あと20分ほどで昼休みという時間だった。
皆守は閉じていた目を開き、ふと窓の外を見た。世界は心地好い陽射しで満たされている。切り取られた空の輪郭を視線でなぞり、区切るものがなければ自己さえ捉えられない人という存在を思う。
眩しさに目を細め、そのまま目蓋を落とそうとする力に屈服した。だが完全に視界が閉ざされる寸前に、皆守の目がそれを捉えた。屈服した筈の目蓋が、全力で抵抗を始める。
見開いた目に映ったのは、平凡な家庭に産まれていれば小学生であるべき年齢の少年だった。窓の上部から目を覗かせている。その下には額があり、更にその下に髪の毛があった。要するに、何処からか逆さまにぶら下がって教室を覗いていた。口と目を同時に開けた皆守に、嬉しそうに手を振る。
皆守が目を伏せた。眉間に皺を寄せ、深く溜息を吐き出す。何をしてるんだあの餓鬼は。
葉佩という名のこの少年を皆守が知ったのは、初秋だった。
出来の悪い怪談のような噂話は、想像以上に厄介な真相を隠していた。永久にも等しい時間を眠りの内に過ごした《墓》を、彼は暴こうとしている。葉佩は、明らかに堅気ではない組織に、道具として育てられた。彼には目的など初めから存在しない。ただ与えられた命令を遂行する為だけに《學園》に入り込み、《執行委員》達に銃を向けた。
事態を憂いた阿門の命令で、皆守は葉佩に近付いた。初めの内は警戒も露に距離を測っていた葉佩は、晩秋に差し掛かった今では、何故か皆守の姿を見付けては嬉しそうに笑う。同時に、プログラムされたように正確な動作で墓守を攻撃した。
乖離する二つの印象に、皆守は不快な焦燥を感じている。それは予感にも似ていた。
向けられた混じり気のない笑顔と、垣間見た暗く冷たい瞳。《墓》の守人である皆守の前に立った時、葉佩はどちらの顔を見せるのだろう。
昼休みの鐘が響く。何も残さず通り過ぎていった授業の事は瞬時に忘れ、皆守は屋上に向かった。だが途中で思いなおし、売店でカレーパンを仕入れる事にした。少し迷い、一つだけ購入する。あの少年の気紛れはもう知っていた。無駄になったら勿体無い。
階段を上り、ドアを開けた。風は少し冷たいが、陽射しは暖かい。日向に居れば凍える事もないだろう。
ぼんやりと周囲を見渡しても、人影は確認できない。先程の選択が正解だった事に安堵し、皆守は感じた虚無から目を逸らした。約束などしていない。ただ、彼があまりに嬉しそうに笑うから、応えなければいけないような気がする。
つまらない虚栄心だ。皆守が空洞である事など、葉佩はとっくに知っている。
手の中の好物を食べる気にもなれず、皆守は床に寝転んだ。空が高い。そんな事はずっと昔から分かっているのに、見る度にそれが悲しくなる。目を閉じても眩しいほどの光に、思わず舌を打った。早く黄昏が来ればいい。そして、永遠に黄昏ならばもっといい。
皆守の耳元で奇妙な音がした。ビクっと体を震わせて身を起こす。音の発信源は、皆守が購入したカレーパンの包装だった。それを破いて中を取り出した音だ。それは既に、皆守ではない男の口に入っていた。数回だけ咀嚼して嚥下する様を、皆守が為す術もなく凝視する。
昼食の窃盗犯が、まるで無邪気な子供のように笑った。
「おはよ、皆守」
「いや、まだ寝てなかった」
「じゃあ俺がここに来たの、気付いてなかった?」
「あ・・・いや、寝てたかも」
「どっちだよ」
「・・・」
「本気で悩まなくっていいから」
会話する間にも、カレーパンは消えてゆく。手から零れ落ちる希望の残骸を見詰める瞳でそれを見ていた皆守に、葉佩が口を止めた。一口分ほど残ったそれを見て、次に皆守を見る。暫しの逡巡の後、意を決したように手の中の物を差し出した。
「・・・あげるから、そんな目で見んな」
「あげるっていうか、それは俺が買ったんだ」
「分かったよ、返すから」
「もういいから、食べろ」
「だってお前、自分がどんな顔してるか分かってる?」
「俺は大体いつもこんな顔だ」
