夕薙が皆守を引き付け、その隙に網を逃れた者達だけで遂行する。人員の豊富な大和だからこそ可能な作戦だ。少数精鋭を宗とする出雲とは、根本的に方法が違う。
 神鳳に連絡を入れ、市内に網を張らせる。失態を責める事もなく、神鳳は可能な限りの人員を割いて皆守を助けた。地下に潜られては為す術がない。その前に押さえなければ。
 必要以上の力を入れてインプレッサのドアを閉める。運転席に座る墨木は、こんな時でもガスマスクを外さない。危機感が欠如しているよりはマシかとも思うが、過剰な危機意識は被害妄想と同じだ。皆守は、八つ当たりもかねて墨木に絡む事にした。
「誰の趣味だ」
「はっ!主語を言っていただけないト、自分には答えられマセン!」
「・・・この車」
「知りマセン!」
いまいち絡み甲斐がない。そして皆守は、根本的に人に絡むのが巧くない。罵倒が飛び交う無線の音量を下げ、シートを倒して目を閉じた。
「15時間経ったら起こせ」
「了解しまシタ!ですガ、非常事態はその限りではありマセン!」
それに類する命令が完遂された過去はなかった。皆守が告げた時間まで待っていては、報告すらままならない。起こさなかったら本当に寝ているので、墨木が了承と共に付け加えた一言は、経験に裏付けされた雷避けだ。
 結果的に、皆守は非常事態以外で起こされた事がなかった。それでも頑なに睡眠時間を主張するのは、意地に近い。それを稚気と見るか偏屈と見るかは、意見の分かれるところだ。墨木は稚気だと思っている。無線の音声出力をマスクのイヤホンに繋げ、可能な限りの静寂を作った。寝汚い反面、皆守は眠りが浅い。その事実を、どうにも彼を憎めない理由だとするには少々説得力に欠けるだろうか。







 皆守が失敗した。
 その情報が事務所に入った時、夷澤はベランダで懸垂をしていた。俄かに騒がしくなった室内に戻ると、神鳳が電話に向かって冷笑していた。口調だけは穏やかで、それが余計に夷澤の嫌悪感を煽る。この男は、きっと人を殺す時も笑っているのだろう。嫌なものを見てしまった。口中で吐き捨て、夷澤は場所を変えようと踵を返した。事務所が狭いのが悪い。だがドアを開いた瞬間、神鳳の声が皆守の名を呼んだ。よく聞いていなかったが、誰かがミスをして応援を頼んでいるような会話だった。神鳳の声には、あからさまではない嘲笑がほんの僅かに混じっていた。しくじったのは、皆守か。
「皆守先輩が、どうかしたんすか?」
「君が知る必要はありません」
目も合わせずに投げられた言葉は、容易く夷澤の導火線に火を点けた。
「あんた、偉そうなんだよな」
「それは恐縮です」
「さっき、笑ったよな」
「そうでしたか?」
「あの人を、哂ったよな?」
「彼は犬です」
その言葉に、夷澤は明確な侮蔑を感じ取った。それが理性に届く前に、夷澤の手が神鳳の襟を掴んでいた。怒気を瞳に宿し、間近で神鳳の瞳を見詰める。期待していた訳ではないが、やはりその表情に恐怖は見えない。
 無表情のまま、神鳳がゆっくりと言葉を発した。
「手を離しなさい」
「・・・俺は、あんたなんか認めない」
「どうして君が怒るんですか。
 皆守君の事で君が怒る理由はないでしょう」
「あんたには関係ない!」
突き飛ばす勢いで手を離したが、神鳳は揺らぎもしなかった。乱れた襟を直しながら、淡々と続ける。
「皆守君は、主人に撫でて貰えれば満足なんです。
 自分の生きる理由すら他人に依存して、まるで人間のような顔をしている恥知らずですよ。
 そんな犬に、僕は餌と理由を与えて遣ってるんです。
