未踏の遺跡に下りる時、葉佩は決まって初めて自転車に乗った時の事を思い出す。
 流れる景色が、肌を撫でる風がただ嬉しくて、帰路の事など考えもせず、力の限りペダルを漕いだ遠い記憶。
 あの日は転んで膝を擦り剥いて、帰り道を探して泣いた。

 今は違う。帰る場所はもうどこにもない。
 ただ、この胸に灯火がある。












 皆守がその報告を聞いたのは、いつもの気だるい午後だった。風は穏やかで日差しはあたたかく、空はどこまでも澄み渡っている。まぶしすぎて昼寝には向かない。そんな事を考えながら、皆守はいつもの騒々しい足音が近付くのを待っていた。
 この場所ではあまり聞き慣れない足音がして、芳香を含んだ赤髪が視界の端で揺れた。

「《転校生》が死んだわよ」
「なんでわざわざ俺に言うんだ」
「あら、あの子の監視は貴方の役目だったんでしょう?」
「ああ、そうだったかな」
「お役御免の報せなら早い方がいいと思ったのに」

双樹は赤い髪をもてあそびながら少しだけ目を細めた。風を見詰めているのだろうか。眼差しは虚無を含んだ笑みを浮かべている。或いはそれは笑みではなく、侮蔑だったのかも知れない。

「珍しく入れ込んでたみたいだけど、少しは痛む?」

抜けた主語を問い質そうとして、皆守は言葉を飲み込んだ。聞いたところで自分の中の答えは変わらない。入れ込んでいたのも事実だ。隣で笑う葉佩が、今では日常の一部になっていた。この時がずっと続けばいい、などと考えて、自分の思考に呆れ果てた記憶も新しい。
 痛みはいつもの事だ。皆守が手を下さなくとも、《転校生》たちは姿を消す。ある者は異形の牙で、ある者は《執行委員》の手にかかって、この《學園》を去ってゆく。または、この《學園》の一部に成り果てる。
 新しいクラスメイトの顔も名前も、皆守はなるべく記憶しないようにしている。やがて消え行く者達を記憶に留め、それを背負って生きて行けるほどに強くはない自分を正しく理解しているからだ。

 立ち去った女の残り香を風がさらってゆく。煙は留まらず空へと流れてゆく。ただ、その芳香だけがいつまでもまとわりついて離れない。冷たい風が幻すら奪うような気がして、それに怯えるように身をすくめる。この場所を立ち去ろうとは、何故だか思わなかった。

 布団を屋上に持ち込もうと、笑って話したのはつい先日だった。あの葉佩の事だ、やると決めたら本気で実行に移していたに違いない。ある日、屋上に来たら昼寝の準備が万端に整っていたかも知れない。その横で、葉佩は誇らしげに笑うだろう。意識せずともその顔が想像できる。いつの間にか記憶してしまっていた。顔も、声も、傷だらけの手も、彼の存在を全て。

 風に混じった土の匂いが鼻腔に届いた。清潔ではないその匂いが皆守の涙腺を刺激する。土と埃と汗と硝煙が、皆守の思う葉佩の匂いだった。いつも薄汚れていたような気がする。傷に沁みると言って熱い湯を嫌い、風呂では水のような湯を浴びていた。
 彼が倒れたのは凍てついた冬の部屋だったらしい。あの場所なら、きっと彼を煩わせるものは少ないだろう。騒々しい言動に反して、葉佩は静謐を好んでいた。
 静寂の中、倒れ臥す葉佩を思う。冷たい白が降り注ぎ、その体を包むのを想像する。静かなる永遠は、彼に安らぎを与えるのだろうか。

 否。

 葉佩の本質は動き続ける事にある。静寂を破壊し、秩序を乱すものが葉佩だ。少なくとも、皆守にとってはそうだ。安らぎに満ちた静寂など似合わない。
 思い立ち、皆守は立ち上がった。認めない。こんなにも人を乱しておいて、自分は安らぎに沈むなど。
 立ち上がったその足で階段を駆け下り、生徒会室のドアを打ち開ける。蝶番が普段の開閉では立てないような音を立てたが気にせず、どう反応するべきか考えて結局どのような反応もできずにいる神鳳に詰め寄った。

「夷澤はどこだ」
「まだ教室だと思いますけど?」

 いつになく勢いのある皆守に、呆気に取られた神鳳が答えながらも体を引く。しかし皆守は、何事かと様子を窺う視線には見向きもせずに踵を返した。

「廊下は走らない!」

律儀な神鳳が無視されることを分かった上で注意を促す。その瞬間、走り去ろうとしていた皆守が急停止して再び踵を返した。まさか皆守が止まるとは思っていなかった神鳳が、思わず身構えて視線を鋭くする。

「なんですか?」
「夷澤って何年何組だ?」
「・・・2年A組です。廊下は走ってはいけません」

今度こそ、皆守は最後まで聞かず走り去った。頭上に疑問符を浮かべつつ、役員たちは何事もなかったように日常の雑務に戻った。












 屋上から校舎外の生徒会室、更にそこから2階の2-A教室へと、無心に走る。日頃の不精の所為で早くも息が切れ始めた。錆び付いた自身を思い、葉佩が愛用していた研ぎ澄まされたナイフを思う。湧き上がる全ての感情を振り切り、2-Aの教室の戸を殴り込む勢いで開けた。

「おい夷澤!」
「なんすか先輩、階段上がっただけで息切れっすか?」
「靭帯断裂したくなければ余計な口は利くな。ちょっと顔貸せ」
「いたた、先輩そこ顔じゃなくって襟っすよ!」
「顔っつったら襟ごとだろ。それとも首だけになりたいか?」

