砂礫に埋もれた部屋の真ん中で、黒衣の道化師が膝を付いた。仮面が崩れ落ち、その素顔が苦悶の表情を作る。視線を泳がせ、周囲を見回して何事か呟き、やがてその視線が焦点を合わせた。
自分の体を見下ろし、陳腐な舞台衣装のような黒い服を破り捨てる。どこからか眼鏡を取り出し、丁寧な動作で耳に掛ける。固く目蓋を閉じ、またしても何事か呟いた。聞き取れた言葉は、幼くも内省的だった。
自分ではない何者かに与えられた自分の名前を囁き、夷澤は顔を上げた。
一戦を終え、尚も余力を残す小さな侵入者を、冷笑と共に見遣る。
「餓鬼じゃねぇか」
葉佩に、その言葉に反論する手立てはない。確かに、彼よりも葉佩は年下だ。だが、生きてきた年月だけが全てを決定するような思想は持ち合わせていない。
眼鏡の奥で自分を嘲笑った瞳に、静かな心で視線を返す。幼いその表情は、無知であるが故の自信と欲望に満ち溢れていた。声には出さずに発した言葉は、正確に彼の心臓を刺激したらしい。含まれた侮蔑に気付き、夷澤が構えた。
亡霊に体を明け渡し、更にはその身が敗北しても、彼の瞳は曇っていない。不敵な笑みを湛えた頬が、少年のように紅潮している。葉佩は、それを過去の自分を見るように見ていた。
真っ直ぐに上だけを見詰める瞳が、少しだけ羨ましかった。葉佩はもう、自分を生かす手段を失っている。与えられた命の理由を、自分の手で破り捨ててしまった。
「こんな餓鬼にここまで侵入されるとは、あいつらも焼きが回ったな」
夷澤は、自分の力を行使できるこの状況を喜んでいる。強大な力を有するが故に、使いどころを過てば諸刃の剣にもなりかねない。その程度の認識を持てないほどには、彼は愚かではなかった。
構えると同時に、鋭い拳に異形の能力を乗せて放つ。
己を己たらしめる《魂に等しいもの》すら捧げて、彼はいったい何を誇ろうというのだろう。その構えも、軽やかな足捌きも、空を切り裂く拳も、一つづつ積み上げて得た彼自身の力ではないのか。彼は技を磨く為の土台と、時間すらも持っていた筈なのに。
偽りの力に埋没した、彼の心を思う。醜い驕りに身を浸して尚、その姿は高みを目指す意思を失っていない。
踏み込みの速さに驚嘆しつつ、間合いを取ろうと後退する。それを許さず、夷澤が音を立てて地を蹴った。着地の瞬間を狙い、まずはそのフットワークを封じようと足を狙撃する。だが、自在に左右へと振られる荷重に惑わされ、発射された銃弾は僅かに衣服を裂いただけで背後の壁にめり込んだ。
葉佩が舌を打つ。こんな所では死ねない。誓ったんだ。必ず、その場所へ行くと。
しかし、夷澤にも負けられない理由がある。
自分を見る目に蔑みの色が含まれている事を、夷澤はもう知っていた。矮小な存在が、自分を誇る術を探して吠え立てる様は、確かに滑稽だろう。声を殺し、欲する心を殺し、与えられる餌に満足して惰眠を貪るのが本当は利口なやり方なのだと、夷澤はもう知っている。だが、それではこの心が震える事はないのだと、それすらも知っていた。
遥かなる高みを見上げ、明日こそは、と誓いを立てる。
破られて踏み躙られた誓いすら糧にして、夷澤は走り続けた。
小さなナイフを顔面に向かって投げ付け、気の逸れた夷澤の死角に走り込む。葉佩を見失った夷澤が、一瞬だけ動きを止めた。その隙を見逃す葉佩ではない。1秒以下の速度で狙いを定め、トリガーを引く。
弾丸が発射されると同時に、夷澤が雄叫びを上げた。音と匂いと空気の流れ。そしてそれ以外の全てを、思考以前の反応で察知して、体を動かした。弾丸が、夷澤の脇腹を掠って闇に消える。
焦らず、次弾を撃ち出す。心臓に、続けて頭に。外した、と認識した時、安堵したのは何故だろう。
「やるじゃねぇか、餓鬼のくせに」
米神から溢れた血を親指で拭い、夷澤が笑った。獰猛な表情だ。
