耳障りなインタフォンで、皆守は悪夢からの脱出に成功した。悪夢から逃げおおせた直後に、今度は現実が皆守を苛む。しかも中途半端な体勢で寝ていた所為か、腰が痛む。心痛は既に手に負えないほどの容量で精神を圧迫しているが、体の痛みは些細であるが故に鬱陶しい。眠る前にキッチンで何事か叫んでいた夷澤の姿が見えない事にも、理不尽な怒りを覚えた。鳴り響くインタフォンを止める為、皆守はドアの向こうに立っているのが取手である事を確認し、鍵を開けた。
「夷澤君、来てないかな?」
「・・・多分、もう帰った・・・と思う」
「何処に行ったか、分かるかい?」
「ええと・・・」
眠りに落ちる前、何か言っていたような気がする。しかしそれは夢だったような気もする。どうにか記憶を手繰り寄せ、恐らくは現実であろうと思われる記憶を探り当てた。
「何か買いに行くって言ってた、かも」
「何処に?」
「さあ・・・あ、冷蔵庫・・・だった気がする」
「冷蔵庫?・・・家電屋かな?」
「んー・・・うん、そうかもな」
「分かった、ありがとう!」
「どーいたしまして」
去って行った取手を見送り、冷蔵庫を開けて気付いた。ビールを買いに行かせれば良かった。だが、使い走りを嬉々として受け入れる人物は見当たらない。水道水で喉を潤し、皆守はシャワーを浴びようと服を脱ぎながら浴室に向かった。
 シェービングクリームが、いつの間にか見覚えのない銘柄になっている。残量があと僅かなのを見て、夷澤が買い足してくれたのだろう。思い当たり、皆守は自分が苛立っている事に気付いた。何故だかは分からないが、夷澤は皆守を慕っている。慕われるのは、正直に言うと苦手だった。時折、ほんの気紛れのようにだが、何かを返さなければいけないような気になる。だが皆守は、返せるようなものを持っていなかった。その事を知れば、きっと夷澤も失望するだろう。
 早く気付け。俺に付いて来たって、見返りなんかないんだぞ。
 湯の温度を調節しながら、皆守は首の関節を鳴らした。

 風呂から上がり、空腹を持て余したままソファに身を預ける。この部屋には、テレビもラジオも存在しない。新聞も取っていない。冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターとウィスキー、傷んだトマトと、二ヶ月前は新鮮だったレモン。戸棚にレトルトカレーと数種類のスパイス。米も残り僅かだ。自分のテリトリーに存在する幾つかの物を脳内で羅列し、皆守は自分のあまりの空虚さに思わず笑みを零した。夷澤が持ち込んだ雑誌に目を落とし、文字を追うのを数秒で諦める。意味の分からない単語が多すぎた。フリクションロスって何だ。写真だけを拾いながらページを捲り、それにも飽きて目を閉じる。
 このまま永遠に目覚めなければいいのに、と、いつものように皆守は思った。







 駆け付けた廃屋で、夷澤に奇妙な予感がよぎった。予想どおり、人影は見当たらない。狙撃ポイントとしては申し分ない位置だ。先程ロードスターを停めていた路地が見える。御丁寧に薬莢まで残されていた。此処から狙撃された事は間違いないだろう。だが威嚇が目的だったとしても、あまりに雑な仕事ではないか。
 一つの可能性を思い立ち、夷澤が息を飲んだ。
「・・・陽動、か?」
おびき出された。鉄砲玉と揶揄される夷澤は、それでも主戦力の一端を担っている。夷澤を欠いた防御陣形は、出雲の完全な戦闘体制ではない。早朝の葉佩目撃も、恐らく意図的に誘われていたのだろう。追うなと言った皆守は、気付いていたのだろうか。愛車を急がせながら、嫌な予感だけは外れた事がない、と、忌々しく認めた。

 夷澤にとって唯一の家でもある事務所は、傍目で分かるほど大騒ぎしていた。襲撃を受けたに違いない。夷澤が、容易く嵌められた自分を胸中で罵倒する。その真上で、窓ガラスが砕けた。事務所の窓から一人の男が身を躍らせる。その男を追って、皆守が飛び降りた。着地と同時にロードスターに気付き、大声で夷澤を呼ぶ。
「逃がすな!追え!」
返事の代わりに一つ吹かし、走り去る男を追ってアクセルを開けた。

