外はもう10日ほど雨が続いているらしい。暗く湿った地の底に到達し、皆守は硬い靴底で石の床を踏んだ。彼の描いた地図は分かりづらくて、ここに辿り着くまで随分と遠回りをしてしまったような気がする。

 やっと見付けた、と口中で呟き、皆守は靴底を床にすり付けた。その音を感知した葉佩が、弾かれたように振り向く。暗闇に佇む皆守の姿を確認し、目を見開いて絶句した。その反応に、皆守が密やかに唇を歪める。自分がもうあの頃とは違うのだと、誇らしくも悲しくも思う。
 守ってやりたい。ずっとそう願っていた。彼を傷付ける全てのものから、苦痛から、悲哀から。絶望へと続く情熱も、無邪気な級友の残酷な仕打ちも、全て消し去ってやろう。めまいがするほど広い世界など必要ない。ただ一人、俺だけがいればいい。お前が最期に目にするものは、誰より優しい俺の心だ。幸せだろう?ずっとそう信じていた。
 しかし葉佩が手にしたものは、最期ではなく銀色の夜明けだった。安息への片道切符を取り上げられた皆守は、めまいがするほど広い世界にたった一人で放り出された。

「葉佩」

名を呼ぶ。それだけで体が震えた。それが苦痛なのか快楽なのか、自分でも分からない。どちらでも同じだと、脳の片隅で薄く笑う。
 葉佩が、嬉しそうに「皆守」と言った。それだけで心臓がじんと痛む。快楽と苦痛は同じ要素で成り立っているのかも知れない。空想の海に意識を飛ばすより早く、葉佩が両手で皆守の肩を叩いた。

「ひっさしぶりー!何してんのこんなとこで!」
「仕事」
「え、お前まさか《宝探し屋》やってんの?」
「少し違うが、まあ似たようなもんだ」
「おいおい、俺に憧れたりなんかしちゃったりしてー?」
「よく分かったな」
「はい?」
「お前みたいになりたかったんだ」
「・・・へえ、そりゃお気の毒に」

葉佩は少しだけ怯えたように後ずさった。様子を窺うように上目遣いで皆守を見る。しかし、まだ手を伸ばせば届く距離だ。皆守は衝動の命ずるままに手を伸ばした。先程から気になっていた頬の擦過傷に指先で触れ、唇で触れ、ようとして側頭部に強い衝撃を受けた。葉佩が警戒と戸惑いと少々の恐怖を湛えて、今まさに皆守の頭をぶん殴った拳を胸の前で構える。

「え、と、俺もしかして今、危なかった?」
「お前に会いたかったって言ってるんだ」
「あ、そーなんだ。なんで?」
「理由が必要か?」
「ええと、まあ、理由は、あると安心するよね」
「確かにそうだな」
「だろー?」
「お前を殺したかったからだ」
「じゃ、俺はこれで」

素早く身をひるがえした葉佩が、更なる深闇に向かって走り出した。その直後、発砲音と何か硬い物が壊れる音が遺跡の静寂を震動させた。そこに化人とおぼしき異形の断末魔が混じり、やがてそれも聞こえなくなる。あとに残された静寂と闇に包まれて、皆守は声もなく笑った。

 この遺跡は既に、先発隊が調査を終えている。だから皆守が派遣されたのだ。奥底に眠る、夜の眷属を滅する為に。
 実のところ皆守は、妖魔退治になど欠片ほどの興味もない。しかし皆守が所属するM+M機関はまさしくその妖魔退治を専門としていた。何故こんな場所にいるのかといえば、ある男をこの手で葬り去りたいからだ。
 その男は我が物顔で平穏を掻き乱し、太古から受け継がれた価値ある誓言を嘲笑い、囚人たちが追い求めた永遠への片道切符を破り捨てたのだ。そうして自分だけは満足そうな顔をして、少女とささやかな約束を交わして去って行った。まるで全てが綺麗に完結したかのように晴れやかに笑って、振り向きもせず、彼女以外には一言さえも告げずに、あっさり音信不通の行方不明になりやがったのだ。
 世界各地を飛び回る《宝探し屋》に、正攻法では近付けない。同じ組織に所属するのが手っ取り早いとも考えたが、動向を容易に知られる距離は好ましくない。近すぎず、遠すぎず、狩りをするのに最も適した距離。その考えは、どうやら功を奏していたらしい。彼のあんな顔を目の当たりにできるなんて。

