屋上で風を受けていたら、いつものように足音が聞こえた。彼の足音には特徴がある。勿論人の数だけ特徴はあるのだが、彼は特別に分かりやすい。
徐々に近付く足音に、葉佩の心臓が音量を増す。予想どおり、ドアを開けたのは皆守だった。葉佩を一瞥し、すぐに興味なさげに寝転がる。腹が立つほど無防備に横たわった体は、葉佩よりも大きい。その手は実に容易く葉佩を押さえ込み、軽々と持ち上げる。
懐に入れたG26ADを抜き、照準を合わせた。皆守は動かない。皆守が銃弾を躱す様を、葉佩は見た。だが今、皆守は目を閉じて横たわっている。その状態から戦闘体勢に移行するのに、どれほどの時間が必要なのか。おそらくそれは、1秒以下の速度で行われる動作なのだろう。だが、その僅かな時間が生死を分ける。その事実を、皆守が知らぬ筈がない。
葉佩が指先にほんの少し力を込めるだけで、銃弾は発射される。
「なあ皆守、それって覚悟?」
「・・・」
「信頼とか、そーゆーの?」
「・・・」
「俺にはできないって思ってる?」
「いや、思ってない。お前は俺を殺すだろ」
葉佩から皆守まで、3メートルも離れていない。死にたいのだろうか、と考え、全身が震えた。まるで、それが真実のように思えたからだ。
G26ADを下ろし、足元を見る。地上までの距離を目算してから、皆守を見た。唐突に足が竦んだ。強い風に煽られて体が僅かでも揺らげば、蓄えられた位置エネルギーが葉佩を殺す。その事実に、漸く思い至った。
柵に掴まって体を固定する。手の平が汗ばむ。
助けを求めるような気持ちで皆守を見る。皆守は、葉佩を見ていなかった。
「皆守!」
大声で名を呼ぶと、皆守が億劫そうに目蓋を開き、葉佩に視線を向けた。もう一度、今度は少しだけ小さな声で呼ぶ。皆守が上体を起こし、眉を寄せた。葉佩は両手で柵を握り締め、膝立ちで皆守を呼んでいた。
「なんだよ」
「こっち来て!」
「どうした?」
「いいから!早く!」
「なに企んでやがる」
「企んでねぇよ!来てってばぁ!」
訝しんだが、声は切迫しているような気がする。皆守が歩み寄って柵越しに覗き込むと、葉佩は左手で柵を掴んだまま右手を伸ばしてきた。差し出された手を、暫し見詰める。
見上げてくる瞳が涙を湛えている事に気付き、首を傾げながらも震える手を取った。柵の向こう側の、傷だらけの手。浮かんだ言葉は、やはり無意味だった。手を掴むと同時に葉佩の全体重を掛けられ、皆守が大きく傾いだ。柵がなければ、確実に二人揃って念願の自由(落下)だ。
「おい葉佩!何のつもりだ!」
「引っ張って!」
「はあ?」
「早く!引っ張って!」
リクエストどおりに引き上げてやると、汗ばんだ手が皆守の襟に縋り付いた。葉佩が柵を乗り越え、皆守に全体重を預ける。咄嗟に支えきれず、バランスを崩して後ろに倒れた。頭を打つなどというお約束は回避したが、首に縋り付く重量は決して軽くない。腹部を圧迫される苦痛に耐えかね、乱雑な動作で葉佩を床に下ろした。だが葉佩の手は、まだ皆守の服を握っている。それを放す気はないらしく、皆守本体ごと強く引いた。
「何なんだいきなり。突発性高所恐怖症か?」
「皆守すげぇ!よく分かったな!」
「自分で言っといてなんだが、意味が分からない」
立ち上がろうとする皆守の裾を手繰り寄せ、葉佩は芳香が染み付いた服に顔を埋めた。
抵抗は諦めた皆守が、溜息をついて腰に押し付けられた頭に手を置く。硬い質感の髪をかき分け、発見したつむじを指先で弾く。葉佩は首を左右に振ってそれを払い、腹の辺りに額を押し当てたまま、皆守の腰を抱きかかえるように手を伸ばした。
「・・・葉佩」
「なに?」
「何がしたいんだ」
「死にたくない」
「・・・そうか」
「殺したくない」
顔を伏せたまま、葉佩が小さな声で呟いた。背中に回された手が、強くシャツを握る。引っ張られて、皆守の首が絞まった。無防備に晒された頭頂部に拳を落とし、引き剥がそうと葉佩の襟を引っ張った。すると、更に強い力でシャツを掴まれた。
「放せ。伸びる」
「どうせ元からダルダルじゃねぇか」
「莫迦か。計算されつくした最良の着心地だ」
「そうだったんだ!」
「おう、だから放せ」
「ぜってぇ嘘だからやだ」
投げ出した足の間で、葉佩が泣いていた。よく泣く子供だと思い、同時によく笑う子供でもある、と思い出す。
触れようとする手に躊躇いが見えなくなったのは、いつからだったか。皆守が身じろぐ度に全身で警戒していたのが、遠い昔のように感じられた。不意に、取手の言葉が浮かんだ。「優しくなった」と、嬉しそうに言われた。「君が悪い」とも、呆れたように言われた。
