枝葉の隙間から空が見える。小鳥の囀りが聞こえる。
 シュラフを固定していたバンドを解き、葉佩は音を立てて地面に着地した。その瞬間、朝露でぬかるんだ土に足を取られた。踏ん張る気力は残っていなかった。そのまま泥に突っ伏す。
 空気よりも温かく、柔らかい感触に全身を預ける。暫くそのまま仰向けに転がって空を見ていたが、やがて思いなおして身を起こした。人気のない手洗い場で全身の泥を落とし、ついでに服も洗う。

 東の空は、既に薄い青で彩られている。彼はまだ寝ているだろう。
 風呂に放り込まれ、そのまま担がれてベッドに引きずり込まれたのは、ほんの7時間ほど前の事だ。
 思い出すと苦いような、甘いような気分になる。嬉しいのに、酷く居心地が悪かった。全身を硬直させて只管に皆守が寝入るのを待ち、漸く聞こえてきた寝息に安堵した。そのまま眠る人を起こさぬよう、細心の注意を払ってその場を離れた。逃げてきたと表現してもいいだろう。
 それなのに、彼が今どうしているのか気になった。たぶん寝ているのだろうが、どんな間抜け面で寝ているのか。或いは、彼の夢路を遮る事はなかっただろうか。そんな事を確かめたくなる。

 胸中で言い訳にもならない言葉を繰り返しながら、葉佩は皆守の部屋の窓辺に立った。窓は、昨晩と同じ状態だった。つまり、葉佩が窓から脱出した時と同じ状態。平たく表現すれば、開錠されたままだった。
 鍵を開けたのは葉佩自身なのだが、無性に腹が立つ。無防備というか、危機感が欠如しているというか、人を舐めきってるというか。やはり声には出さずに呟きつつ、葉佩は音もなく部屋に踏み入った。

 予想違わず、皆守は眠っていた。柔らかい毛布に包まれて、弛緩しきった表情で目を閉じている。ほんの数時間前に自分がその隣に居た事を思い出し、葉佩が妙な衝動を覚えた。背筋がざわめく。それを必死で押し殺しながら、そっと髪に触れてみる。ふと、疑問が湧き上がった。

 皆守のつむじは、どこにあるのだろう。

 思い立ったが吉日。さっそく葉佩は、その謎を解明する為に探索を始めた。
 彼の気性と同じく勝手気侭な頭髪を慎重にかき分け、頭皮に近い部分まで指を差し込む。仄かに香るのは、自分と同じシャンプーの匂い。だがそれは既に彼の体臭と混じり、まるで別のもののように感じられた。柔らかい髪が、指の腹を撫でる。否、葉佩の指が、髪を撫でているのだ。
 皆守が小さく呻いた。心臓が跳ね上がり、同時に体も跳ね上がった。いや、別に慌てる事なんてない。俺はただ、つむじを探そうとしてただけだ。量が多い上にまとまりのない頭髪なので、どの毛先がどこから生えているのか分からない。それを確かめようとしただけで、やましい事なんて何もない。
 うん、純粋な探究心だ。だから静まれ心臓。

 皆守が、ぼんやりと目を開けた。犯した罪の重さに打ち震える受刑者のような表情の葉佩を、半分だけ開いた目で見詰める。掠れた声で囁いた。

「・・・お前か」

無表情にそう言って、皆守は再び目を閉じた。葉佩が大きく息を吐く。何故か最大限まで張り詰めていた神経が、一気に弛緩してゆくのを感じる。そうしてから、葉佩は皆守の声を、漸く言葉として認識した。
 暫く考え、感じた不快の正体に思い当たる。向きを変えた頭を掴み、叫んだ。

