葉佩が拳を放った。皆守は難なくそれを躱し、泣きそうな顔で目を逸らした葉佩を見下ろす。

「お前に殴られるような事をした憶えはない」
「ねぇのかよ!すげぇ殴りたいよ俺は!」
「ああ、残されるのがつらいのか」
「そーじゃねぇ!」
「俺が死んだら傷付くのか」
「ちげーよばかっ!お前ほんとばか!びっくりするほどばか!」

幼い言葉で罵られ、しかし彼の言わんとする事を理解できず、皆守は何故か急に一人で盛り上がっている葉佩の顔をぼんやりと見返した。目の前で名前と顔を知っている人が死ねば、誰でも動揺するだろう。悲しみ惜しむだろう。皆守は、今でもその程度にしか考えていなかった。

「俺はさぁ!【友】って言ったよね!」
「え、言ったか?」
「言ったよ!思いっきり言ったよ!」
「ああ、そういえば言ったかも」
「何回も言ったよね!時々【愛】とかも言ったし!」
「そ、そうだったな」
「つまり、お前は俺を友達とは思ってなかったんだよ」
「そうだな」
「そうなの!?」
「お前と友達とか、ちょっと勘弁して欲しい」
「ちょっと?」
「訂正する。物凄く嫌だ」
「え、マジで?」
「マジで」

葉佩が何か言おうとして口を開き、しかし声は発する事なく閉じる。
 つまり傲慢なこの男は、憐れな囚人の死ではなく、自分の心が伝わらなかった事を悔いているのだ。自分の手で作り上げた砂の城が、本当にただの砂でしかなかったと嘆いているのだ。不純物の混じった不潔な泥が、いつの間にか価値ある玉石に変わると信じていたのだ。
 皆守はたまらなくなって手を伸ばした。だが葉佩の頬に触れる直前に、またしても手首を強く掴まれる。袖との摩擦でぎりぎりと音がするほど強く圧迫され、振り払おうとしても固定する手は緩まない。

「おい、葉佩?」
「俺は葉佩じゃねぇよ」
「いやでも」
「ならいいんだよ」
「何が」
「お前が俺の事どうでもいいとか思ってんなら、それでも」

むしろその方が。溜息のように言って、葉佩が力を緩めた。解放された腕が、行き場を見出せず虚空をさまよう。

 葉佩が傷付けばいいと思った。たとえそれがすぐに消えてしまう小さな痛みでも、彼の心に何かを落とせれば。消えない傷になればもっと良かったのだが、それは望みすぎだろう。正直なところ、それはあまり重要ではなかった。
 皆守が本当に望んでいたのは終焉だ。葉佩への嫌がらせはそのついでに過ぎない。皆守はあの夜、ただ終わりたかった。何もかも切り捨てて旅立つであろう彼のように、自分を煩わせる全てのものから解放されて逝きたかった。
 葉佩が示した無知な赦しなど、なんの意味も持たなかった。

 汚れたお前でもいいと言って差し出された手は、やはり醜く汚れていた。その手を取らなかった皆守を、葉佩は今でも恨んでいる。何も伝わらなかったのだと嘆いている。つまらない冗談に紛れて渡した本当の願いも、夜の底で身を切るように放った望みも、何一つ皆守は受け取らなかった。密やかな共感も、欺瞞の陰にそっと隠した言葉も、確かに知っていた筈なのに。

 皆守が手を伸ばし、性懲りもなく葉佩の髪に触れた。それを掴んで捻り上げながら、葉佩が道の先に視線を走らせる。

「っつーかさ、本気で急がないと生き埋め決定だから」
「脱出なら近道があるぞ」
「早く言えよ!さっすがM+M!頼りになるね!」
「あの扉の向こうだけどな」
「・・・ああ、成る程」

葉佩が眠たげな目で黙り込み、今から来た道を戻る時間と、遺跡の守り神を沈黙させるのに費やされるであろう労力を計りにかける。決断は、さして遅くなかった。そして切り替えも早かった。
 ぱしっと音を立てて皆守の肩を叩き、「行くぜ相棒」と言って目も合わせずに走り出す。それがまるで信頼のように感じられて、皆守は一瞬だけ自分が立っている場所を忘れた。まだ葉佩がただの侵入者だった頃。どうせすぐに消え去るのだと、冷めた目でその背中を監視していた頃。気紛れにうとうとしては葉佩から大袈裟な謝意を渡されていた頃。どうしてここが天香ではないのだろう。皆守は目を閉じて我が身を嘲笑い、目を開いた時には石の床を蹴っていた。












