赤く、どこまでも悲しみを誘う夕暮れだった。
 ここはどこだろうと、答えを探すのではなくぼんやりと思う。知っているような、知らないような景色の中で、緋勇はただ漫然と空を見ていた。
 緋勇がその赤を夕焼けだと思った理由は、傍に子供がいたからだ。朝焼けの時間に子供がこんな場所にいるのは、不自然だと思ったから。
 少しだけ安堵する。これは終わりを告げる赤だ。もうすぐ世界は終わる。この子を悲しませている世界は、もうすぐ終わる。

 うずくまって微動だにしない子供を、視線だけ動かして観察する。明るい色の髪は夕空に似ていて、どこか懐かしい。ひどく荒んだ目をしていた。裏切られたような目をしていた。悲しみと怒りが幼い瞳の奥で炎のようにゆらめいていた。
 子供はこちらを見ない。見えていないのだろうか。見えるが無視しているのだろうか。声は聞こえるのだろうか。たとえ聞こえていたとしても、かける言葉は見当たらないのだが。傷ついてひとり夕暮れにうずくまっている子供に、かける言葉を緋勇は持たない。

 どれほどの時間が経ったのか、それさえも分からない。ただ、空は変わらず赤かった。不意に子供がささやいた。

「そんなとこで何してんだお前」

 それはこっちが言いたい、と緋勇が言うより早く、子供の瞳がこちらを見た。真直ぐに、貫くような強さで。
 この子供は悲しんでいるのではない。怒っているのだ。幼くも燃え上がるような瞳に見詰められながら、緋勇は理解した。この子供にはその方が似合う。悲しみよりも怒りを、慟哭よりも鬨声を。怒りは痛みを凌駕するのだと、その幼い背中は証明しているように感じる。根拠はないが。

 刃のような瞳が、まぶしそうに滲んだ。微笑んでいるような、懐かしいものを見るような、やさしい目になる。そんな目に、いつかどこかで見詰められたような気がする。

 どこまでも。
 心の奥で声がする。お前となら、どこまでも。

「お前、強そうだな」

 子供が、今度こそ微笑んだ。抱えた膝に顎を乗せて、いとおしむように緋勇を見る。痛みを伴う憧憬は、およそ幼い頬には似つかわしくない。もう得られないと知っているような、寂しい微笑みだった。

「いいな、俺も強くなりてぇな」
「なってどうする」

 問いを投げると、瞳はふいと逸らされた。惜しいような、安堵したような、不思議な心地で緋勇も視線を空に戻す。
 この夕焼けは、いつになったら終わるのだろう。この子供は、いつになったら帰れるのだろう。

「なあ、触ってもいいか?」
「は?」
「駄目か?」
「何に?」
「お前に」

 いきなり何を言い出すのかと少しだけ戸惑ったが、触れられて特に不都合もない。遠慮がちに伸ばされた手を、緋勇は無言で受け入れた。
 ひたりと皮膚に触れた手は冷たかった。この子は、どれだけの時間をここで過ごしていたのだろう。寒いとは感じなかったが、いつの間にか気温が下がっていたらしい。
 こつんと、腹の辺りを拳で小突かれた。痛くはないが、くすぐったい。それでもじっとしていると、子供の手はするりと肌を撫で、肩を通って腕から緋勇の手に移動した。

 そうしてから、ようやく気づく。子供は思っていたほど幼くない。むしろその体は、戦士のように昂然としている。大きな手は厚くて硬い。小さな子供に見えたのは、自分が異形だからだと、緋勇はようやく自覚した。
 緋勇の全身を覆うのは、皮膚ではなく鱗だった。子供がその手で触れた爪は、鋭く湾曲した鉤爪だった。

 そういえば、と思い出す。自分はもう人間ではなかったのだと。器に満ちた膨大な氣は、いつしかこの身を食らい尽くしたのだと。どうして忘れていたのだろう。

「きれいだな」

 無邪気に微笑む子供は、本心からそう言って緋勇を見上げた。
 この鉤爪のついた手では、もうこちらからは触れられない。彼が手を伸ばしてくれるのを待つしかない。いつだったか、撫でた髪は柔らかかった。この手で触れれば、きっと壊してしまう。
 それならば、この子供は俺が守ろう。彼を傷つけるすべてものもから守ってやろう。悲しみも怒りも、すべて呑み込んで包んでやろう。
 それをそのまま口にすると、子供は急に不機嫌な顔になった。どうやら彼の誇りを傷つけてしまったようだ。彼を傷つけるすべてのものから守ろうと決意した矢先に、緋勇が彼を傷つけてしまった事になる。

「別に、俺は傷ついちゃいねぇよ」
「泣きそうに見えたが」
「うるせぇよ、気のせいだ」
「ああ、怒ってたのか」
「そうだよ、分かってんじゃねぇか」
「どうしてそんなに怒ってるんだ?」
「やっぱ分かってねぇな」

 先程よりも強く、鱗を殴られた。痛くはない。むしろ殴った手の方が痛そうだ。だが子供は拳をほどかず、真直ぐに掲げ上げた。胸の前に突き出した拳が、夕日に照らされて赤くかがやく。瞳までもが燃えるようだ。

「俺は怒ってんだよ」
「そうか」
「お前に、怒ってんだよ」

 ぎらりと瞳が熱を発した。すべての痛みを力にかえて、悲しみさえも食らい尽くして、この子供は立っている。それならば自分は必要ないと、緋勇はわずかばかり落胆する。彼の為に戦えたら、きっと誇らしかっただろうに。
 子供がふと拳を下ろし、深い溜息をついた。