全力を出せる機会など、滅多になかったのだろう。見出した脱出口に、歓喜の声を上げている。振るう事さえ罪悪とされるほどの力を有し、それでも彼は満足していない。強欲だ。今の葉佩には眩しいほどに。
「もう終わりかよ」
黒衣の道化師よりも遥かに、彼の方が強かった。敬意を含み、その顔を見上げる。力を誇示する快感に酔い痴れた、彼の体を見上げる。
昼間の彼を思い出す。
欲望を恥ずかしげもなく口に出し、辺り構わず吠え立てていた。誰もが彼を疎んじていた。所詮は小者と囁かれ、上げた声は誰にも届いていなかった。それでも、彼は吠え続けた。
「その程度かよ!お前は!」
拳が唸った。纏わり付いた異形の凍気が、彼を酷く汚しているように思える。作り上げたその拳だけで、もう充分に価値があるのに。
葉佩が心で呟くと同時に、夷澤の背後で爆音が轟いた。発砲と同時に放った、時限式の爆弾だ。
爆風に押されて、夷澤の体が大きく傾ぐ。踏み止まったその足が再び戦闘態勢を取る前に、葉佩は発砲した。揺らいだ体に追い打ちの足払いを掛け、転倒してあらわになった胸に踵を乗せる。銃口はピタリとその心臓に向けられていた。
それを察した夷澤が、奥歯を擦り合わせる。その表情に、葉佩の必死で押し留めていた感情が溢れ出した。
「補佐だろ!お前は!」
「あ?」
「皆守の補佐なんだろ!助けられるんだろ!」
「は?皆守先輩が、なんでここで」
「羨ましくなんかねぇぞ!」
「いや、羨ましがられても」
「いっつも一緒にいられるとか、そんなん思ってねぇからな!」
「おい、ええと、え?」
「別にそんな、一緒にいたいとか思ってねぇし!」
「おーい」
「補佐なんて、要は雑用じゃねぇか!」
「うるせぇよ!」
「補佐だからって調子に乗るなよ!皆守に近付くな!触るな!話しかけるな!」
夷澤が視線を逸らして黙った。葉佩の発言の趣旨を、そこはかとなく理解してしまったらしい。乗り上げられたまま、額に手を当てて嘆息した。
分厚い筋肉に覆われた腹は、葉佩の体重ぐらいでは苦痛を感じる事もないようだ。腹筋を使って上体を起こし、葉佩の腋に手を入れてその体を持ち上げた。そのまま横にスライドさせ、小さな体を地面に落とす。
「あのなぁ、俺は副会長補佐なんだよ」
「知ってるよ!《宝探し屋》舐めんな!」
「皆守先輩は関係ないだろ?」
「・・・え?」
「なんでそこであの人が出てくんだよ」
「・・・えええ?」
不可解な事実にぶち当たった葉佩が、眉根を寄せて疑問を表す。
踏破すべき《墓》の守人たる《生徒会》の内部事情は、とっくに調査済みだ。役員と呼ばれる、呪われた存在。その一端を担う皆守という男。そして、その補佐役を務める人物。
その存在を知った瞬間、葉佩に湧き上がったのは嫉妬だった。誰よりもあの人の傍にいて、手を差し伸べる権利すら有した、その男。同じ空間で、同じ夢を見ているのだろうと思った。自分で作ったその幻に、葉佩は何度も唇を噛み締めた。
羨望などとは認めたくないが、それでも葉佩がどれほど望んでも得られない場所に、彼はいる。そう思っていたのだが、見上げてくる瞳は、葉佩の疑問を理解せずに困惑している。
「だって、皆守って副会長だろ?」
「・・・え?」
「だから、副会長は皆守で、お前は副会長補佐なんだろ?」
「・・・え、ちょ、ま」
「だからお前は、皆守のこと助けられんだろ?」
「・・・そうなの?」
「・・・違うの?」
砂に覆われた床に座り、二人が互いの顔を見詰める。異変を先に感知したのは、葉佩だった。きょとんとした表情のまま、夷澤が黒い砂に包まれる。
葉佩が、咄嗟に身を翻しながらリロードした。彼が捧げた《魂に等しいもの》を吸収し、醜悪な神の贋物が奇声を上げる。
白黒つけるのは後回しだ。
これが終わったら、徹底的に吐かせてやる。
羨ましいなんて、絶対に言わないけど。
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