ切っていた。夷澤は既に半分ほど泣いている。泣くほどの事か、と皆守は思ったが、流石に少々悪かったとも思っていたので、何も言わずに車を降りた。
体の傷は誇れるが、バンパーの傷は勲章ではない。夷澤はそう信じていた。バンパーだけで済んで良かったと思うべきか。誰も死ななかったのは奇跡だ。人生の幸運を、この夜で全て使い果たしてしまったような気がする。そうか、今まで俺が不運だったのはこの時の為か。ふざけんな。
車体を撫でながら本気で落ち込んでいる夷澤を置いて、皆守は歩き出した。車内で火を点けると夷澤が怒るので、ずっと冷たいパイプを銜えていたのだ。煙を深く吸い込み、黒い海を見る。甘い香りが風に流され、夷澤に届く。潮の香と混じった甘さに、夷澤が空腹を思い出した。その匂いで食欲を刺激されるのはおかしい、とは思わなかった。
「腹ぁ減りません?」
「ファミレスとラーメンは却下な」
「こんな時間、他にやってる店ないっすよ」
「じゃあ減らない」
「どんな超人だよあんた」
「不味いカレー食うぐらいなら、煙食ってた方がマシだ」
「カレー以外の選択肢はないんすか?」
「殺すぞ」
「何で!?」
路肩で暫くじゃれ合っていたが、「体が冷えた」と皆守が言うのでロードスターに戻った。今度こそ、皆守を助手席に座らせる事に成功した。どうやら運転には飽きたらしい。普段は癪に障る気紛れも、こんな時だけは感謝したくなる。
皆守の「飛ばすな」というリクエストに応え、海岸線を制限速度プラス20kmほどで流す。皆守の煙に文句を言うのは諦めた。トランクに積まれているオイル類の匂いと混じって、何とも表現し難い空気が充満している。油を拭いた雑巾を無造作に放り込んだ事を、夷澤は深く後悔した。その横で、皆守は何も言わずに紫煙を燻らせている。
「・・・酔いませんか?」
「別に」
特に気にならないらしい。素晴らしい鈍さだ。いっそ羨ましい。
県道に入り、少しスピードを上げる。
「路肩に停まってて、すっげぇギシギシいってる車ありますよね」
「・・・あるな」
「あれ囲んでハイビームで中照らしたりとか、やりませんでした?」
「・・・ないな」
「たまに怒って追っかけてくる奴いるじゃないっすか」
「・・・」
「あん時って、どこまで服着てんでしょーね」
「・・・」
相槌すら必要とせずに、夷澤は話し続けている。そもそも、車内では最低限の脱衣で行うのではないか、と思ったが、皆守はそれを口にしなかった。話題に乗ってやるには、内容が下世話すぎる。
不意にバックミラーが光った。後続車のパッシングだ。夷澤の舌打ちに「譲れ」とだけ言って、皆守は目を閉じた。夷澤は如何にも不本意といった態度でロードスターを寄せ、追い越された直後にアクセルを踏み込んだ。急激な加速に、皆守が思わず目を開ける。ロードスターのボンネットが、前を走るシビックのテールランプに追突しそうなほど接近していた。
「挑発すんな!」
「だって!」
「だってじゃねぇ!やっぱ運転代われ!」
「すんませんした。それだけは勘弁してください」
真顔でそう言って、夷澤はアクセルを抜いた。シビックが離れる。遠くなったテールランプに、夷澤が不満そうに口を歪めた。速く走れる者が格好良いという発想は、皆守にはない。ほとんど条件反射で喧嘩を買ってしまう神経も、さっぱり分からない。
「安い買い物するな」
溜息と煙と声を同時に発した皆守に、夷澤は眉をしかめた。自分の幼さを指摘され、それに返す言葉がない事に歯噛みする。敗北を思い出しそうになり、夷澤が僅かにアクセルを踏んだ。皆守は、今度は何も言わなかった。落ちた沈黙に、先程の夷澤の饒舌が何かを誤魔化す為のものだったと気付く。目を逸らすな、などと、皆守には言えない。
低いエンジン音と振動に、皆守の目蓋が重くなる。だが目を閉じると嫌な映像ばかりが浮かんで来るので、また開ける。何度かそんな動作を繰り返した皆守に、夷澤が前を見たまま言った。
「寝てていいっすよ」
「・・・神鳳は殺してない」
「は?」
「双樹も、裏切ったんじゃない」
「・・・はあ」
「夷澤」
「何すか?」
「・・・ゆっくり走れ」
それだけ言って、皆守は眠った。寝言だろうとは思ったが、夷澤は言われたとおり速度を落とした。
大和の侵入を許した今、出雲は窮地に立たされている。暢気に深夜のドライブなどしている場合ではない。だが助手席で寝息を立てる皆守が、本気で危機感を抱いているようには見えない。もしかしたら、本当にどうでもいいと思っているのだろうか。可能な限り静かにギアを落としながら、夷澤は白くなってきた空を見上げた。
「止めろ」