 それを、彼も知っています。だから僕に感謝してるんでしょう」
 夷澤は、その殺意が何処から来たのか分からなかった。ただその口を止めたいと思い、それを行動に移した。これ以上、皆守を侮辱する言葉を聞きたくなかった。否定する言葉さえ浮かばない自分が、耐えられないほど憎い。
 だが真っ直ぐな拳は、神鳳には届かなかった。どうやって躱されたのかも分からない。顔面に向けて放った拳は空を切り、がら空きの脇腹に衝撃を受けた。穏やかな顔が仮面だという事は知っている。だが、素手だったら自分の方が上だと、夷澤はそう思っていた。その矜持すら打ち砕かれ、逆流した胃液を飲み下す。しかし溜飲は下がらない。苦痛に呻きながらも、二撃目を繰り出そうと拳を握る。それと同時に、頬が鳴った。平手で打たれたのだと、一瞬遅れて認識する。痛みに気を取られていたのは認めるが、それでも戦闘態勢は解いていない。動作の兆しすら見えなかった。心が、理性よりも早く敗北を認めた。
「君には役目を与えました。
 それに従わないのなら、此処に置く理由はありません。
 今すぐに出て行きなさい」
 怒りではないものが、夷澤の喉元まで上がった。奥歯を噛み締める。
 これが敗北か。
 知っている、と思っていた。しかし記憶の中の屈辱も敗北も、これほどまでに夷澤を砕きはしなかった。打たれた痛みよりも、彼が目の前で侮辱されたのに何も出来ない事実の方が、深く心に突き刺さった。湧き上がったものが溢れ出ないように、夷澤は無言でその場を去った。走るのは惨めだと感じたので、出来る限りゆっくりと、確かな足取りで歩く。その背中を、神鳳はもう見ていなかった。







 皆守の眠りは、やはり今日も阻害された。組が所有するビルの敷地内に停車していたインプレッサに、ロードスターが轟音を立てて近付く。衝突する、と、咄嗟に墨木が発車させようとシフトレバーに手を置いた瞬間、ロードスターが横っ腹を向けた。タイヤとアスファルトが擦れ合って耳障りな音を立てる。皆守がドアを蹴り飛ばす勢いで開け、ロードスターに向かって怒鳴った。
「普通に停まれ!この族上がりが!」
「やだなぁ、それは言わないでくださいよ」
笑いながら降りてきたのは、夷澤だった。不自然なほどの笑顔だ。墨木はなるべく身を小さくして、運転席に留まった。直属の上司ではないのだから、直立して挨拶する必要もないだろう。
「やらかしちゃったみたいっすね」
「・・・何しに来た」
「しょんぼりしてると思って、慰めに」
「帰れ」
 皆守は、夷澤の頬が腫れている事に気付いていた。夷澤は普段から荒い運転をするが、気が立っている時はそれが更に酷くなる。極平凡な交差点で見事なドリフトを決められた時にも、それを知っている皆守は渾身の力で殴り付けるだけで済ませた。今回の派手な停車も、だから皆守は強くは責めなかった。確かに荒いが、腕は悪くない。良くもないが。
「逃がしたんすか?珍しいっすね」
「・・・早く戻れ。神鳳に怒られるぞ」
「別に、そんなん怖くないっす」
「お前は事務所で待機だろ」
「やってられませんよ、そんなの」
慰めて欲しいのは、自分の方か。言おうとして、皆守はそれを飲み込んだ。人を慰める方法など、皆守は知らない。顔を背けた夷澤から目を逸らし、アロマに火を点ける。甘い煙が、夷澤の髪に柔らかく絡んで消えた。
 黙ってしまった後輩の背中をぼんやりと見詰めながら、皆守は自分が睡眠を欲していた事を思い出した。車に戻って眠るか、それとも此処で何の生産性もない沈黙を共有するか。迷ったまま、皆守はそのまま突っ立っていた。後者を選択した訳ではない。ただ、迷っていただけだ。