 いつもの気だるげな雰囲気からは想像もつかないような剣幕に気圧された訳ではないが、夷澤はおとなしく引っ張られる事を選択した。恐れたのではない。皆守を恐れる理由はない。ただ、刺激してはいけないと判断したのだ。《転校生》の死が皆守に影響を与えた事は想像に難くないが、まさかこれほどまでに急激な変化を見せるとは。
 裏切られたような気持ちで、まだ襟を掴んでいる皆守を見上げる。

「そんなにあの《転校生》が好きだったんすか?」

何気ない軽口のつもりで発した言葉を、夷澤は即座に後悔した。どうせあの眠たげな瞳で、寝言のような否定が返ってくるだろうと考えていた。死者への礼儀など、彼も自分も失って久しい。
 予想に反して、返ってきたのは灼熱の刃にも似た沈黙と、氷のような眼差し。
 見た事もないような皆守の激情を目の当たりにし、夷澤は口を閉ざした。見ていれば分かる程度には、夷澤は皆守を見ていた。この沈黙が内包するのは怒りや悲しみではない。死者への追悼などでは、決してない。

「あいつが死んだのは聞いたな?」
「ええ、まあ」
「お前の所だったらしいな」
「は?いえ、違いますよ?」
「氷だろ?」
「ああ、《転校生》が死んだのはそうらしいっすけど」
「だから、お前の管轄だろう!」
「俺、砂っすけど」
「・・・そうだっけ?」
「そーっすよ」
「氷じゃないのか」
「それはスキルっす」
「・・・邪魔したな」

夷澤は黙して目を逸らした。熱せられた皆守の精神が常温に戻ってゆくのが、見なくとも知れた。自分の言動が甚だしく間違っている事に気付き、舌を打ち、小さく悪態をつく。いつもの皆守だ。少しだけ安堵して、足早に立ち去ろうとする背中に問いを投げてみた。

「その部屋が俺のシマだったらどうしてたっすか?」
「・・・考えてなかった」
「殺しますか?」
「さあな」

 葉佩を死に至らしめた原因が《執行委員》ではないと、皆守は分かっている。彼らは与えられた義務を遂行しただけだ。何を求めて自分は走ったのか、それすらも認識していない自分に、皆守は愕然とした。
 馴染んだ芳香を欲して無意識にポケットを探る。ライターを指先で探り当て、パイプを取り出そうとして、漸く気付いた。

「アロマ忘れた」
「大丈夫っすか?」

揶揄する色ではなく、夷澤が声をかける。皆守が自失しているのは明らかだ。衝動的な全力疾走も、先程の攻撃的な言葉も視線も、ある一つの感情からくる行動なのは考えずとも理解できる。
 夷澤の語彙の中で最もそれに近い言葉は、焦燥だろうか。失った物が大きすぎて、感情がそれを受け入れる事を拒否している。取り戻せ、と感情が叫ぶのだ。二度と戻る事はないと、本当は分かっているのに。
 皆守よりも正確に、夷澤はその感情を理解した。

「確か、トト、ええと、なんとかっすよ」
「なんだって?」
「留学生の、あいつっすよ」
「いたっけそんな奴」
「言っても無駄だと思いますが」
「じゃあ言うな」
「もうちょっと周囲に目を向けましょうよ」
「気が向いたらな」
「まあ、いいっすけどね」
「諦め早いな」
「どうしろと」
「で、そのトト・ジェフティメスがどうしたって?」
「諦める以外に俺に何ができるってんだ」
「諦めは肝心だぞ」
「あんたはまだ諦めない方がよさそうっすね」
「あ?」

行ってみましょうと言う夷澤を、皆守はどこか眠たげな目付きで見やる。
 皆守にとっての眠りとは、即ち思考の放棄だ。忘却であり、逃避だ。それが夷澤は気に入らない。目を逸らすなんて許せない。進む道があるのに膝を折るなんて、絶対に許せない。

「本当に死んだのか、確かめに行きましょう」












 夜が更けるのを待ちながら、皆守は覚醒してゆく自分を感じていた。
 五感が冴え、神経が鬱陶しいほどに些細な刺激を集める。ドアを開ける音。閉める音。話し声。刻々と冷えて行く気温。天井近くにたゆたう自分が吐き出した紫煙。それらを一つ一つ拾い上げ、記憶する。自分が存在している事を確かめるように、丁寧に五感を広げる。
 神経を尖らせ、自分が一人の男の存在を探している事に気付き、自嘲した。

「俺が、殺す筈だったのに」

呟いた言葉が虚空に散って消える。機会はあった。葉佩は驚くほど無防備に背中を見せた。隣で笑い、眠り込む事すら頻繁にあった。皆守が自分の立場を鑑みればその時に、或いはそこまでの信頼を得る前に、手を下すのが義務だったのかも知れない。義務を遂行しなければ、生きる権利は得られない。
 葉佩は、そんな皆守を嘲った。

 いつか来るその日を、皆守はいつの間にか待ち望むようになっていた。赤い部屋で葉佩と向かい合う。彼はどうするだろう。もう既に気付いているのだろうか。それとも、本気で信頼しているのだろうか。皆守を友人だと思っていたのだろうか。
 どちらにしろ為すべき事は変わらない。《墓》を荒らす者に永い眠りを捧げるのが、皆守に与えられた義務だ。与えられた力を行使して侵入者を排除する。何度も思い描いた映像だった。灼熱の地に臥す葉佩と、その隣に佇む自分の姿。或いは、葉佩の足元に臥す自分の姿。

 幻のその映像は皆守を高揚させた。終わりが来る。夜が明ける。夢が消える。花が散る。
 いつも見る、忘れてしまう夢のように、自分も消える。