ピアノに向かい、一度だけ目を閉じる。指先が触れた硬く冷たい鍵盤が、いつもどおりである事を確認する。鍵盤が変化するのではなく、自分の変化で感触が変わるのだ。頭痛に悩んでいた頃よりも、黒と白の規則的な並びを美しく感じた。指先の欲するがままに、モノトーンに色を乗せる。
この瞬間が、永遠に続けばいい。自分が奏でる音を聞きながら、取手はそう思った。
最後の音が余韻を残して空間に消え、取手は顔を上げた。その視界に、数分前までは存在しなかった黒が入る。一曲を弾き終えた取手を、葉佩が無表情に見ていた。
「あ、葉佩君、いつから居たんだい?」
「2分33秒前から」
「ぜんぜん気付かなかったよ」
「俺が気付かせないようにしてたんだよ」
幼い頬には似合わない大人びた表情で、葉佩が取手の手元を覗き込んだ。手にしていた楽譜を、葉佩の身長に合わせて低くする。葉佩は暫くそれをじっと見詰め、やがて一つの記号を指差した。
「これが、ド?」
「あ、それはヘ音記号って言ってね」
「違うんだ」
「うん、これがある時は、ここがFになるんだ」
「えふ?」
「ええと、この音、つまり、あのね」
音を出しながら、取手が言葉を探す。記号の意味をより正確に伝えようとする取手の手を、葉佩は無表情に見ていた。凪いだ湖面のような瞳に、何故だか急かされているように錯覚する。Fの音と記号の関係を、どうにかして彼に伝えたい。その時、取手の頭はそれだけで一杯だった。
もどかしげに言葉を探す取手を遮って、葉佩が結論を口にした。
「つまり、低くなるんだ」
「あ、うん、そうだね」
説明には全く足りていない言葉でも、葉佩は往々にして理解してしまう。乾いたスポンジが水を吸うように、葉佩は知識を驚くべき早さで吸収した。
時々取手は、本気でこの子供が恐ろしくなる。同時に、目を見張るような頭脳をここまで乾いたままにしておいた世界に、憎しみすら感じた。求めているのに、それが得られない。そんな思いを、この小さな体はずっと噛み締めていたのだろう。彼に差し出せるものがある、という幸運に、取手は感謝していた。
「なんで『ヘ』なの?」
「ああ、日本では昔はイロハって言ってたんだ」
「イロハって?」
「ええと、何だっけ、あの、歌だよ」
「歌?」
「いろはにほへと、ちりぬるをって聞いた事ないかな?」
「ない」
これがジェネレーションギャップだろうか。一般常識だと思っていた知識が、葉佩には通じない事がよくある。違うのは世代だけではないのだと、取手は漠然とだが察していた。住む場所が違うのだろう。それを悲しいを思うのは、傲慢だろうか。
「色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず」
日本人なら誰でも知っている歌を、小さな声で諳んじる。たったそれだけで葉佩は驚き、喜んだ。容赦なく刺激される自尊心がくすぐったい。そして、彼の表情を引き出せた事に、訳も分からず誇らしい気持ちになる。
口の端を上げて「すげぇな」と言った顔は、それでも控えめな表情しか浮かべていない。葉佩が声を上げて笑う様も、涙を流すのも、取手は見た事がない。
子供は子供らしく、などという思想は持ち合わせていないが、それでも起伏の穏やかな葉佩を、どうしても憐れに思ってしまう。如何なる影響をも受けず、安定しているように感じてしまうのだ。
生物が最も安定している状態とは、即ち死だ。安定とは不変だ。不変とは終了だ。眩むほどの可能性を見る筈の幼い目は、自分の死期を見詰めている。取手にはそれが、どうしようもなく悲しかった。
仕入れた情報をH.A.N.Tに打ち込む葉佩を、そっと盗み見る。生きる事は即ち苦しみだと言い放つその思想を、彼はどう受け止めているのだろう。
花は散る。誰もがいつか死ぬ。険しい山を越えるように今日を終える。夢になど酔えもしない。
悲しい歌だ、と、取手は思う。それが真実だというならば、真実など自分にとっては無価値だとさえ思う。
葉佩が、打ち込みのついでに目を通した情報に没頭し始めた。こうなってしまっては、取手の言葉は届かない。全ての刺激を遮断して、葉佩は思考に沈んでしまう。それを知っていた取手は、再びピアノに向かった。
記憶の中の旋律を追いながら、取手は数ヶ月前の夜を思い出していた。
扉が開き、小さな影が滑り込んだ。それとほぼ同時に、乾いた発砲音がした。攻撃された、と認識した時には、腹に銃弾が埋まっていた。異形の力を有した体は、それでも生命活動に障害を及ぼす事はない。いつものように手の平を翳す。指の隙間から瞳が見えた。
その瞬間の恐怖を、取手は今でも憶えている。
命知らずの墓荒らしなら、以前にも何度か見た。人の形をした《墓守》に戸惑う者もいた。逆に、咆哮を上げんばかりに昂揚した者もいた。至って冷静に、黙して武器を取った者もいた。
侵入者に恐怖したのは、それが初めてだった。
視線を上げれば、あの夜と寸分違わぬ表情の葉佩が見える。深く思案しているようにも、眠たげにも見える、その表情。文字を読むのも、人に銃を向けるのも、葉佩にとっては同じ事なのだろうか。先に進む為に情報を仕入れ、立ち塞がる壁を壊す。きっと、同じ事なのだ。