「っとに人の話し聞かねぇ奴だな」
「いや、だいたい聞いてるぞ」
「聞いてても理解してねぇだろ」
「それはお前の話しが分かりづらいからだ」
「分かれよばか!」
「だから何を」
「だから、俺はお前が爬虫類でもいいんだよ」
「俺は爬虫類じゃない」
「え、龍って爬虫類じゃねぇのか?」
「む、そうか、考えた事もなかったな」
「なんか蛇とか、そんな感じっぽい」
「そういえば、鯉が登龍門を通過すると龍になるという言い伝えがあるな」
「鯉ってこたぁ、じゃあ魚か」
「そうだな」
「お前、変な事だけは知ってるよな」

 終わらない夕焼けの中で、子供が空を見た。諦めたようにゆるく笑う。
 そんな感情は知らないままでいて欲しかった。どこまでも愚かしく信じていて欲しかった。自分は世界の中心に立っていると、思ったとおりに世界は動くと、望めばすべて叶うのだと、信じていて欲しかった。
 得られないと知っている子供が、それでも微笑んだ。寂しそうに、悲しそうに。

「だからさ、お前が魚でも蛇でもトカゲでも、俺は別にいいんだよ」
「トカゲでもいいのか?」
「いいよ」
「俺は、あまりトカゲになりたいとは思わないが」
「でも、なっちまったらしょうがねぇだろ?」
「まあ、龍になってしまったのは、しょうがないと思ってる」
「うん、でもさ、お前は許せねぇな」
「龍は駄目か?」
「龍っつーか、お前が」
「角があるからか?」
「だから聞けよ人の話しを!」

 ばちっと音を立てて鱗を叩き、直後にその手を抱えてうずくまり、痛みに耐えるような顔でしばし沈黙し、子供は再び立ち上がって緋勇を見た。
 瞳の水が、すぐに終わると思っていた夕焼けを映してきらきらと光る。どうやら涙ぐんでいるらしい。いっそ泣いてしまえと、緋勇はひどく凶暴な気持ちになった。
 彼が絶望して泣き叫べば、きっと迷わずに行ける。彼が諦めてしまえば、緋勇はもう二度と振り向かない。それなのにこの子供は、緋勇に語りかける。いつまでも沈まない太陽のように、何度でも顔を上げる。

「いいかよく聞けよ」
「だから聞いてるだろう」
「お前は聞いてんじゃなくって、聞き流してんだよ」
「成る程」
「納得すんな、ほんと殴るぞお前」
「上等だやってみろ」
「すんません調子に乗りました」
「聞いてやったぞ、もういいか」
「まだなんも言ってねぇ!」
「前置きが長いな」
「お前が話の腰を折るからだ!」
「お前の腰も折ってやろうか」
「なんでだよやめてください!」
「細いな」
「そんな目で俺を見るな!」
「お前はまったく、聞けと言ったり見るなと言ったり」
「だから、お前は、あの、俺はお前が、ええと」
「まとめてから喋れ」
「お、おう、ちょっと待ってくれ」
「分かった」

 頷いて空を見る。
 ところで夜はまだか。この夕焼けはいつ終わるのだろう。いつまでも終わらないのだろうか。だとしたら、この子供はいつまでも帰れないのではないか。悲しみも怒りも消えず、傷も癒えず、世界の終わりを見詰め続けるのではないか。安らぎ眠る夜は、永遠に来ないのではないか。

 どこまでも。
 心の奥で声がする。お前となら、どこまでも。たとえそれが永遠でも。
 過去なのか未来なのか、夢なのか現なのか、始まりなのか終わりなのか。いずれにせよ、遠い時だという確信だけがこの胸に落ちる。空のように遠く、まぶしい。
 どこまでも。

 もう何度目か、子供が緋勇を見た。空のような瞳だと、切なく思う。

「ええと、あのな」
「まとまったか」
「いや、なんかもうよく分かんねぇや」
「気にするな、俺もだ」
「そうかよ」
「何をそんなに怒ってるんだ」
「怒ってねぇよ」
「さっきは怒ってたぞ」
「もう怒ってねぇよ」
「悲しいのか」
「そうじゃねぇよ」
「どこか痛いのか」

 子供が無手を固く握り、唇を噛んで俯く。やがて恐れるように、硬い手がそっと鱗に触れた。

「いいんだよ」
「いいのか?」
「お前がいいんなら、もう」
「俺が?」
「もう終わりでいいって、本気で思ってんなら」
「終わらせたいのはお前じゃないのか」
「俺が、なんで?」
「ずっと夕焼けにいるのは、寂しいだろう?」

 子供が息を止めたのが、見えはしないが察せられた。「ばかだな」と小さく呟く声が聞こえて、何をいきなり、と思ったが言わずに尻尾を揺らした。鱗を撫でていた手が、ぎゅっと握り締められる。「ばかだな」と、また言われた。甘くやさしい声だった。

「いいんだよ、俺は夕焼け嫌いじゃねぇから」
「そうか」
「お前に似てる」
「そうか?」
「金色で、きれいだ」
「終わらなくても、いいのか?」
「お前を忘れるぐらいなら、ずっとここにいる」
「眠れないぞ?」
「うん」
「朝も来ない」
「うん、いいよ」
「でもそれだと俺が気に食わないから」
「あ?」
「やはりお前は帰れ」
「え、ちょ、ま」

 尖った爪で傷つけぬよう、そっと子供の胸を押す。小さな体はたやすく浮いて、瞬く間に夜へと落ちていった。
 あとに残された緋勇は、これでやっと眠れると安堵して、次の器が産まれるまでのほんの短いまどろみに落ちた。













こっちを先に書きました。