夷澤は、轢き殺すつもりでアクセルを開けた。そして、その直後に失策を悟った。左の後輪を狙撃された。制御を失ったロードスターが回転し、ガードレールに激突する。離脱する暇はなかった。眼前に海が見える。潮騒と甘い香りを思い出した。次に、排気ガスの匂いと夜の空気。闇に浮かぶ赤と白の光。爆音。奇声。突き抜ける振動。点滅する視界。運転を教えてくれた年上の友人は、海に落ちて死んだ。もう二度と会う事はない顔が脳裡に浮かび、消えて行く。此処は自分の居るべき場所じゃない、と、いつだって心が呟いていた。
 死など怖くなかった。あの人に会うまでは。







 腐っていた夷澤を拾って居場所を与えたのは、阿門だった。彼は夷澤に役目を与え、自尊心を教えた。彼の役に立つ事が、夷澤の人生で最も重要な目標になった。全てを飲み込むような底の深い強さに憧れ、彼のようになりたいと思った。だが彼は、どうせなら俺よりも強くなれ、と言って笑った。夷澤は、彼の前でそれを誓った。

 彼の隣には、怠惰な男がいた。
 眠たげな目が、時折ほんの僅かな時間だけ燃え立つのを知った。
 皮肉でも嘲笑でもなく笑う時、彼の目は夷澤ではないものを見ていた。
 もう一度、夷澤は同じ想いを、今度は声に出さずに誓った。







 意識を失っていた筈の神鳳が、目を離した隙に忽然と消えていた。瀕死の神鳳を、敵が攫って行く理由はない。恐らく、目を覚まして自分で移動したのだろう。双樹は溜息を吐いた。どうして男は、例外なく愚かなのか。身を潜めて反撃の機会を窺うのが最良の策だと、考えずとも分かるだろう。
 先程から、外は静かになっている。耳を覆いたくなるような不快な破壊音も、今は聞こえない。終わったのだろうか。双樹は、慎重に辺りを窺いながら外に出た。自分には戦う手段がない。それを悔しいと思うのはやめた。最愛の人が目の前で死んでも、双樹は泣かなかった。覚悟を終えた男の死を嘆くのは冒涜だと、その時には知っていたからだ。
 だから双樹は、進む事を決めた。復讐を果たし、汚れた手を拭う事無く生きると誓った。

 神鳳は容易に見付かった。拉げた同胞の体が横たわる場所で、ただ立ち尽くしている。何をする訳でもなく、ただ途方に暮れたように地面と其処に横たわる物を見ていた。髪に隠れて表情は見えない。泣いているのかも知れない、と思い、双樹は静かに目を伏せた。泣いている暇などない。生きているのなら、まだ泣くべきではない。

 神鳳は、全てが終ったら笑おうと決めていた。皆守はきっと、気味が悪いとでも言うだろう。夷澤もそれに同調するに違いない。それでいい。それが彼等流の触れ合い方だと、今では知っているから。双樹は、笑い返してくれるかも知れない。同じ夜を駆け抜けた彼女ならば、きっと戦友のように笑ってくれる。
 膝が震えていた。体が冷たいのに、汗が出ている。血を流しすぎた。前衛を任せた皆守の姿が見えない。敵を追っているという夷澤は無事だろうか。そして、自分はあとどれくらい生きられるだろうか。着衣は既に滴るほどの血液を含んでいる。空気に触れて僅かに冷たくなった自分の体液が、皮膚に貼り付く。
 覚悟はしていた。そう思っていた。だが神鳳はその時、同胞への悼みではなく、死の恐怖に涙を流した。