「はい?」
唐突に落とされた皆守の声は、寝言にしては明瞭だった。思わず聞き返して皆守を見ると、寝起きとは思えない表情で窓の外を凝視していた。起きていたなら、あんなに紳士的な運転をする必要もなかった。夷澤によぎった思いなど意に介さず、皆守は視線を戻さずに硬い声で言った。
「今すれ違った単車、葉佩だ」
「はばき?」
「大和の・・・飛び道具っぽい奴。
気付かれないように追跡できるか?」
「ここまで空いてたら難しいっすね」
夷澤の言うとおり、早朝の道路は空いていた。相手が徒歩ならばそれも可能だったかも知れないが、まさか此処でカーチェイスを繰り広げる訳にもいかない。逡巡している間に、葉佩の乗ったDT250は見えなくなっていた。追跡するにはリスクが大きすぎる。そう判断した皆守は、腕を組んで目を閉じた。
穏やかに走ってくれれば、夷澤の運転でも乗り心地は悪くない。
与えられた任務を放棄し、手ぶらで戻った二人を待っていたのは、笑顔の神鳳だった。
「ご無事で何よりです」
「・・・」
「・・・」
「報告する事はありますか?」
「・・・ない」
「・・・」
「では、何か言いたい事は?」
「・・・眠い」
「・・・腹減った」
「これが終わったら食事でも朝寝でもお好きにどうぞ。
必要があれば呼び出しますので、足腰立たなくなったら困りますが」
「・・・」
「・・・」
「ただし、言い訳か謝罪を終えてからです」
「悪かった」
「すんませんしたぁ」
「それで済むなら、規律は要りませんね。
特に皆守君、貴方が好き勝手やって許されるのは、結果を出していたからです。
自分の失態で陥った状況を投げ出して、愛の逃避行とはどういう了見ですか」
「愛はないと思う」
「どうでもいいです」
神鳳はそこで言葉を切った。皆守と夷澤が同時に身構える。怖い物見たさで様子を窺っていた部下達が、対ショック体勢を取る。双樹が髪を直す仕草で、さり気無く耳を塞いだ。
「いい加減に懲りるという事を憶えなさい!この駄犬共が!!」
ガラスが震え、武闘派の猛者達が震えた。神鳳の後ろに控えている双樹は、先程から俯いて肩を震わせていた。神鳳の怒号は腹に響く。況してや今は空腹だ。出雲組を一夜で纏め上げただけの事はある。声量で認められた訳ではないのだが。
退室を許可され、二人は部屋を辞した。皆守は離れた場所に住居を持っているが、夷澤は基本的に事務所に宿泊している。別れる廊下で、皆守が恨めしそうに夷澤を見た。
「・・・何で真っ直ぐ帰るんだよ・・・」
「俺だって眠かったんすよ」
「俺の方が眠い」
「帰り道ずっと寝てたじゃないっすか!」
「移動中って眠くなるよな」
「それは俺の腕がいいからでしょう」
それには応えず、皆守はゆらゆらと事務所を出て行った。疑う余地などなく、皆守は寝る気だろう。むしろ既に半分ほど寝ている。歩道の段差につまづきかねない足取りに、夷澤が思わず心配になる。
「・・・送りましょーか?」
という訳で、夷澤は皆守を自宅まで送り届け、ついでに皆守のマンションに上がり込み、冷蔵庫のあまりの空虚さに呆れ、買出しに走った。適当な弁当と飲み物を仕入れ、多分もう寝てるんだろうな、という予感と共にロードスターを唸らせる。交差点を過ぎた所で、夷澤は気付いた。見覚えのあるDT250が、事務所に近い路地に停車されている。今朝、葉佩が乗っていた車体だ。ノーマルでは存在しない艶のない暗苔色のタンクは、見間違えよう筈もない。
せっかく温めて貰った弁当が冷める。皆守の部屋には、電子レンジすら存在しない。その事を思い、夷澤が舌を打った。腕時計を確認し、少し離れた場所にロードスターを停める。葉佩の姿は見えない。DT250がエンジンを切らずに放置されている事から考えても、長時間の不在ではないだろう。
五分ほど経過した。まだ葉佩は現れない。鍵を付けたまま離れるには、少々無用心な時間だ。罠か。夷澤が警戒を強める。誘われたのだとしたら、この場に留まるのは危険だ。移動しようとギアを入れた瞬間、フロントガラスにひびが走った。狙撃された。何処から。畜生、今日は厄日だ。可哀想な俺のロードスター。傷物になっても俺はお前を見捨てないからな。夷澤が心の中で嘆きながら方向を転換した。追撃はない。
頭の中で周辺の狙撃可能な建物をピックアップし、その場所までの最短ルートを弾き出す。狙撃の直後に行動されていたら、飛ばしても間に合わないだろう。理性はそう判断したが、足が勝手にアクセルを踏んだ。
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