ほのかに明るい地下の闇の中、夷澤と皆守は扉の前にいた。《生徒会》に所属しているとはいえ、与えられた義務を遂行する目的以外で《墓》に立ち入る事は許されない。《執行委員》が侵入者の死を告げたのであれば、それを詮索するのも規律に反する。しかし二人にとっては、《學園》の規律よりも尊ぶべきものがある。自分自身の感情だ。
「・・・重装備っすね」
「寒いんだろ。当たり前だ」
「雪山にでも行くつもりっすか?」
「そんな気分だ」
意味もなくひそめた声で言葉を交わしつつ、眼前の扉を開ける。直後、身を切るような冷たい空気が二人を包んだ。皆守が一瞬だけ硬直し、思い直してのろのろと歩を進める。立ち入ったことを早くも後悔し始めているようだ。あー寒いマジ寒いつーか眠い冬眠したい、などと、マフラーに埋もれた口元が不明瞭な発音で呟いている。
「先輩、ぶつぶつ言わないで下さい」
「そろそろ限界なんだが」
「早ぇよ!あ、あの梯子のぼりますよ!」
「なんでお前そんなに元気なんだ」
「若いっすから」
「そうか、羨ましいな」
梯子を上ると、腹が立つほど愉快な猿と目が合った。構える間もなく、ご機嫌な奇声を発しながら襲いかかってくる。
舌を一つ打ち、応戦する為に夷澤が床を蹴った。短く息を吐き、小さな気合と共に拳を放つ。顔面に硬い拳を受けた猿が動きを止め、二撃目の右フックとおまけの肘を受けて事切れた。続いて背後に迫っていた二匹目の猿に裏拳を叩き込み、遠心力を乗せて中指の第二関節を米神(らしき場所)に突き刺す。
「おお、頼りになるな」
「先輩もちょっとは動いてくださいよ!」
「分かった、アロマ吸っといてやる」
「意味が分かりません」
「うとうとする確率が上がるんだ」
「意味が分かりません」
「あいつだったら泣いて喜ぶぞ」
「意味が分かりません」
角を曲がり、刃を持った二体の化人も秒殺する。殲滅したか、と夷澤が軽く息を吐いたその瞬間、死角から現れた鋭い毒針が夷澤を正面から捉えた。気を抜いた体は知覚から動作へと移る際に僅かなタイムラグを生む。コンマ数秒後の結果を予想し、夷澤は脳裏で自分を罵倒した。
「あー眠い」
言葉どおりの声が聞こえるとほぼ同時に、背中に鈍い衝撃を受けた。体重を支えていた軸足が揺らぎ、重心が移動して上半身が捻れる。結果、毒針は空を切った。咄嗟に伸びきった尾を掴み、八つ当たり気味に壁に叩きつける。ついでに自分への罵倒も叩きつける。
ボクサーのやり方じゃないな、という呟きは聞かなかった事にして、夷澤は今度こそ殲滅を確認した。辺りを見回し、ついでにちらりと、隣に突っ立っている皆守に視線を流す。
「・・・どんなかけ声だよ」
「凍気を出すな、寒い。そして眠い」
「眠いんすか?」
「眠い」
「一応、あの、あざっした」
「何が」
「助かったのは、まあ、助かりました」
「そうか、それはよかった」
「・・・はい」
「まあ、眠かっただけなんだが」
「や、それはいくらなんでも無理でしょう」
戦闘の場に相応しくない言葉を聞いた気がするのだが、助けられたのは事実だ。腑に落ちないものを感じつつ、夷澤は借りを返す機会を待とうと心に決めた。
気を取り直して歩を進める。『その場所』が近付くにつれ皆守の視線が焦点を失って行く事には、気付かない振りをした。皆守が壊れてしまったのかと考えるのは、少しだけ怖かった。或いはもう既に、そんな風に考えてしまいそうで、夷澤は思考を止めようと足を速めた。
永遠の冬の国を、二人は無言で歩く。
敗北した戦士が、膝を付いて許しを乞うている。無様な姿を晒し続けるその者の、真の姿を知る術はない。もしかしたら、と夷澤は思う。敗北して逃れ着いた最期の地こそ、彼の故郷だったのではないか。本当はずっと帰りたかったのではないか。
太古の真実など、知る術はない。
「・・・俺が」
不意に皆守が呟いた。しかし先程から飽きもせずに繰り返している寒さへの雑言かと思った夷澤は、それを黙殺した。皆守は虚空を見詰めたまま続ける。
「俺が殺す筈だったのに」
それが独白であると同時に告白である事に気付いた夷澤が、振り向いて皆守を見た。
「俺にはできないとでも思ってたのか?