「迷惑!それすっげぇ迷惑!」
ひとしきりり笑った後、葉佩は一口大のカレーパンを更に二分割した。その一つを自分の口に放り込み、もう一つを皆守の手に乗せる。
受け取った欠片を暫し見詰め、皆守は何も言わずにそれを口に入れた。その横で、葉佩がポケットからカレーパンを取り出している。包装を破りながら、葉佩は昨夜の戦いの様子を誇らしげに語った。
葉佩の監視を命じられている皆守だが、その役目は今のところ果たされていなかった。
銃器には維持費がかかる。遺跡を探索するのとは別に、葉佩はいくつかの依頼を同時進行させていた。皆守が見たのは、日銭を稼ぐ為の仕事だけだ。扉を開く時、葉佩は実に巧みに姿を隠す。
皆守の役目を知っているからだ。ずっとそう思っていた。
不意に葉佩が黙った。訝しんで閉じていた目を開くと、カレーパンの袋だけが5つほど風に吹かれていた。袋の中は空だ。葉佩の姿も見えない。身を起こして辺りを見回し、そうしてから近付く気配に気付いた。
ドアを開けたのは取手だった。皆守を見て、以前では決して見せなかった表情で笑う。皆守の横で揺れる空袋を見留め、首を傾げた。
「あれ?誰かいたのかい?」
「・・・いや、一人だった」
「一人で、五つも?」
「育ち盛りだから」
「・・・そうなんだ」
取手が、困惑しながらも頷いた。「野菜も食べた方がいいよ」とだけ言って、皆守から少し離れた場所に腰を下ろす。
「カレーには野菜が入ってる」
「でも、栄養が偏ったり」
「米も食べてる」
「育ち盛りに偏食すると、体を悪くするよ」
「誰が育ち盛りだ」
「・・・」
取手が俯いて膝を抱えた。どうすればいいんだろう、この脳までカレー漬け、と思ったが、口には出さない。そんな無意味な言葉は、口にしても皆守には届かないだろう。しかし代わりに探し当てた言葉も、明確な意味など存在しなかった。
「葉佩君?」
「・・・何が」
「さっきまでここにいたの」
皆守は答えなかったが、取手はそれが肯定である事を察した。10歳以上も年下の少年に敗北し、それでも取手はそれを恥じていない。いっそ誇らしげに、その敗北を受け止めている。
取手は、葉佩が子供だと知っている。思想も信念もなく、ただ与えられる餌の為に武器を取った彼に、憐憫すら向けている。そして取り戻した魂を、その憐れな子供に分け与えようとしていた。道具ではなく、人として生きる事の喜びを教えようとしていた。傲慢だとは思わない。何故なら、彼は子供だから。何も持たない、憐れで弱い存在だから。
未だ己の魂すら判然としない未熟な者に、取り戻した旋律を聞かせる事は、取手の自尊心を刺激した。
「ピアノを、褒めてくれたんだ」
「へー」
「僕の指が、とても速く動くって言って喜んでくれた」
「それは本当にピアノを褒めたのか?」
葉佩は、自ら敗った《執行委員》達とも頻繁に接触しているらしい。そしてその誰もが、人に何かを与えられるという幻を見てい
る。自分が空洞ではないという錯覚は、不純な闇を抱える魔人達を慰めた。
葉佩が叫んだ言葉を、皆守は信じていなかった。子供だけが見る夢のようなものだ。誰かの為に、などと、皆守はもう信じていない。では、昔は信じていたのだろうか。それももう、思い出せない。
ただ、彼が《宝探し屋》である限り、皆守は葉佩の敵だ。このままの勢いで進むのであれば、葉佩の願いは叶うだろう。
葉佩が扉の前で、白鳥のように華麗に一回転した(白鳥が片足で一回転する様など、皆守は見た事がない)。満足気な表情の葉佩の斜め後ろで、皆守はいつものようにアロマを燻らせている。
流れてくる甘い香りを、葉佩は嫌っていた。背筋がざわめくような、不快な気持ちになるからだ。だが、その香りが傍にない夜、葉佩は酷く凶暴な気分になる。そしてその破壊衝動は、時に自分自身にも向かった。精神安定剤などと皆守は言っていたが、もしかして依存性があるのだろうか。
葉佩は、新しい扉を開く時だけは皆守の監視を撒く。
