「止めろ」
「はい?」
唐突に落とされた皆守の声は、寝言にしては明瞭だった。思わず聞き返して皆守を見ると、寝起きとは思えない表情で窓の外を凝視していた。起きていたなら、あんなに紳士的な運転をする必要もなかった。夷澤によぎった思いなど意に介さず、皆守は視線を戻さずに硬い声で言った。
「今すれ違った単車、葉佩だ」
「はばき?」
「大和の・・・飛び道具っぽい奴。
 生け捕りに出来るか?」
「うぃっす!了解っす!」
「よし、行け」
直後、ロードスターが吠えた。派手にタイヤを鳴かせてロードスターが向きを変える。その急激な動きに、皆守がダッシュボードに手を付いた。ギアを上げながら、夷澤が不敵に笑う。
「本気で行きますんで、覚悟してください!」
「え、それは俺が覚悟しなきゃいけないって事か?」
見るからにヤクザな動きで方向転換したロードスターに気付き、葉佩の乗ったDT250が速度を上げた。トラックの隙間をすり抜けて、嘲笑うように加速する。
「・・・野郎!」
「待て、深追いするな」
「舐められっぱなしで帰れるか!」
「餓鬼の喧嘩じゃないんだぞ!」
一喝した皆守に、夷澤は前を見たまま目を輝かせた。
「カーチェイスって一回やってみたかったんす!」
その眩しさに、皆守の目が眩んだ。
「・・・分かった」
こいつが莫迦だって。あと、その気持ちも少しだけ分かる。うん、一度は憧れるよな。格好良いよなカーチェイスって。声には出さずに呟きつつ、皆守はいざとなったら脱出できるようにシートベルトを外した。最後の手段は飛び降りだ。生きて帰れるだろうか。俺は、生きて帰りたいのだろうか。帰っても、もうあいつはいないのに。ふとよぎった言葉に、皆守は自嘲を浮かべた。
 隣で夷澤がギアを落とす。エンジンが不平のような唸り声を上げる。スピードメーターが130qを指した。更に加速する。僅かな操作ミスが死に繋がる。そんな中で、夷澤は笑っていた。間近に死を感じないと生きている気がしないんだ、と、以前言っていた男がいた。そんな簡単な事で生きてる事が実感できるなんて、羨ましい。
「・・・挑発はするな。自爆されたらまずい。」
「任しといてください!」
「ああ、うん、首都高で絡まれた時とかは全面的に任せる」
特にスピードを出す事もなく、必要最低限の車線変更しかしない皆守は、そんな事態に陥った経験はない。

 強引な割り込みに、クラクションが鳴り響く。赤信号を突っ切り、トップギアでアクセルを床まで踏み込む。早朝だった事が幸いし、道路は空いていた。障害物がなければ、二輪に遅れを取るなど有り得ない。衝突する寸前まで接近し、パッシングを繰り返す。DT250が緩やかに速度を落とした。その横に並び、夷澤が皆守を見た。
「で、どうします?」
「・・・取り敢えず、止めろ」
「うぃっす」
夷澤は素直に頷き、ハンドルを僅かに曲げた。葉佩は大人しく並走している。それを目の端で確認しながら、皆守は「殺すなよ」とだけ言った。DT250が気付いて速度を上げる前に、夷澤は命令を遂行した。ロードスターとDT250のサイドミラーが接触し、葉佩がバランスを崩し、立て直そうと肩を揺らし、もう一度接触し、弾かれて吹き飛び、歩道に投げ出される様を、皆守は無表情に見ていた。
「・・・やったか?」
「残念ながら、スピードが足りませんでした」
「そーか」
何事もなかったように停車したロードスターから降りて、転がった葉佩に慎重に歩み寄る。意識はあるようだが、骨ぐらいは折れているのだろう。ざっと見て目撃者がいなかった事を確認し、皆守は葉佩を掴んでトランクに放り込んだ。ボディチェックは夷澤に任せる。武器と通信手段を取り上げ、ついでに財布に手を出そうとしたので殴っておいた。
「やる事が卑しいんだよ、このチンピラが」
「や、でも結構持ってますよ」
「マジでか」
「今度、飲み行きましょうか」
「・・・おう」
高校生かこいつら。葉佩が状況を忘れて思わず呆れる。夷澤が財布を投げ返した。一応中身を確認すると、小銭と千円札だけが残されている。皆守は叱った口で飲みの約束してるし。流されてんじゃねぇよ。脱力した葉佩に、皆守が手を伸ばす。肩を掴み、一瞬で関節を外した。悲鳴はどうにか堪えたが、激痛に視界が暗くなる。喉の奥で、押し込められた悲鳴が奇妙な音を発した。歯を食い縛って悶絶する葉佩に、皆守が微笑む。ああ、壊れてるんだな、と、葉佩が頭の隅で思った。
「悪いが、この車ツーシーターなんだ」
「・・・お気遣いなく・・・」
肩を押さえた葉佩が、脂汗を流しながら笑った。トランクが閉じられる。

 助手席に戻り、皆守は神鳳に連絡を入れた。任務を放棄した二人に、神鳳は穏やかに凄んだ。それを無視して現状を伝える。葉佩を確保した。回収して、今から戻る。淡々と伝える皆守の横で、夷澤は欠伸を噛み殺した。皆守でなくとも、徹夜明けは眠い。トランクから聞こえる呻き声に、皆守が舌を打った。エンジン以外に、この車に音の出る機能は存在しない。
 夷澤がギアを上げる。エンジン音が少し下がった。
「・・・嬉しそうだな」
「え、や、そんな事ないっすよ」
言いつつ、夷澤は緩んだ口元を手で覆った。全開で走れたのが嬉しかったのだろうか。単純でいいな、と思い、自分も決して複雑ではなかった、と気付く。運転席を盗み見たつもりが、夷澤も皆守を見ていた。二人同時に視線を前に戻す。
「・・・ゆっくり走れよ」
夷澤は、無言で速度を落とした。

 トランクで、何かがゴトリと鳴った。