できない訳ないだろ。本当は分かってたんだろ?
それとも分かってなかったのか?」
知らなかったのか?
だから俺のベッドで寝たりとか、そんな莫迦な事したのか?」
「え、あいつ皆守先輩のベッドで寝てたんすか?」
何やら聞き捨てならない発言に思わず声を上げるが、皆守は反応しない。視線をさまよわせ、低い声で、誰もいない空間に問い続ける。それとも、夷澤に見えないだけで皆守には見えているのだろうか。
「なんでもっと早く殺さなかったんだ。
できたはずだ、俺がいたんだから。
俺はその為にいるんだから。
・・・阿門は、なんで俺に命令しなかったんだ」
唇から言葉と同時にアロマパイプが落下して、場違いに美しい音を発する。音が鳴り終わった時には、皆守は顔を手で覆い座り込んでいた。
命令さえあれば、皆守はためらいなく葉佩を殺しただろう。自分では何事をも断ぜられず、その代わりに絶対的な支配を受ければ、それがどれほど残酷な行為でも、無心に、いっそ誇らしげに完遂してみせる。満たすものがなければ自分を形作ることすらできない、空虚な人間。それが皆守だった。
それでいいと思っていた。自我など必要ない。感情など、世界との軋轢を生むだけのもの。無い方が生きやすい。
失望と後悔ばかりを記憶していた精神が到達したその結論は、奥底で燻る激情を抑圧した。
期待するな。欲するな。望むな。無意識のうちに言い聞かせていたのは、皆守が知る唯一の、絶望から逃れる方法だった。求めなければ、何も持たない自分を嘆く事はない。
しかし、皆守は期待してしまった。欲してしまった。望んでしまった。
葉佩 葉佩 はばき 葉佩 葉佩 葉佩 はばき
殺すのは俺だ 俺が殺す 俺だけが殺せる
嗚咽に混じった男の名を、夷澤は呆然と聞いていた。皆守が葉佩に心を向けている事は知っていた。監視の為に近付いた筈が、いつの間にか友人として傍らに立っていた事にも気付いていた。
悲しむにしては物騒な言葉を吐き出しながら、皆守は確かに友人の死を嘆いている。もう二度と会えないと知って、哀惜のあまりその事実すら忘れるほどに。こんなにも脆い自分を認めていたからこそ、彼は人を遠ざけていたのだ。
漠然とだが察して、夷澤は苦いものを飲み込んだ。皆守はきっと、自分の死ではこれほどまでに嘆かないだろう。
「死体、見に行くんでしょう?」
「・・・もういい」
返った言葉は虚ろだったが、目は緩慢に動いて夷澤を捉えた。安堵して、揶揄する声に聞こえるよう留意しながら言葉を投げつける。
「泣くほど好きなら、そう言えばよかったんすよ」
「もう死んでる」
「だから死ぬ前に」
「死ななかったら分からないだろ」
「先輩ってそんなにバカなんすか」
「ずっと殺したいと思ってた」
「ああ、バカなんすね」
皆守は少しだけ笑って、落ちていたアロマパイプを拾い上げ、口には運ばずポケットに入れた。そのまま何も言わずに来た道を引き返そうとしたので、夷澤は慌ててその袖を掴んだ。眠たげな目が、ゆるりと夷澤を映す。
ぞっとした。
「皆守先輩?」
「なんだ」
「死体は、もういいんすか?」
「ああ、もういい」
「なんでっすか?」
「見てどうするんだ」
「どうって、ええと、だって」
「あいつは死んだんだ」
「それは、でも」
「俺は殺せなかった」
「なんでそんな殺したかったんすか」
「説明しないと分からない奴には説明しても分からない」
「・・・ええと?」
瞳は茫洋としているが、それはいつもの事だ。発言がなんだか意味深なようでいて結局よく分からないのも、いつもの事だ。
どうしてこんなにも不安になるのか、夷澤には理解できなかった。ただ、その目が訳も分からず恐ろしい。何か重大なものを取りこぼしてしまったような気持ちになる。思わず、すがるように名を呼んだ。
「皆守先輩!」
「なんだよ、うるせぇな」
「行きましょう」
「どこに」
「死体を見に!」
「なんでそんなに死体が見たいんだ」
「だって、信じられますか?」
「だから何が」
「あいつが死んだなんて嘘っすよ!」
「お前、あいつ嫌いじゃなかったのか?」