人の形をした墓守に、殺傷する目的で銃を向ける時、何故か決まって浮かぶ姿があった。暖かい陽射しの下で微睡む皆守の姿だ。ふ、と目蓋を開き、葉佩を見留めてゆっくりと目を細め、口角を上げる。あの目にだけは、道具である自分を見られたくなかった。
自分の根拠でもあるその事実を、恥じた事はない。必要とされている人間である、という証明だからだ。しかし浮かぶ幻は、そんな矜持を突き崩した。自分がまるで恥ずべき汚物のように感じられる。それなのに、紫煙が香る度に、葉佩はその発信源に駆け寄ってしまう。不可解極まりない。
クエストを一通り終えた葉佩が、いつものように皆守に駆け寄る。壁の亀裂でロールシャッハテストごっこをしていた皆守の背中に、ドスっという音を立てて衝突した。
思わず揺らいだ重心を、皆守がどうにか踏ん張って持ち堪える。凶悪な眼光で睨み付けても、葉佩は気にせず捲し立てるように喋り始めた。制服の裾を掴み、皆守の体を自分に向けさせようと引っ張る。
「なあ皆守!あの模様、トンボが交尾してるように見えねぇ?」
「・・・見えない」
「俺さ、トンボって好きなんだ」
「ほー、いい情報だな。阿門に報告してやろう」
「ハグロトンボって知ってる?」
「知らない」
「すっげぇカッコイイんだぜ!」
「へー、じゃあそれも報告しとく」
満面の笑みを湛える葉佩に、皆守は嘆息した。報告を受け、それ以上に深い溜息を吐き出す阿門の姿を、皆守はまだ知らない。楽しそうに自分の事を語る葉佩に曖昧な相槌を返しつつ、得られた情報を脳内で並べてみた。
出生は記録にも記憶にもない(浮浪児だったらしい)。
路上で果てる寸前に拾われ、それ以来ロゼッタ協会とかいう(胡散臭い)組織に飼われている。
生き延びる術を叩き込まれ、危険地帯の探索に使われている(使い捨てなのだろう)。
カレーよりハンバーグが好き(所詮は子供か)。
隙を見せると追突してくる(後ろから腰に体当たりするのはやめて欲しい)。
虫歯がない(いい事だ)。
そしてトンボ(特にハグロトンボ)が好き(最新情報)。
秘宝よりも皆守との決闘が優先事項だと言っていたのは、報告しなかった。
葉佩が語った言葉の中には、凄惨な情報も含まれている。その小さい体は、皆守には想像もつかないような痛みを知っているのだろう。憐れだとは思わない。何故なら、葉佩はそれを誇っているから。誇れるものがある人間を憐れだなどと、皆守には言えない。
「皆守ってさぁ、昼間は何してんの?」
「昼寝」
「じゃなくって!ほら、部屋ん中でさ、並んで座ってんだろ?あれ何?」
「・・・集団昼寝」
「マジで!何で集団で昼寝してんの?」
「えーと、集団で寝た方が・・・効率がいいだろ?」
「考えながら喋るのやめろよな」
學園と呼ばれるこの場所が教育機関であるという事に、葉佩はまだ気付いていない。そういった観念が、彼の中に存在しないのだろう。
無垢(?)な子供に誤った情報を与えてしまった事を、皆守は一瞬だけ後悔した。だがすぐに気を取り直し、まだ納得していない表情の葉佩に笑ってみせた。
「昼寝の技術を教える所なんだよ、ここは」
「それは嘘だろ」
真顔で返され、皆守は少しだけ悲しくなった。
地上に戻る時になって、皆守は初めてそれに気付いた。葉佩の歩き方だ。右足を引きずっている。軽やかに床を踏んで化人を惨殺していたように見えたが、どこかで負傷でもしたのだろうか。その事を指摘すると、葉佩は露骨に顔をしかめた。
「今まで気付かなかったんだから、今更どうでもいいだろ」
「いつだ」
「だから、どうでもいいだろ。今日はもう終わり!オヤスミ!」
そう言って踵を返した葉佩が、僅かな段差でよろけた。辛うじて踏み止まったが、明らかに右足を庇っている。
振り向きもせずに立ち去ろうとした背中を、皆守が無造作に掴んだ。その瞬間「ひっ」と息を飲んだ音に、思わず苛立つ。危害を加えられるとでも思ったのか。これだけ無防備に笑顔を向けておきながら、やはり信頼は存在しないのか。一呼吸の後に暴れ出した体を担ぎ上げ、皆守が低い声で凄んだ。