「『お前か』って、誰だと思ったんだよ!」
「・・・んー?」
「なあ!誰だと思ったんだよ!」
「・・・るっせぇな」
「お前、そーやって誰彼構わずベッドに引きずり込んでんのか!」
「・・・その言い方やめろ」
「だってそーだろ!『お前か』って!誰だと思ったんだよ!」
「・・・うぜぇ」
「何がうぜぇんだよ!おい皆守!」
「何がって、色々あるがその発言が何よりうざい。俺はお前の何なんだ」
「敵!」
「敵に向かって何言ってんだお前」

不機嫌そうな目で睨まれて、葉佩が黙った。さも億劫そうに上体を起こし、皆守が葉佩の襟を掴んで引き寄せた。眠りの邪魔とカレーの批判さえしなければ、皆守は至って穏便な人間だ。だが葉佩は、自らその禁忌に触れてしまった。
 寝起きの掠れだけではなく低い声で、皆守が凶悪な眼光と共に言葉を落とす。

「俺が誰と寝ようと、お前には関係ない」

 自分がスレスレの発言をしている事に、皆守はまだ気付いていない。












 貴重な朝の微睡みを阻害された皆守は、登校すると同時に保健室に向かった。葉佩はもう姿を消している。言うだけ言って窓から出て行った背中を思い出し、皆守は溜息をついた。
 甘やかしすぎたか、などと考えてもみたが、子供の独占欲というものは、往々にして熱しやすく冷めやすいものだ。他に興味の対象を作ってやれば、すぐそちらに向かうのだろう。しかし娯楽の少ないこの黄昏の街に、葉佩が夢中になれるものなど存在しない。
 そこまで考え、皆守は気付いた。葉佩は既に《墓》に夢中だ。正確には、それ以外の執着を知らないだけなのだろう。《墓》の一部である皆守だからこそ、葉佩は皆守を追いかける。なんだそうか、別に俺を追いかけてた訳じゃないんだな。まあいいや、それもすぐに飽きるだろう。
 白いベッドに寝そべって散漫とした思考を弄んでいた耳に、小さな声が届いた。

「失礼します・・・あれ?」
「保険医なら、さっき用事があるとか言って出ていったぞ」
「あ、皆守君」
「おう。まあゆっくりしていけよ」
「ここ、君の部屋?」

 以前に比べると、取手の顔色は格段に良くなった。ぼんやりとそんな事を思い浮かべていた皆守に、取手が少し躊躇ってから言った。

「皆守君、最近ちょっと優しくなったね」
「以前は優しくなかったみたいに言うな」
「いや、そういう意味じゃないよ」

そう言って笑った顔も、心成しか穏やかになっている。その変化が葉佩によってもたらされた、という事実に、皆守の心臓が嫌な音を立てた。あの狡猾な子供に騙されて、取手はまるで救われたかのように錯覚している。早朝に人を叩き起こし、訳の分からない言いがかりを付けてくるような餓鬼に、どうしてそこまで無防備になれるのか。
 葉佩が聞いたら床を叩いて転げ回りそうな事を考えつつ、取手に視線を向ける為に腹這いになった。

「葉佩君のお蔭かな?」
「は?何であの餓鬼が出てくるんだ」
「うん、まあ、ええと・・・うん」

取手は言葉を濁し、一人で頷いた。何故か諦めたような表情をしている。
 片眉を上げて疑問を表す皆守を見てから、取手は頭を抱えて俯いた。どうしようもないのかな、この血管にカレーが流れてる男は。口にしようとして、口を噤んだ。自分が言うべき事でもないと、取手は過たず認識している。
 葉佩が皆守の隣にいる光景を、取手は見た事がなかった。葉佩は痕跡だけを残して、いつの間にか姿を消しているようだ。意味など分からない。
 葉佩と皆守の声が聞こえて顔を向けると、皆守だけが一人でぼけっとしている。今まで葉佩がいたのかと訊いてみても、肯定が返ったためしはない。取手は二人の関係が、常々不思議で堪らなかった。

「葉佩君とは、仲がいいんだよね?」
「・・・よくない」
「いや、それは無理だと思うよ」
「お前にどう見えようと、あいつは俺を敵だって言ってる」
「敵?皆守君、もしかして《生徒会》なのかい?」
「あ、え、いや、違うけど」