「なんで知ってんすか大っ嫌いっすよ!」
「じゃあ死んで嬉しいだろ」
「嬉しいけど、なんかの間違いっすよ絶対に!」
「どうした?」
「どうしたはあんただ!」
「そ、そうか?」
戸惑いぎみの皆守を引っ張って、更なる奥へと向かう。心臓を急かしているのが、恐怖なのか激怒なのかも分からない。
扉に手をかけた瞬間、掴んでいた腕が鋭く振り払われた。振り返り、皆守を見る。薄紫色に濁った瞳の奥で、煙のように何かが揺れていた。反して、その頬は気味が悪いほど無表情だ。
乾いた唇が、そっと開いて声を発した。
「俺は葉佩を殺せなかった」
「だから!そんなに好きなら本人にそう言えばよかったんすよ!寝た振りで助けるとか恥ずかしい事してないでさ!《生徒会》なんか裏切ればよかったじゃないっすか!」
叫ぶようにそう言うと、皆守がすっと目を細めた。夷澤の背筋に怖気が走る。煙のようだと思ったものが、一度の瞬きで烈火に変じた。低く、やけに穏やかに皆守が囁く。
「それを、お前が言うな」
「言いますよ」
「《生徒会役員》のお前が、阿門を裏切るような事を言うな」
「そりゃあんたでしょーが」
「俺は言ってない」
「言っただろ!」
「言ってない」
抑えた声音で繰り返し、音もなく歩を進め、夷澤の襟首を掴んで捻り上げる。皆守の目の奥で高温の光が放たれるのを間近に見て、夷澤の呼吸が止まった。首元を絞められたのも一因ではあるが、それ以上に心臓が締め付けられる。
秘め事のようにひそやかに、ゆっくりと声が発せられた。
「俺は《副会長》だ」
その声は夷澤の鼓膜を振動させ、しかし言葉にはならず夷澤を混乱させた。夷澤の脳裡で、様々な思考と記憶が交錯する。脳内での作業に集中するあまり口を閉じるのを忘れた夷澤を見下ろして、皆守が続ける。
「俺は、阿門を裏切らない」
「ふくかいちょーなんすか?」
「・・・ん?」
「え、あの、あんた、副会長?」
「・・・」
沈黙が、氷の上に降り注いだ。握られていた襟が放される。皆守はしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
「あ、ああぁぁー、だからかぁ!」
「・・・何でこんな奴入れたんだ阿門のばか」
「や、関係者かなーぐらいには思ってたんすよ」
「・・・阿門のばかっ」
「やったら内部事情に詳しいから、なんでかなーって」
皆守が氷の床を叩いた。その背中に向かい、納得してすっきりした夷澤が何故か胸を張って、さも誇らしげに言い放つ。
「俺、副会長補佐っす」
「・・・知ってる」
「あんたの補佐っすよ」
「もう黙れ」
「全力で補佐りますよ」
「補佐は動詞じゃない」
静寂と氷が支配する空間に、二人の声が虚ろに響いた。
葉佩が望むのは静寂ではない。むしろ奔流のような激動だった。
生きるとは即ちは動く事である。振り向かず、ただ前だけ見て、走り続ける事こそ生であると、葉佩は考えている。走らなければ生きる意味がない。帰路を探して泣いたあの頃は、だから生きていなかった。あれが葉佩の最初の敗北だった。それ以来、葉佩は進み続けている。帰る場所を捨て、戻る道を潰し、止まる事を恐れて。
だから、眠りを安らぎのように語る人がどうしても許せなかった。彼は生きながら死んでいる。そう思った。死んだ人間ならば、現実的にも比喩的にも多く見た。それなのに、彼には生きていて欲しかった。
折れた左足を庇いながら穴から這い上がる。床に開いた穴は深く、部屋の中の状況を察知できる《執行委員》でさえも、底の状況までは知り得ないだろう。
「あーくそ、まだチカチカしてる」
壁から発射された矢に気を取られ、床に開いていた大穴に落ちた。なんたる失態だ。「あーかっこわりー」などと呟きながら、葉佩は床に寝転がった。肌を刺す冷たい床に身を預け、今日の反省を始める。これは何度目の敗北だろう。
凍てついた壁の向こうから近付く気配には、葉佩はまだ気付かない。
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