「暴れるな、死にたいのか」
その言葉に、葉佩が喚いていた口を閉じた。
地上に近い場所まで来ていたが、ここはまだ《墓》の中だ。大声で叫べば化人が寄ってくるだろう。痛みを堪えるその様子では、満足に戦闘を行えるとは思えない。そう言ったつもりだったが、葉佩は違う意味に取ったらしい。つまり葉佩は、皆守が自分を殺す可能性を思い出した。
予想以上に重い体を抱えなおし、皆守は無言で地上への道を踏んだ。葉佩は皆守の背中を握り締め、息を殺している。
葉佩は気安く体に触れてくるが、此方が手を伸ばすと警戒する。当然だ。葉佩は、皆守の役目を知っていた。
「いつ怪我なんかしたんだ」
「・・・昨日」
「昨日?ってじゃあお前、ずっと我慢してたのか」
「痛み止めが切れたんだよ!もう下ろせ!歩ける!」
葉佩が担がれたまま、ポケットに手を入れた。それを察した皆守が慌てて手を離すと、小さな体が重力に従って落下した。その手に握られていたのは、幼い手の平には似合わないコンバットナイフ。
突然の落下にも、葉佩は見事な受身を取っていた。衝撃を逃がした動きを、滑らかに攻撃態勢に転じる。だが右足に体重を掛けられないので、その構えは少しだけ歪んでいた。その隙を突く事はせず、皆守が眉をしかめる。
「葉佩」
「・・・うるせぇ」
「お前、いつもどこで寝てるんだ?」
「お前には関係ないだろ」
「まあそうだが」
「そうだろ!どうせお前なんか俺のこと嫌いなんだろ!」
「は?」
「いっつも阿門阿門って言いやがって!」
「いや、そんなにいつもは言ってない」
「言ってる!いっつも言ってる!今日だって言った!」
葉佩が、構えを崩さぬまま顔を逸らす。その足元に雫が落ちるのを、皆守は途方に暮れて見詰めた。
皆守は子供の癇癪に対応できるような人間ではない。しかも、何だか妙な主張をされてしまった。つまりこれは、俗に言う、あの、あれか。「お母さん、僕を見て!」みたいなやつか。誰がお母さんだ。せめてお父さんとか。いや違うだろ。こんな大きな子供を持つような年じゃない。それも違う。
皆守が止め処なく溢れる言葉と戦っている事など知らず、葉佩は主張を繰り返している。
「俺より取手と話してる方が楽しいんだろ!」
「ええと、何となく分かったから、もう黙れ」
「分かってねぇよ!ぜんっぜん分かってない!」
どうしよう阿門。葉佩の主張を尊重し、声には出さずに呟く。そういう問題ではなかったのだが、皆守はもう面倒臭くなっていた。子供に懐かれるような人間でもなかった筈だ、とは思うが、閉ざされた空間で過ごし始めて以来、子供に会う機会もなかった。もしかしたら、自分で思うほど皆守は懐きにくい人間ではないのかも知れない。
顔を背けたまま走り去った背中を追うのも億劫で、皆守は一人残された墓地で空を見上げた。
もうあいつ、《宝探し屋》なんかやめてしまえ。
次に会ったら、いっそ言ってしまおうか。任務なんか放り出して、もっと広い世界に行けばいい。そうすれば、もっと優しい人が、彼の心を満たしてくれるに違いない。そうして、俺の事なんか忘れてしまえ。
葉佩が消えた闇を見詰めたまま、皆守は夜が白むのも気付かず立ち尽くしていた。この呪われた牢獄の中、あの小さな《宝探し屋》はどこで眠るのだろう。
季節は厳しさを増している。寒くはないだろうか。凍えながら、傷が癒えるまでうずくまっているのだろうか。
早く朝が来ればいい。産まれて初めて、皆守は思った。早く冷たい夜が終わればいい。だがそれは、皆守が願っても仕方のない事だ。人がどれだけ祈っても、その時が来るまで日は昇らない。彼の為に、皆守が出来る事など何もない。
葉佩の言うとおり、皆守は分かっていなかった。
初めて知った花炎に、代わる人など存在しない。
皆守が、それを思い知らされる日は遠くない。
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