「・・・俺が悪いのか?」
答えなど期待してはいなかったが、葉佩は顔を上げて皆守を見た。驚いた表情をしている。目を見開いたままじっと皆守を見詰め、やがて戸惑ったように視線を揺らめかせた。口を開いたが、音を発する事なくまた閉じる。何度かそんな動作を繰り返し、再び皆守の腹に額をぶつけた。
「皆守は悪くない」
「根拠は?」
「俺が餓鬼だからいけないんだ」
「それはどうしようもないだろ」
「そんな悲しいこと言うな」
「悲しいのか?」
「どうしよう皆守」
「どうしたいんだ」
「俺、仕事したくない」
「何をいきなり不良社会人みたいなこと言ってやがる」
葉佩が、腹に顔を押し付けたまま首を傾げた。後ろ手に上体を支えている皆守の大腿に、膝を乗せて体重を掛ける。
「重い。乗るな」
「皆守は、どうしたら泣く?」
「そのまま全体重を掛けられたら泣く」
と言った直後に、全体重を掛けられた。走った激痛に、思わず胸元にあった頭を殴り飛ばす。大腿と膝の間は急所の一つだ。子供とはいえ、葉佩は決して軽くない。むしろ重い。しかも接触部位は膝頭だ。物凄く痛い。良い子は真似してはいけない。ああ、こいつは良い子の対極の存在だったな。
大腿を押さえて痛みに耐える皆守に、葉佩が責めるように叫んだ。
「泣かねーじゃねぇか!」
「心の中じゃ号泣だこの凶悪児童!」
「泣きたい時は泣けよ!我慢すんな!」
「ほーそうか、我慢しなくていいのか」
「・・・え、あれ?」
ゆらりと立ち上がった皆守に、葉佩が座ったまま後退った。じり、と音を立てて床を踏んだ皆守を、頬を引き攣らせて見上げる。その視線をフェイントで誘い、素直に逸れた視界の死角に移動する。葉佩が反応する前に襟首を引っ掴み、腰を入れて体ごと担ぎ上げた。
暴れる体を柵の上から逆さに吊ってやろうかと思ったが、さすがに支えきるのは無理だと断念する。《墓》の外での殺傷は、即ち犯罪行為だ。皆守も、その程度の良識は持っている。
皆守の一瞬の逡巡を過たず察知した葉佩が、大きく背を反らした。肩の上で重心をずらされ、皆守が耐え切れず手を離す。落下と着地をほぼ同時に果たし、葉佩が構えた。距離が近かった為、銃ではなくナイフを選択したらしい。
白刃が、太陽光を反射して不敵に光る。
「ねえ皆守」
「・・・」
「昨日、眼鏡のボクサーとやったぜ」
「ああ、そういえば今日は一段と荒れてたな」
「勝ったよ」
「知ってる」
皆守が、つまらなそうに煙を吐き出す。
葉佩が、どんな揺らぎも見逃さぬように視線を鋭くした。最も恐れるべきものは、銃でもナイフでもない。皆守は、その時になって漸く気付いた。葉佩がただ一つ、これと認めて誇るのは、そんなものではない。
狂気のような、その瞳だ。
今は皆守を見詰める瞳が、いつか他の誰かを見るのだろうか。よぎった言葉は、悲しくなるほど無意味だった。そんな日が来る前に、いっそ全てを燃やし尽くしてくれ。そして、何も残さずに去ってくれ。無意味な言葉を、胸中で連ねる。葉佩は目を逸らさない。
予感がする。葉佩は、誰よりも強い。
「強いぜ、俺は」
「知ってる」
「殺してなんか、やんねぇぞ」
「そうなのか?」
「覚悟しとけ」
皆守が、柔らかく微笑んだ。葉佩が確信する。次に立ち塞がるのは、皆守だ。明け方の夢が脳裡をよぎる。ナイフの柄を握った手に、汗が滲む。
皆守を見上げる。切なげな笑みを浮かべた唇が、小さく囁いた。
「待ってる」
誓いを果たす時が来る。
臆病で怠惰な子供は、その罪すら自覚せず、赤い部屋で血を欲する。懺悔すら知らず、泣く事もできず、悔恨だけを刻まれた、憐れな子供。どうせ全ては去り行くのだから、その全てに価値はないと嗤う、愚かな子供。彼は義務を果たすだろう。空虚な体に満たされた命令に従い、小さな侵入者を刈り取る為に身を捧げるだろう。
ならば、と、葉佩が胸中で呟く。永遠でなければ信じないと嘯く皆守に、一瞬で全てを燃やし尽くす炎を見せよう。
それは既に、この胸にある。
だが誓いが果たされるその前に、小さな《宝探し屋》は屋上から宙吊りにされ、「もうしません」という誓いを迫られた。気の済んだ皆守が葉佩を引っ張り上げると同時に、まだ恐怖に震える声で最初の誓いを宣言する。
「お前、ぜってぇ泣かす」
「おう、やってみろ」
汗ばんだ手で皆守の襟に縋り付きながら、葉佩は何度も誓った。
傷だらけの手を振り払う事もせずに、皆守は何度でもそれに頷いた。
明日、夜が終わる。
往かねばならぬ、朝が来る。
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