「阿門さんは、殺されたんすか?」
 不意に、夷澤が呟いた。その言葉を理解した皆守が、応じる言葉を探し、見付け出せぬまま夷澤を見た。語尾が疑問を表すように上がっていたので、それが質問である事を遅れて認識する。だが皆守は、その答えを知らなかった。知ろうとも思わなかった。彼がもう何処にもいない、という現実すら、皆守は時々忘れる。寝惚けて阿門の姿を探す事すら頻繁にあった。目覚める度に、皆守は絶望を思い出す。
「ねえ、阿門さんは何で死んだんすか?」
「・・・知らない」
組織内で囁かれる噂を、皆守は知っている。神鳳が阿門を暗殺したのだという。だが、それが真実ではない事も知っていた。神鳳は、もしかしたら誰よりも阿門の死を嘆いている。浮かんだ自分の思考に、皆守は苦く笑った。比べるものじゃない。先代を慕っていた誰もが、深く嘆いている。
「死んだって言ったの、神鳳っすよね」
「敬称略か」
「だいたい俺、死体も見てませんよ」
「見たいのか」
「・・・見たくないっすけど、見なきゃいけない、とは思います」
真っ直ぐな目でそんな事を言える夷澤が、皆守には酷薄に見えた。強さとは残酷なものなのだろうか。皆守の唇から、紫煙以外のものが出てくる気配はない。それを悟った夷澤がロードスターに戻った。乗り込み、エンジンを掛けてギアを入れる。夷澤の意図が読めない皆守が、ぼんやりとそれを見詰めている。
「何してんすか?乗ってくださいよ」
窓越しにそんな事を言われても、皆守は意味が分からない。先程の会話を手繰り、今の状況と照らし合わせる。やっぱり分からない。阿門が死んで、何故ドライブに誘われなければならないのか。皆守は、アクセルを開ける事で感情を昇華する、という神経を理解していなかった。暫く夷澤の顔を見詰め、漸く一つの事実を思い立つ。
「お前は運転するな」
「え、やっすよ。これ俺のっすよ、俺がします」
「族上がりが一端の口利くんじゃねぇ」
「関係ねぇだろ!あんただって似たようなもんじゃないっすか!」
景気良く吠え出した後輩の鼻先にアロマの火を近付け、怯んだ隙に襟首を掴んで引き摺り下ろす。空いた運転席に乗り込み、ハンドルを右手で握り、右足をフットブレーキに乗せて、シフトレバーに左手を置いてから気付いた。助手席に回り込んだ夷澤に問い掛ける。
「・・・これ、マニュアル?」
「当たり前でしょうが」
「・・・まあいいか」
「やっぱ俺が運転します!」
「心配するな。これ、今ニュートラルに入ってんのか?」
「心配以外の何が出来るってんすか!ちょっまっせめてクラッチを・・・!」
夷澤に勝るとも劣らない速度で、ロードスターは発進した。その直後にガクンと停まり、少ししてからまた走り出した。
「シフトアップ!してくださいお願いします!」
「えーと・・・」
「クラッチ!クラッチー!てゆーか前!」

 何やら騒がしくなった二人を訝しんで、墨木がインプレッサから降りる。だがその時には、ロードスターは走り去っていた。遠くなる轟音に、墨木は自分が置いて行かれた事を悟った。悟ったが、為す術はない。最近は少なくなっていたので油断していたが、皆守は任務を放り出して行方を晦ます事に長けていた。サボる為ならどんな労力も厭わない男だ。先代の死後はそれすらも放棄していたようだが、フェイクだったか。実に鮮やかな手並みだ。すっかり騙された。
 置いて行かれた事よりも、神鳳に報告しなければならない現実に、墨木は天を仰いだ。
 仮に神が存在したとしても、天にはいないだろうが。