 それに歩み寄る事はせずに、双樹は踵を返した。怒りでも悲しみでもないものが溢れ、唇を噛み締める。
 これは敗北ではない。
 まだ、出雲は生きている。

 身を潜めて反撃の機会を窺うのが、唯一で最良の手段だ。







 落ちていた意識が戻った時、夷澤の目の前にあったのは海だった。まるで奇跡のようなバランスで、ロードスターが海と道の狭間で揺れている。取り留めた一命を喜ぶより、眼前の死が心臓を冷やす。身動きした途端に車体が傾き、慌ててドアを開けて飛び出した。夷澤が地面に転がり出るのとほぼ同時に、ロードスターがゆっくりと落下を始めた。
 初めて手にした、自分だけのもの。ずっと一番近くにあった相棒だ。友人を失ったような心痛が、夷澤の胸を締め付けた。視界が滲んだような気がしたが、奥歯を噛み締めてそれを否定する。泣くなんて、もう耐えられない。
 鈍い音がゆっくりと、やがて連続して聞こえた。皆守のライターが車内に忘れられていた事を思い出し、回収しておけば良かった、と後悔する。夷澤は暫くの間、明るくなり始めた海に向かって喪失を見詰めていた。
 複数の人間が動く気配に、夷澤が振り返った。
「動くな」
声と同時に、後頭部に銃口が当てられる。
「皆守が落ちた。神鳳も時間の問題だ」
「皆守先輩が、落ちたぁ!?」
「動くなっつってんだろ!」
グリップで米神を打たれ、夷澤は自分の視界が不明瞭な理由に思い当たった。眼鏡がない。愛車と一緒に海に落ちたのだろうか。
 背後の男が再び銃を構えた。正面から見たその男は自分と同年代か、或いは年下のようにも見える。だがその目は、夷澤が知るどんな人間よりも暗く濁っていた。そして力強く、激しい感情を宿していた。皆守が言っていた葉佩に間違いない。葉佩が尖った犬歯を見せて笑のような表情を作った。それが威嚇である事は想像に難くない。少なくとも、友好を示したい訳ではないだろう。
「絶体絶命ってやつだね。どうする?」
「殺せよ」
「軽々しくそんな事言うな」
銃口で額を軽く小突かれた。うわ、こいつ殺してぇ。夷澤の頬が引き攣ったのを恐怖と勘違いしたのか、葉佩は銃を下ろした。しかし周囲からはあからさまな殺気が飛んで来る。少しでも不穏な動きを見せれば、間違いなく蜂の巣だ。だが、すぐには撃ってこない。葉佩が笑った。
「大和を、ぶっ潰したくない?」
「まずは手前をぶっ殺したい」
「無理だね」
再び銃口が上げられた。寸分違わず夷澤の心臓に向けられる。葉佩はまだ笑っていた。暗い瞳を、じっと見詰める。凶暴な光が、奥でチラチラと揺れている。憎しみに似ている。そう思った夷澤は、神鳳の言葉を思い出した。大和に属しているが、大和人ではない。確信した。葉佩は、大和を憎んでいる。
「俺はね、登美者なんだ」
それは大和に滅ぼされた国の一つだった。失われた故郷を口にして、葉佩が笑う。それは笑みではない。獣の証である頑強な牙を誇示する行為だ。戦う意思を表している。それに気付き、夷澤が口の端を上げた。
「・・・それで、あんたは大和の犬やってんのか」
「服従か死か。そんなの、迷うまでもないだろ?」
「・・・そうだな」
此処で死ぬ事は出来ない。迷うまでもなく、夷澤は決めた。誇りある死など存在しない。生きなければならない理由が、夷澤にはある。誓いを果たすまでは、絶対に死ねない。
 強い瞳で見返してきた夷澤に、葉佩が薄く笑った。不愉快な表情ではあったが、今度は友好を示したかったのかも知れない。思ったが、夷澤は表情を変えなかった。
「犬になる気はねぇ。俺を使うってんなら、やって見せろ」
「うん、上等」
一通りのボディチェックを受け、夷澤は拘束もされずに車に乗せられた。
 後部座席で黙ったまま前を見詰める夷澤に、葉佩が煙草を差し出してきた。それを断り、心の中で愛車に別れを告げる。

 選択したのは服従ではない。
 ただ、生きる事だ。

 誇りを持って生きる。
 それが安易な道ではない事を、夷澤は知っている。
 そして、その困難な道を選択した。







 この地に短い安息が約束された。
 出雲は陥落し、続いて出雲を風除けにしていた九州が陥落した。但馬と大和の力関係が逆転する。最大勢力としてこの国に君臨した大和は、周囲の国々を吸収し肥大化した。その内部で、獣が牙を研ぎ澄ましている。憎悪と狂気を孕み、大和は瞬く間に膨れ上がった。怨嗟と慟哭が、出口を探して吹き荒れる。

「大暴れしてやろうぜ」
獣が、闇の中で笑った。