皆守は命令に従い、数人の部下を伴って海沿いに陣を張った。先代の頃からの顔馴染みでもある部下達は、数少ない友人でもあった。或いは、誰よりも皆守を案じているのは彼等かも知れない。
 待機を言い渡して海辺で紫煙を燻らす皆守に、取手が歩み寄った。彼が自分に声を掛けるべきか逡巡していた事に、皆守は先程から気付いていた。いつも取手は不安そうな顔で皆守を見る。それが、皆守にはまるで憐憫のように思えていた。憐れみの目で見られる心当たりがありすぎる皆守は、しかしそれを認めようとしない。虚無は、決して不幸ではない。そう信じていた。
 意を決した取手が、防波堤に座る皆守を呼ぶ。名を呼ばれ、皆守はそれを待っていた自分に初めて気付いた。
「皆守君、寒くないかい?」
「別に」
「じゃあ、お腹空かない?」
「別に」
皆守に会話を続ける気がない事を察した取手が、遠くを見詰める視線を追って海を見た。先代が死んで以来、皆守の気力は衰えた。もともと無気力な男ではあったが、ここまで空洞ではなかったように思う。喪失が彼を傷付けたのは想像に難くない。心痛を押して立ち上がれ、とは言えないが、それでもそんな友人を見ているのは辛かった。時々取手は、本気で彼が死を望んでいるように錯覚する。
 暗い海が、皆守の視界を埋め尽くしている。もっと明るい景色を見せたい。綺麗なものを、彼の眼前に示したい。ずっと、取手はそう思っていた。今も、思っている。
「敵が来たら、戦うのかい?」
「他に何が出来る」
「・・・話し合いは、無理かな」
「俺には無理だ」
それもそうだ、と取手は思ったが、口には出さなかった。皆守は、言葉の駆け引きに長けた人間ではない。むしろ苦手だ。でも、戦いに秀でた人間でもないと思う。こんな世界に居続けるには、彼は脆弱すぎる。それを優しさだとは言えない。結局は、傷付くのが怖いのだろう。失うのも、傷付けるのも、奪うのも奪われるのも。そんなの、誰だって怖い。
「逃げてもいいんだぜ?」
「君をおいて?」
「そう、俺をおいて」
「出来る訳ないじゃないか」
 皆守は有り触れた人間だ。かつては、確かにそうだった。少々怠惰で睡眠時間を多く必要とするだけの、普通の男だった。彼がその能力を発揮する姿を見せたのは、先代を守る時だけだ。それすら、片手の指で足りるほどの回数しかない。そして取手が皆守を慕うには、それで充分だった。
「僕は君の部下だよ」
「そうか、俺はお前の事を友達だと思ってたんだがな」
「いや、友達でもあるけど、それ以前に」
「もういい。黙れ」
また失敗した。取手は、皆守に気付かれぬよう嘆息した。彼は気難しい。機嫌を損ねずに会話をする事は至難の業だ。機嫌を損ねても、気にせず会話を続けられる人間も存在する。だが取手は、彼の心を穏やかにしてやりたいと考えていた。自分の言葉で誰かが救われるなどと、思い上がりも甚だしい。しかし、取手は言葉の存在意義を信じていた。慌てて言葉を探す取手を横目で見遣り、皆守は立ち上がった。
 明かりを消したままの船が、音もなく近付く。
「始めるぞ」
呟いた皆守の横顔は、やはり虚無を含んでいた。