 蹴り開けた扉の向こうでは、予想違わず異形が雄叫びを上げていた。葉佩が構えたのを確認するより早く、皆守が自慢の足を踏み出す。一息で四足の異形の下に走りこみ、身を低くして後ろ足を刈る。動きを止めた異形の眉間(眉はないが)に立て続けに銃弾がぶち込まれ、固定した足が暴れだした。

「おい葉佩!早くしろ!」
「こいつ弱点どこだよ!」
「知るか!探せ!」

怒鳴る声に怒鳴り返し、これ以上の拘束は不可能と判断して異形の腹の下から転がり出る。その直後に爆音が響き、奇怪な声が部屋を満たした。素早く立ち上がって体勢を立て直し、痛覚など存在するのか知らないが苦痛に悶える異形に向かって走る。3歩目で大きく踏み切り、遠心力を乗せて左足を振り抜いた。ほぼ同時に発射された弾丸が、異形の体に突き刺さる。

「見付けた!皆守どいて!」
「外すなよ!」

おまけの踵を落してから身をひるがえし、葉佩の放った銃弾が異形を沈黙させるのを見届ける。「もう終わっちまったのか」とは、言いたくなったが言わないでおいた。彼と過ごした時間の大部分は、向かい合うのではなく同じ方向を見詰めて肩を並べていたのだと、遠く思い出す。
 葉佩が無言で親指を立てた。それには応えずふんと鼻を鳴らして顔を背け、異形が塞いでいた扉に歩き出す。背後で不服そうな声が聞こえたが、振り向かずに歩を進めた。聞き憶えのある硬い靴音に混じって、変わってねぇな、と声が呟いた。
 やはり彼は何も理解していないのだと、自嘲ぎみに苦く笑う。こんなにも変質してしまったのに。もう戻れないほど遠くまで来てしまったのに。義務ではなく意思でその命を欲するほど落ちてしまったのに。

 足を止め、葉佩がそれを疑問に思う前に腕を伸ばした。油断している体を胸に引き寄せて、肩に顔を埋める。葉佩が、この世の終わりでもそんな声は出さないだろう、というような凄まじい悲鳴を上げた。そもそも葉佩という男は、この世の終わりに喜び歌い踊りこそすれ悲鳴など上げる男ではないのだが。

「うるさい」
「お、俺が、悪い、んですか?」
「全部お前が悪い」
「ごめんなさい許してください」
「で、話は戻るが」
「どこまで?」
「俺はお前を殺しに来たんだ」
「あ、ああ、そう言ってたね」
「生き埋めとなぶり殺し、どっちがいい?」
「どっちもやだ」
「相変わらず我がままだな」
「耳元で溜息つくなぁ!」

皆守の言葉よりも行動に叫んだ葉佩が、慌てふためいて身を離そうと身をよじる。延髄に指を差し入れると、後ろ髪を引っ張られた。首に噛み付くと、更に強く引っ張られた。髪が何本か抜けたようだ。それでも離さずにいると、何故か頭を撫でられた。その手がまるで子供をあやすように優しくて、それが面白くなくて、尖った犬歯を首筋に強く突きたてた。この血の全てが俺のものだったらいいのに。

「あのさ、殺されてやるから」
「なんだその上から目線」
「お前が殺すまで、死なないで待っててやるから」
「いや、そんな気を遣わなくっても、俺は今で一向に構わないんだが」
「お前も俺にもうちょっと気ぃ遣ってくれないかな!」
「分かった。なるべく痛くしないように善処する」
「何を始める気ですかこの歩く羞恥プレイは!」
「そういうのが好きなのか」
「あのね、皆守くん、生き埋めってきっと苦しいよ」
「削岩機は?」
「持ってきてるけど、あのさ、土砂って緩いから掘るの難しいんだよ」
「この遺跡は何年前からここに立ってる?」
「え、ええと、資料では1800年ぐらいだって」
「その間、何回ぐらい土砂崩れがあったか分かるか?」
「・・・何が言いたいのかな?」
「足場の悪い地上より、ここの方が安全だと思わないか?」
「俺なんかには想像もできないほど危険な気がする」
























 二人が無事に脱出したのは、それから約18時間後だったという。
 その間に何があったのか、二人は決して口を割ろうとはしなかった。