火を点ける動作でさり気なく目を逸らし、皆守が盛大に顔をしかめた。

「あの餓鬼、俺が誰と寝てるかなんて訊いてくんだぜ」
「・・・え?」
「ったく、誰と寝てようが関係ないだろ」
「・・・皆守君」

震える声で名を呼ばれ、皆守は漸く気付いた。自分の発言が、少々際どい場所を掠っていた事に。
 慌てて取手に向き直る。俯いてしまった友人は、疑う余地もなく誤解しているだろう。誰に何と思われても構わないと思っていたが、毎日のように顔を合わせる友人にあらぬ誤解を受けるのは、少々居た堪れない。

「いや、あの、取手、たぶん誤解だ」
「皆守君」
「・・・はい」
「こんな事を他人に言われるのは不愉快だろうけど、聞いてくれ」
「その前に俺の話を聞いてくれ」
「自分を大事にしない人間は、誰も大事にしてくれないんだよ」
「ちょっといいこと言ってる気はするが、まあ落ち着け」
「でも僕は、君の事を大事な友達だと思ってるんだ」
「そりゃどーも」
「もっと自分を大切にしないと、いつか本当に酷い目に遭うよ。そんな君は見たくない」
「酷い目ならもう遭ってる」
「そうか、それで・・・」
「・・・それで?」
「だからそんな風になっちゃったんだね」
「どんな風だか言ってみろ」

取手がまた俯いてしまったので、皆守は事の次第を話した。
 葉佩が汚れていたので風呂に入れ、抵抗しなくなったから担いでベッドまで運び(取手が「それは人としてどうだろう」と、かなりの音量で言ったので座っていた椅子を蹴り飛ばして黙らせた)、温かい体が気持ちよかったのでそのまま寝てしまい、目が覚めたら葉佩に詰られた。
 自分の正当性を主張する為だったのだが、何故か墓穴を掘っているような気がした。何故だろう。

「どうだ、訳が分からないだろう」
「・・・なんとなく、君が悪いような気がするよ」
「なんでだ」
「寝言で他の誰かを呼んだとか」
「他のってなんだよ。寝言ぐらい言うだろ」

取手が顔を上げ、非難するような表情で皆守を見た。

「葉佩君は犬じゃないんだよ」
「うん、まあそうだな。たぶん人間だろうな」
「そこは言い切ろうよ」
「まあ、餓鬼なんて動物みたいなもんだしな」
「・・・ええと、あのね」
「何だよ」
「・・・皆守君が悪いと思う」

取手の出した結論に納得できず、皆守は眉をしかめた。その表情を見た取手が溜息をつき、「葉佩君が可哀想になってきた」と小さく呟いた。容易く憐憫を口にする友人に、暗澹たる気持ちになる。

 劉が帰って来ると同時にベッドから叩き出されたので、皆守は仕方なく別の寝床に足を向けた。取手は教室に戻ると言って、先ほど別れた。
 だらだらと階段を上り、陽射しを求めてドアを開けると、先客にじろりと睨まれた。先客は柵の向こうで、足を宙に投げ出している。何も言わない皆守から視線を逸らし、踏み出せば即死の場所で空を見上げた。
 柵のこちら側と、向こう側。無意味な言葉が脳裡をよぎったが、口には出さないでおく。

 皆守が無言のまま寝転がった。それを気配で察し、葉佩は気付かれぬようそっと振り向いた。全身に日差しを受け、皆守は目を閉じている。
 葉佩は、自分の感情が幼い独占欲である事を知っていた。そして、人間の感情が移ろうものだという事実も。だが皆守は、永遠を望んでいる。

「俺よりよっぽど餓鬼じゃねぇか」

独り言のつもりで呟いた声に、皆守が目を閉じたまま薄く笑った。

























VS夷澤