 無線で部下に連絡を入れ、配置に付かせる。船から車にでも乗り換えるつもりだろうと踏んで、周辺で不審車両の捜索も指示する。眠たげなまま冷静に指令を下す皆守を、取手は尚も不安げに見ていた。それには気付かない振りをして、皆守は岩場に乗り上げたロウボートに歩み寄った。気配を察した乗組員が、警戒も露に戦闘態勢を取る。
「大和だな?」
それは質問ではなく、確認だった。相手に返事をする気がないのを一秒以下の速度で判断し、皆守は足を振り上げた。ほぼ同時に鈍い音が響く。痛そうな音だ。と思うよりも早く、取手は自分の不甲斐なさを責めた。自分の仕事は皆守の心配ではない。役に立たねば、此処に立つ意味がない。
 外の異変を察知して、後着のロウボートからは誰も降りようとはしなかった。離れた場所に配置した部下から、不審なボートの乗組員を確保したとの連絡が入る。
「殺せ」
短く指示を出した皆守は、いつも通り眠たげだ。もしかしたら、本当に何も感じていないのではないか。よぎった恐怖に、取手が身を震わせた。狂っているのは自分かも知れない。生きる為に殺すのは間違いじゃない。鳥も豚も牛も人間も、今日も誰かの為に死んでいる。それだけの事なのかも知れない。人間の死にだけ感情を呼び起こされるのは、酷く歪んだ事なのかも知れない。
 救いを求めるような気持ちで視線を投げた海から、もう一艘ボートが近付いた。地上の異変など気にも留めず、一人の男が上陸した。問答無用で皆守が攻撃する。それを辛うじて受け流し、男は笑った。
「随分と熱烈な歓迎だな」
「お気に召したんなら、食らっとけ」
「悪いが、遠慮するよ」
言葉と同時に、男がポケットに手を入れた。それを確認し、取手が《力》を解放する。空気の波を、一直線に男の耳に向かって放出する。男が頭を押さえて膝を付いた。皆守が爪先を振る。だが、それが接触する寸前に男は身を翻した。再び手を翳した取手に、同じように掌を向ける。
「皆守君は下がっててくれ」
「おう、じゃ遠慮なく」
「素直な皆守君って、想像以上に気持ち悪いね」
「そんなに褒めるな」
遠慮なく下がった皆守は、無線で召集を命じた。要所の数名だけを残し、全力で当たるという決断を下した。
 男の攻撃に、取手が崩れた。落ちた水滴が自分の血だった事を認識し、取手は唇を噛み締めた。目の前に皆守が走り込んだ。膝を付いた取手を背に、眼前の男を静かに見詰める。
「出雲の皆守、か。君の噂は聞いているよ」
「そりゃ光栄だ」
「俺は夕薙というんだ」
「そうか。明日には忘れてるけど、いいよな?」
「・・・噂に違わず、身も蓋もない男だな」
顎を撫でる夕薙には、隙が見えなかった。皆守は視力が自慢だ。その皆守が攻め倦ねている。
 数人の気配が近付いた。あの足音には覚えがある。朱堂だ。取手がそれに思い当たるのとほぼ同時に、甲高い声が音波攻撃のように空気を震わせた。
「ほーっほほほほほほ」
「・・・皆守君・・・」
「言うな。あいつが一番足速いんだ」
「アタシが来たからには、もう好き勝手にさせないわよ!」
僅かに遅れて到着した真里野が、俯いて眉間を押さえた。悪くない判断だ。
「あら、イイ男!でも残念、アタシは既にあの方のもの!」
「・・・そうか、それは残念・・・か?」
「訊かれても」
夕薙は思わず皆守に意見を求めたが、素気無い言葉で切って捨てられた。慣れているであろう同僚すらこの反応だ。夕薙は善戦しているに違いない。
 通行人に通報でもされたらどうしよう。逃げるしかないな。その前に全てを終えなければ。素早く思考をまとめ、皆守は気を取り直して夕薙に視線を戻した。真里野が柄に手を置いた。朱堂が構える。こう見えても、彼等は選りすぐりの武闘派だ。どう見えるのかさえ考えなければ、実に頼もしい部下達だ。それを察した夕薙も、低く構えた。
 ダーツが飛んだ。同時に真里野が跳んだ。左腕でダーツを受け、夕薙が吠える。躱す動作を予測していた真里野が、一瞬だけ切っ先を揺らした。死角に走り込んだ皆守が、低く脛を狙って足を振る。今度こそ、それを躱す為に夕薙が動いた。真里野の剣が脳天目掛けて振り下ろされる。鈍い音と共に、大きな物が水に落ちたような音がした。
「やったか?」
「・・・いや。手応えはなかった」
「探せ」
死んでくれれば良いんだがな、と口中で続けた皆守に、応答を乞う通信が入った。それを受けた皆守が目を見開く。
「全員持ち場に戻れ!」
珍しく声を張った皆守に、その場にいた全ての者が現状を察した。具体的には分からないが、自分達は窮地に立っている。







 不審車両の探索を命じられた墨木が、最初に気付いた。同じ場所を何度も通過するトラックを、二度見た時点で警戒はしていた。ここで押さえるべきか、或いは人員の収容が終了してから一網打尽にするか。墨木は、後者を選択した。移動を開始しないという事は、その車両には運転手しか乗っていないのだろう。物陰に身を潜めた墨木が狙撃位置を定め、弾薬の装填を完了した時だった。
 トラックが、突然スピードを上げた。失策を悟った墨木が発砲する。だが銃弾はアスファルトを削っただけで、目標には到達しなかった。自分を責めるより先に、墨木は上司に報告した。挽回のチャンスはある。重大なミスを犯した事実に震えながら、墨木は必死で言い聞かせた。まだだ。あの人なら、何とかしてくれる。
 国道への道を見張っていた者達も同様だった。してやられた。苛立たしげに舌を打つ皆守を前に、生粋の武闘派が震え上がった。彼等は武闘派だったが、まだ人間だった。人としての矜持も尊厳も全て預け終えた者に、恐怖するのは当然だろう。僕はまだ人間だ。心の隅で安堵した自分を認識し、取手は嫌悪で吐きそうになった。
 自分を友人だと言ってくれた人を、ずっとこうして裏切っている。
 何より恐ろしいのは、皆守が怒っていない事だ。役目を果たせなかった事にも、取手が本当は皆守を見下している事にも、出し抜かれた事にも、取り立てて感情を抱いていない。それが恐ろしくて、それ以上に悲しかった。

 車両ナンバーを控えた皆守が、冷静に指示を出している。その声を聞きながら、取手はもう一度だけ海を見た。
 明かり一つないその場所は、まるで彼の心のようだ。浮かんだ言葉を慌てて否定する。

 この失態は、出雲の行方を決定する。
 落ちた確信を前に、それでも皆守は微睡を湛えていた。