途方に暮れたまま、葉佩はその地を踏んだ。皆守が、無表情に葉佩を見下ろす。待ち望んだ瞬間の筈だった。正面から彼に立ち向かい、自分の力を見せ付ける。ただ甘い幻だけを見詰める瞳を、自分に向けさせる。
 負けない自信はあった。例え、二度とこの体が使い物にならなくても、最後まで立ち続ける。その覚悟もあった。
 持てる全てを、願いの為に。自ら立てた誓いの意味を、葉佩はやっと理解した。自分を嘲った老人達の気持ちが、今なら分かる。こんな小さな手では、何も掬い上げる事など出来ない。生かされるだけの憐れな存在が、己を誇るなどと。

 紫煙が揺れた。皆守が、靴底を床に擦り付ける。それが合図だ。












 折れた右腕に、ナイフを縛り付けて固定した。銃弾は尽きている。だが、もうそれは必要ない。最後の一発が、皆守の唯一で最強の武器を貫いていた。
 動きを止めた皆守を引き摺り倒し、その胸に乗り上げる。荒い息を吐き出す皆守の口に、赤い雫が落ちた。白い喉の嚥下する動きを見て、葉佩が背筋を震わせる。それが悦びだと、葉佩はもう知っていた。
 皆守は泣かなかった。ただ呆然と葉佩を見上げ、「俺の負けだ」とだけ囁いた。そして葉佩は悟った。最初の夜に交わされた会話を思い出す。
 暴くべき遺跡の守人が自分よりも強かった時点で、葉佩の人生は終わる。それと同じだ。
 守るべき《墓》を暴こうとする者が自分よりも強かった時点で、皆守の役目は終わる。役目とは、皆守にとっての免罪符だ。罪を忘れ、自分に価値があるという幻を見る為の、甘い毒だ。それを、葉佩は燃やし尽くした。これから彼は、どうやって生きてゆくのだろう。

 自分が疾うに敗北していた事に、葉佩は漸く気付いた。
 使い捨ての道具。それだけが、路上で死にかけていた名も無い自分の価値なのだと信じていた。それを、皆守は憐れだと言う。同じ言葉を、かつて何度となく投げられた。可哀想だと嘯く人間を、全力で叩き潰して生きてきた。

「ねえ皆守」
「・・・早く殺せ」
「俺って可哀想?」

 支配され、役目を与えられ、誰かの為に命を使う。選択の余地などなかった。それでも、葉佩は生きている。嘆く理由など、どこにもなかった。あの夜、彼の目を見るまでは。
 葉佩の血液と涙が、皆守の唇を濡らす。皆守の目は、葉佩を映している。黒い瞳に映った自分の姿に、深く打ちのめされる。なんて醜くて、汚らわしい生き物。
 それでも、葉佩に湧き上がったのは喜びだった。憐憫でも、軽蔑でもいい。俺を見てくれるのなら。
 葉佩は既に敗北していた。掲げた矜持を砕かれ、自分を憐れむ視線に屈した。汚れた自身を恥じ、膝を付いた。捧げるものさえ持たない自分を憎んだ。

「ねえ、皆守」
「お前なら分かるだろ」
「皆守、お前、可哀想だね」
「終わったんだ、俺は」
「ねえ皆守」
「早く」
「皆守」

 皆守の左手が、刃に触れた。手の平が傷付く事など気にもせず、強く握って引き寄せる。腕の先の刃が向かう先を察して、葉佩が体ごと皆守から跳び退った。折れた腕では体重を支えきれず、肩から床に落ちる。声も出せぬほどの激痛に、葉佩は床を掻いて悶絶した。胃液が上がる。涙が溢れる。視界が霞む。嫌だ。皆守が見えない。

 右足を庇いながら、皆守が身を起こした。その体を、黒い砂が覆う。葉佩が叫んだ。痛みにではない。絶望にでもない。

 皆守は笑っていた。
 その事実に、気が狂うほどの怒りを覚えた。












 赤い異形は、一枚の写真を隠し持っていた。日に焼けて色褪せた写真は、被写体の輪郭すら判断し難いほど劣化している。拾い上げたその写真を、葉佩は皆守に手渡した。自分が持つ資格はないと、そう思ったからだ。
 無言で差し出された写真を受け取った皆守は、葉佩の目の前でそれを破り捨てた。

 落ちてゆく人に手を差し伸べても、葉佩にそれを引き上げる力はない。思い上がっていたのだと、葉佩は漸く悟った。崩れゆく遺跡に彼が消えた時も、だから葉佩は何も言わなかった。叫んでも、嘆いても、手に入らないものがある。ずっと前から知っていた事実だ。だから葉佩は、ずっと世界を憎んでいたのだ。
 一度だけ振り向いた皆守が、ほんの僅かに微笑んだ。別れを惜しむような表情に見えたのは、葉佩の願望が作り出した幻だったのかも知れない。それでもいい、と思った。彼は振り向いてくれた。俺を見て、優しく笑ってくれた。それだけでいい。それ以上を望むのは、自分を苦しめる事になる。
 決して手に入らないものを求め続けるよりも、諦める方が遥かに容易い。

 彼らが命を懸けて守り続けた静謐なる《墓》を蹂躙し、欲望の為にそれを砕き、貶め、略奪した。
 忌々しい亡霊の手で、彼は死を免れたらしい。後になって知ったその事実に、しかし葉佩はもうどんな感情も抱かなかった。世界を憎む理由が、また一つ増えた。それだけだ。
 手にした古代の叡智を協会に送り付け、自分の移動手段を指定する連絡を待つ。まだ生きているという事は、自分にはまだ利用価値があるという事だ。しかし、それを喜ぶ気持ちはもうどこにもなかった。彼の精神を引き裂き、それでも生きている自分が、どうしようもなく醜悪に思える。
 葉佩は望みどおりに自分の力を見せつけ、勝利した。その事実を見下ろし、込み上げたものを自覚する。
 こんなものが欲しかったんじゃない。

 晴れ渡った青空を見上げながら、葉佩は慣れ親しんだ憎悪を見詰めていた。これからも世界を憎んだまま、世界の一部として生きてゆくのだろう。ただ一つ、初めて知った感情だけが、葉佩の心臓を温かく濡らしていた。
 葉佩は、あの夜に名付けた想いを、世界から遠ざけるように奥底に仕舞った。

 通信機器が着信を告げる。
 もう「葉佩」である必要がなくなったNo0999は、指令に従ってその場を離れた。