葉佩にとって、18歳とは大人の年齢だった。幼い自分よりも遥かに多くの知識を持ち、正しい判断を行える存在なのだと思っていた。同時に、長く生きるという事の苦痛も、漠然とだが感じていた。
命には限りがある。
葉佩は、自分が大人になる前に死ぬだろうという、希望にも似た予感があった。老人を憐れんでいたからだ。
過去を懐かしみ、見上げる事を忘れた人間。空から目を逸らす為に幼い者を見下す人間達を、吐き気がするほど軽蔑していた。感情は衰え、思考すら放棄し、我が身を嘆くだけの存在になど、決してならない。
嘆く事は即ち敗北だと、そう信じていた。
時刻は20時38分。皆守は2分ほど前に、着替えとタオルを持って部屋を出た。入浴に間違いないだろう。それを確認し、葉佩は行動を開始した。
廊下では人目がありすぎる。そう判断し、窓からその部屋に近付く。 小さな突起を利用して窓の外に立ち、葉佩はポケットから小さな工具を取り出した。
葉佩の目から見れば、居住空間というものは隙間だらけだ。慎重に、工具から伝わる感触に神経を集中させる。程なくして開錠された窓を、音を立てぬよう留意しながら開けた。
主人に無断で立ち入った部屋は、心臓を締め付けるような甘い香りで満たされていた。無意識に深く息を吸い、室内を見回す。明かりは消されているが、全くの闇ではない。
一通り部屋の検分を終え、抽斗を物色する。メーカーの異なるレトルトカレーが大量に出てきたのは予想通りだが、それでもやはり少々呆れた。カレー好きすぎだろあいつ。分かってたけど。呟きつつ、幾つかポケットに入れる。
次のターゲットを探して再び部屋を見回し、ふと目に付いたのはベッドだった。
実を言うと、葉佩はもう長い間ベッドで眠っていなかった。柔らかいシーツの感触を思い出そうとして、それよりも手っ取り早い方法に気付く。
手の平で、そっと触れてみた。香りが強くなったような気がする。抗うのは不可能だった。そのまま、甘い香りのシーツに身を預ける。芳香は優しく体を包み、毛布が心地好く肌を撫でた。
皆守のベッドであるという事実が脳裡をよぎり、完全に意識を手放す事だけは踏み止まる。手を伸ばし、枕をそっと引き寄せてみた。顔を埋めると、芳香が柔らかく鼻腔を刺激する。葉佩の心拍数が、徐々に上がっていた。
皆守は、葉佩を排除する義務を負った人間だ。紫煙に霞んだ瞳が高温の光を発する瞬間を、葉佩は確かに見た。知覚すら不可能な速度で急所を押さえられたのは、遠い記憶ではない。
体を包む甘い香りが、その記憶を揺さ振った。精神がまるで戦闘中のように昂揚している。いつの間にか、葉佩の手はシーツの端を握り締めていた。
彼と向かい合う自分の姿を想像する。
どうやってあの攻撃を躱そうか。正面からでは無理だ。彼は目もいい。爆破で気を逸らして背後に回り込み、そこから狙撃するのはどうだろう。
地に伏した体を思い描く。泣くだろうか。屈辱と恐怖を浮かべて命乞いをするのだろうか。或いは、諦めて笑うだろうか。そうだとしたら、絶対に許さない。泣くまで殴ってやる。
どうやってとどめを刺そう。銃は駄目だ。遠すぎる。ナイフにしよう。仰向かせて、肩を押さえて、間近で瞳を覗き込んで、最期の瞬間までそうしていよう。
芳香を深く吸い込む。浮かんだのは、陽射しに目を細める彼の横顔だった。大きく腕を伸ばし、ついでに関節を鳴らす。欠伸をする為にパイプを口から離し、先程からずっと見ていた自分に、漸く気付く。少しだけ目を見開いてから、まるで陽射しを見る時のように目を細める。
あの眼差しが失われた世界など、想像すら出来ない。彼のいない数ヶ月前の世界で自分がどうやって生きていたのか、葉佩はもう思い出せなかった。
枕に顔を埋める。
甘い香りは嫌いだった。心臓が嫌な音を立てる。その音はきっと、自分を危険にさらす。葉佩は確信していた。この感情は、取り返しの付かない事態を引き起こす。
死の覚悟を終えたのは、もう思い出せないほど昔の事だった。或いは、覚悟というよりも諦観といった方が相応しいかも知れない。世界に果てがある事を、葉佩はもう知っていた。皆守は最果てだ。絶望を見るように、葉佩は湧き上がったその言葉を見詰めた。
「何してんだお前」
不意に降ってきた声に、葉佩が毛布にくるまったまま飛び上がった。接近は疎か、部屋に入ってきた事にすら気付けなかった。彼が敵だったなら、間違いなく死んでいた。あれ?敵じゃなかったっけ?生きてるぞ俺。
葉佩が、混乱したまま声の発信源に視線を向ける。風呂上りの皆守が、いい香りを漂わせて立っていた。
「おい、汚れた服でベッドに入るな」
「え、いや、そんなに汚れてないよ」
「そうか?そういやお前、風呂はどうしてるんだ?」
「水ならいっぱいあるよ、ここ」
「・・・水かよ」
それ以上は何も言わず、皆守はベッドの上で寝転んだままの葉佩を、足の裏で押した。押された葉佩が抵抗せずに壁際に寄ると、空いたスペースに突っ伏した。