 事務所に戻った皆守は、夷澤が侵入者を追っている事を告げ、神鳳に歩み寄った。双樹に支えられて座り込んでいる神鳳の腹からは、一見して重傷と判別できるほどの出血があった。
「撃たれたのか」
「違うわ、刺されたの」
「こいつが?」
狙撃ではなく、刃物で刺された。それはつまり、神鳳が接近戦で不覚を取ったという事だ。護身という点に於いては、神鳳は組織内でも最強を誇る。処置を施す双樹にこの場を任せ、皆守は踵を返した。その背中に、神鳳が重傷者とは思えないような凛とした声を張った。
「これは陽動です!追ってはいけない!
 全員に伝令をお願いします。
 守りを固めなさい。来ますよ」
神鳳の瞳が燃え立つのを見て、皆守は思わず状況を忘れて懐かしい気分になった。取り澄ました表情の下で、彼はいつだって我が身を焼いていた。それが情熱なのか業火なのかは分からない。冷たい仮面を、まるで素顔のように貼り付けるようになったのは、いつからだったのか。皆守は知っていた。それを、思い出した。
「起きなさい!」
「起きてる」
一秒にも満たない皆守の思考を、いつもの眠気と思った神鳳が一喝した。双樹が慌ててそれを宥める。自嘲に似た表情で、皆守は了承を告げた。召集に応じて帰還した部下に指示を出し、事務所の周囲にも陣を張る。神鳳に接近戦で重傷を負わせた男を追っているのは夷澤だ。呼び戻す必要がある。だが彼は、車体のバランスがどうとか言って愛車に無線機を取り付ける事を拒否していた。こんな事なら、殴ってでも黙らせて取り付けておけば良かった。電話には、気が向いた時しか出ない。そもそも運転中に電話はしないと明言している。
 走り去ったロードスターの後姿を思い浮かべ、安易な命令を下した事を後悔した。浅はかな言葉で、彼を危険に晒してしまった。思考さえ放棄した男に従うなんて、莫迦な奴だ。頼んでもいないのに付き纏いやがって。早く見限れば良かったのに。何を期待していたんだ。焦燥が、苛立ちと共に皆守の背筋をざわめかせる。いつだって、皆守は不安だった。昨日まで其処に居た人が、今日も居るとは限らない。どうして人は、そんな不安定な世界で生きられるのだろう。
 ただ、願っているのだと、せめて伝えれば良かった。壊れた心で、病んだ精神で、それでも願わずにはいられないのだと。終わりの見えない夜に、傍にいてくれて嬉しかった、と。
「・・・死ぬなよ」







 皆守は自ら前線に出た。遠くない場所で爆音が響く。夷澤のロードスターではない。もっと小型のエンジン音だ。二輪だと皆守が認識した瞬間、唸り声のような排気音を撒き散らしてザンザスが突っ込んできた。乗っている男には見覚えがある。顔はフルフェイスのヘルメットに隠れていたが、その体格は確かに夕薙だった。一度だけ聞いたその名を思い出す事は一瞬で諦め、皆守が走った。
 壁にしていたインプレッサのボンネットに乗り上げ、ザンザスが高く跳んだ。墨木が発砲する。だが、巧みな荷重移動で車体をコントロールする夕薙には一向に当たらない。連射は得意だが、腕が良くないのが墨木の悩みどころだ。
 皆守が跳んだ。死角から現れた皆守に、ザンザスがバランスを崩す。着地の瞬間を狙い、ヘルメットに覆われていない延髄に爪先を叩き込んだ。夕薙が車体と共に吹き飛ぶ。落下の衝撃を逃がす為に転がった夕薙が、距離を測りながら立ち上がる。体勢を立て直す前に、皆守は二撃目を振り上げた。夕薙が腕を上げる。だが、それは防御の為ではなかった。
 完全な攻撃態勢だった皆守が、後方に吹き飛んだ。辛うじて受身を取り、追撃に備える。しかし夕薙は、皆守を無視して事務所に向かって走り出した。朱堂がダーツを放つ。同時に取手が空気を振動させる。それらを避ける事さえせずに、夕薙が掌を翳した。衝撃波が発生する瞬間を、皆守の目が捉えた。
 朱堂が叫びながら、取手は声も出せずに吹き飛んだ。続けて、低く走り込んでいた真里野にも凄まじい圧力を投げ付ける。自分の力がもたらした結果などには見向きもせず、夕薙はただ役目を果たすべく進んだ。車両の上を跳び、皆守がそれを追う。ヘルメットの中で、夕薙が唇を歪めた。
 進路に、腕が捻れた朱堂が立ち塞がる。真正面からダーツを放つ。ヘルメットに突き刺さり、シールドが割れた。見た目どおりの玩具ではないようだ。防御力の半減したヘルメットを脱ぎ捨て、ダーツが突き刺さったままの腕を上げる。衝撃波が有する破壊力を目の当たりにした筈の朱堂は、しかし恐怖を見せなかった。雄叫びを上げ、夕薙が放った攻撃を全身で受け止めた。大した胆力だ。口には出さずに感嘆した夕薙の真上で、鋭く空気を切り裂く音が鳴った。
 皆守の踵が、寸分違わず夕薙の脳天に突き刺さった。衝撃に視界の端が点滅する。続けて打たれた脇腹の皮膚の下で、骨が折れる音がした。靴底が地面を叩く小気味良い音が響く。連撃は苦手なのか、それとも終わったと思ったのか、皆守の攻撃が止まった。夕薙が腕を上げる。間近で、皆守が息を飲む音を聞いた。恐怖した音だ。

 お前でも、死は怖いか。

 掴んだ顔面が、汗かそれ以外かは分からなかったが濡れている事に気付いた。だが、夕薙は躊躇わなかった。皆守の顔を掴んだまま、掌から力を放出する。不快な水音と同時に、硬い物が砕ける音。次に、背後で地を踏む音。
 夕薙が振り向く前に、真里野はその切っ先を振り下ろした。