それでも、と、取手は思う。取り戻した旋律に、葉佩は笑みを浮かべる。ピアノを弾いていると、いつの間にか部屋の隅に佇んでいる。取手にとって当たり前に存在する音楽という喜びは、葉佩に何かを与えている。そう信じていた。
そろそろ授業が始まる。そう言おうと再び顔を上げると、葉佩は来た時と同じように、一切の動作を感知させずに消えていた。溜息をつき、ピアノを閉じて腰を上げる。
彼も何か楽器をやればいいのに。思ったが、口に出す勇気はない。自分の喜びが他人にとっても喜びだなどと、取手はそこまで無知ではない。だが、喜びを共有するという想像は得難く心地好かった。
同時にそれが、異なる資質を有した生物に、自分を投影するだけの空虚な行為にも思える。人ではない生物が、人と同じ感情を持っていると信じるような傲慢を感じて、気が重くなるのを自覚する。
異形に恐怖するように、葉佩に恐怖している。その事実に思い当たったのだ。
彼の心を震わせるものは、どこにあるのだろう。そんな事を考えながら廊下を歩いていたら、階段で皆守と出くわした。これから授業が始まるのに、皆守は3階から更に上に向かっているようだ。
「授業、もうすぐ始まるよ」
「そうだな」
それだけ言って、皆守はゆらゆらと階上に消えた。
彼もまた、この年にしては老成しているように見える。眠たげなその目は、ここではないどこかを見詰めているかも知れない。欲するものが、この世界には存在しない事を知っているような、そんな瞳。
教室まで数歩を残した所で、取手は踵を返した。階段を上り、屋上に続くドアを開ける。予想違わず、皆守はそこにいた。ぼんやりとした目付きで取手を見返す。
「授業が始まるんじゃなかったのか?」
「いや、ええと、僕も、たまにはサボってみようかな、なんて」
「やめとけ」
「説得力の欠片もないよ」
「俺はいいんだ」
口の端を上げて見せてから、ライターを擦る為に視線を落とす。風除けの手が、その顔の大部分を隠した。
何が「いい」というのだろう。社会的評価も、得られる知識も、彼にとっては価値のない事なのだろうか。では、彼が認める価値とはどこにあるのだろう。
さらされた白い首筋に、取手がふと眉を寄せた。通常は襟に隠されている部分に、赤い跡が付いている。
指摘すると、皆守の眼光が尖った。だが何も言わず、さりげなく襟を正す。見てはいけないものだったのかも知れないと、その動作で漸く気付いた。
「あ、いや、ごめん、忘れるから」
「待て、いま何を想像した」
「なんでもないよ」
「噛み付かれたんだよ」
「誰に?」
「・・・犬」
それが嘘ではないとしたら、比喩だろうか。取手は咄嗟に、狂犬と囁かれる《生徒会》に所属する下級生を思い浮かべた。どんな状況だ。声には出さずに自分で突っ込み、その可能性を否定する。しかし、それに代わる人物は思い当たらない。
首を傾げる取手に、皆守が低い声で言った。
「運ぼうとしたら噛み付きやがったんだ」
「運ぶ?」
「面倒臭くなったから」
「あの、ごめん、よく分からないんだけど」
「気にするな」
「いや、気になるよ」
常になく突っ込んでくる取手に、皆守が顔をしかめた。
面倒臭くなって犬を運ぼうとしたら噛み付かれた。取手は脳内で情報を整理してみたが、皆守はもう少し伝える努力をする必要がある、という結論しか出てこなかった。無茶な注文なのだろうか。
「ええと、犬は、どこの犬?」
「・・・さあな」
「野良犬かな?」
「いや、飼い犬だろ」
「校内で犬なんて見た事ないけど」
「俺はある」
「夷澤君とか?」
「さりげなく酷いなお前も」
どうやら躱されてしまったらしい。口下手な自分が悔やまれる。
追求を諦めて、空を見上げた。その瞬間、一人の影が脳裡をよぎった。訓練された猟犬のような、冷たい瞳を思い出す。
「葉佩君?」
「何が」
「噛み付いたの」
「・・・」
皆守の沈黙は肯定だ。最近になって、取手はそれを学習した。
なんだろうこの人達。仲がいいのだろうか。あの葉佩と、この皆守の、仲がいい?
唐突に降って湧いた仮説に、取手は思わず頬を引き攣らせた。それを見た皆守が、更に目付きを尖らせる。
「おい、なんだその顔」
「え、あ、いや、別に」
「なに考えてやがる」
「・・・ええと、仲がいいのかなぁ、なんて」
「いい訳ないだろ」
「そ、そうかな?」
「運ぼうとしただけで噛み付かれたんだぞ」
「何で運ぼうとしたんだい?」
「いや、なんか知らんけど泣くから」
「泣く?」
「唐突に泣き出すだろ、あいつ」
「泣く?泣いた?葉佩君が、だよね?」
「・・・よく泣くだろ?」
当然の事のように言う皆守を、呆然と見詰めた。そして、取手は自分の愚かさを痛感した。愛を奏でる旋律に、じっと聴き入っていた幼い姿を思い出す。あの少年は、恐ろしい化物などではなかった。
嬉しそうに笑った取手を、皆守は怪訝な表情で見ている。
葉佩がその想いを遂げるのは、容易な事ではないのだろう。
小さな《宝探し屋》の悲哀を思い、せめてその心が安らぐよう願った。
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