逃げる事も不可能なほど接近した芳香に、葉佩が慌てて身を起こす。同時に跳ね上がった毛布を引き寄せ、皆守が何事か呻いた。しかし自分の心臓の音が煩くて、その言葉までは聞き取れなかった。
数分前に抱き締めた枕に、皆守が頬を寄せている。静かなる恐慌に陥った葉佩に、皆守は微睡みを含んだ瞳を向けた。
「おい、詰めろ。狭い」
「・・・あ、うん」
どうにか声を出す事には成功したが、体は全く動かなかった。
投げ出された爪先に、湯を浴びて熱を持った指が触れる。それがまるで灼熱のように感じられて、葉佩が思わず身を硬くした。死ぬかも知れない。この熱に焼かれて、心臓が止まるかも知れない。いやその前に、きっと全てが溶かされるだろう。
脳が勝手に言葉を形作る。だがそれを理解するより早く、皆守が呟いた。
「冷たいな」
「は?何が?」
「お前が」
「え、あ、俺?いや、俺は普通だと思うけど」
灼熱に足首を掴まれたまま、葉佩が逃げ道を探す。兎に角、ここから離れなければ。葉佩は、やっと自分が恐怖している事に気付いた。
耳の傍で、奥歯が音を立てる。熱い。怖い。だがそれ以上に、空間に満ちる香りが葉佩を追い詰めた。
柔らかい陽射しと、石の床を叩く靴音を同時に思い出す。そのどちらにも、紫煙が揺れていた。そして今、葉佩は紫煙の甘い香りに包まれている。背には壁、目前には微睡む人。逃げ場はない。
皆守が、未だ葉佩に撒き付いていた毛布を引っ張った。離れてゆく温もりに、葉佩が思わず手を伸ばす。
「・・・寒いのか」
「いや、別に、そういう訳じゃないけど」
「お前、いつもどこで寝てるんだ」
「ああ、ええと、木の上とかで、固定して」
「ふうん」
さして興味もなさそうに、皆守が吐息で応える。その目蓋は、もう半分ほど落ちていた。まだ僅かに湿った髪が枕を撫でている。ほんの数分前に、葉佩はその枕に顔を埋めた。その事実に耐え切れず、葉佩はその枕を掴んで床に叩き付けた。
予想外の行動に、皆守が顔を上げる。奪われた枕を見て、次に葉佩を見た。大きな衝撃もなく床と衝突した愛しの寝具を、ベッドの上から限界まで腕を伸ばして拾い上げる。
「・・・なんのつもりだ」
「寝るなよ」
「無茶言うな」
「俺は《宝探し屋》だぞ!」
「それは知ってる」
「じゃあ何で寝るんだよ!」
「眠いから」
間髪入れずに返った言葉に対する反論を咄嗟に見出せず、葉佩が口を閉じた。
睡眠は生物にとって必要不可欠なものだ。睡眠不足は判断力や動作を鈍くする。良質な睡眠は、生きる上でも欠かせない。だがそれは、無防備に体をさらけ出す行為だ。思考も行動も、全てが働かなくなる。そんな状態を敵に晒すなんて、正気じゃない。
「俺がいるのに、なんで寝るんだよ!」
「誰がいようと、俺は寝る」
「そんな誓い立てんな!」
「いや誓いっていうか、眠いんだが」
「はえぇよ!まだ9時前だぞ!」
「子供は寝る時間だな」
「真っ先にお前が寝てんじゃねぇか!」
枕の両端を引き合いながら、二人がベッドの上で睨み合う。
葉佩が口を閉じた。叫び疲れたのだ。その隙を見逃さず、皆守が目を閉じた。野郎、頑ななまでに寝る気か。そっちがその気なら、やってやる。心中で呟くと、葉佩は横たわる無防備な体に全体重を落とした。皆守が濁った声を発し、一瞬後に激しく咳き込む。
「げっほ・・・てめぇ・・・」
「俺の前で寝るって事がどーゆー事か分かったか!」
「餓鬼だと思って甘い顔してりゃあいい気になりやがって・・・」
凶悪な眼光に貫かれても、葉佩は視線を逸らさなかった。ベッドから叩き落そうとする手を躱し、皆守を覆っていた毛布を掴む。引き寄せた毛布を素早く自分の体に巻き付け、シーツにしがみ付いた。
襟首を強い力で引っ張られたが、それでも手加減されているのを感じる。屈辱だ。見下されている。シーツに額を擦り付け、葉佩は固く目を閉じた。
深く息を吐いた音が耳に届き、葉佩が毛布から目だけ出して皆守を見た。
「せめて毛布を返せ。半分はやるから」
「半分じゃ嫌だ。全部欲しい」
「体積が半分なんだから、全部は必要ないだろ」
「そこまで小さくねぇ!」
「あー分かった分かった」
言いながら、皆守が葉佩の頭を乱暴に掻き混ぜた。それを振り払い、同時に毛布も払い除ける。顔を上げぬまま皆守を跨ぎ、ベッドから下りた。皆守が、拍子抜けしたようにそれを見ている。
「どうした?」
「全部くれないんなら、もういらない」
「そうか」
「お前をどうやって殺そうかって考えてた」
「は?」
「さっき、ベッドで」
「・・・」
皆守が、少しだけ目を細めた。その目だ。
葉佩は訳も分からず泣きたくなった。憐憫は、即ち屈辱だった。我が身を誇る人間を、どうして憐れと思うのか。生きる術を有し、無残な屍を鍛え抜いた足で踏み越え、葉佩はずっと歩いてきた。生きているのなら、嘆くべきではない。
嘆く事は即ち敗北だと、そう信じていた。
「可哀想な奴だな」
そして葉佩は敗北した。
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