「逃げられると思うなよ」

 葉佩が走り去った暗がりに吐き捨て、皆守はゆっくりと足を踏み出した。内部の大まかな構造は記憶している。最奥までの道程ならば、ロゼッタ協会よりも先に入手していた筈だ。

 機関から支給されたナビゲーターを確認しながら歩いていると、記されているとおりに扉が現れた。開かれた形跡は見当たらない。葉佩はまだ到達していないのだろうか。頑なに閉ざされた扉に寄りかかり、アロマに火を点ける。
 ぼんやりと紫煙をくゆらせていたら、唐突に鼻先を弾丸がかすめた。ほぼ同時に葉佩が息を乱して走ってくる。扉の前で甘い香りを漂わせている皆守に気付き、慣性を殺しきれないほど急激な方向転換をして、しかし背中を向けるのは踏み止まり、微妙な距離で立ち止まって皆守に銃を突きつけた。

「なんでいるんだよ!」
「M+M舐めるな」
「てってめぇこそ!ロゼッタ舐めんな!」
「舐めてやろうか?」
「おおおお俺なんか舐めてもきっと不味いよ!」

寄りかかっていた扉から身を離し、ゆらゆらと複雑な軌道を描く銃口に歩み寄る。距離を詰め、震える銃口を左手で掴んだ。昔どこかの学者が、武器は男根の象徴だと言ったらしい。脳の片隅でそんな事を考えながら、歯を食い縛って何かに耐えている葉佩を見下ろす。
 何も考えずにじっと見詰めていたら、葉佩が如何にも怖々といった風情で口を開いた。

「お、俺、なんかした?」
「いや、お前は何もしてない」
「そ、そうかな」
「ああ、何もしなかった」
「じゃあなんで」
「何も、してくれなかった」
「・・・何して欲しかったんだよ」
「さあな、もう忘れちまった」

 追いかける理由が欲しかった。それだけだ。どうして追いかけたいと思うのか、そんな事は考えたくもない。
 掴んだ銃を捻り上げると、葉佩があっさり手を離して跳びすさった。重たい銃だけが皆守の手に残される。トカゲの尻尾切り。そんな言葉が流れて消えた。
 ねえ皆守、と、甘えているような、確かなる断絶を表すような声で葉佩が呼んだ。視線だけでそれに応えれば、旅立ちを祝福する寂寞の表情で声が続く。

「お前はさ、俺の、まあ、なんつーかね、あれだよ」
「どれだよ」
「初めての友達っつーかね、うん、初めての人だな」
「なんで言いなおした」
「だからさ、大事だし大好きだし、幸せになって欲しい訳さ」
「だから?」
「俺の事は忘れた方がいいよ」
「・・・ああ」

そのとおりだと、皆守は苦い薬を飲み下すように認めた。身勝手に夢を見たのは皆守だ。見た事もない自由というものを、彼は体現しているように思っていた。守られる事を望まず、何者にも頼らず、有する能力だけで自分を生かし、枯渇すれば死に至る。そんな風に見えた。皆守が甘受していた守られる立場である事を拒絶し、ただ獣のように生きて死ぬ。自分の存在価値を確立する為の庇護欲など、初めから必要としていなかったのだ。
 絶望的なまでに真っ直ぐな声が、閉ざされた扉の前に響く。

「いい思い出だよ、お前の事は」

その声がこんなにも真摯な色でなければ、微笑んでいられたのかも知れない。
 皆守は手の中の銃を葉佩に向けた。撃ち方はもう知っている。目の前で何度も見たし、意思を持って学びもした。こんな状況を夢想して、何度も地下の練習場で発砲した。もともと視力には自信があった。頭を撃ち抜き、心臓を撃ち抜く。少なくとも二発。多くとも四発。素晴らしい腕前だと驚嘆されたが、嬉しかった記憶はない。この心が沸き立った記憶は、あの夜をおいて存在しない。葉佩がただ一人を見詰めた夜。

 感情の支配下にある肉体がトリガーを引き、心など感知しない弾丸が放たれた。彼の心臓に届けばいい。彼を支配するあらゆる価値観を作り出す脳を撃ち抜けばいい。本心からそう願い、しかし果たさず無為に壁を削った弾丸を憎む。それを撃ち出した指を憎み、自分を憎んだ。

「どけよ皆守。俺はそいつを開けるんだから」

 闇の底で、星光のように葉佩が言う。他に言葉を知らぬような愚直な瞳だった。もしも皆守が植物だったら、きっと無心にその喜びを受け入れたのだろう。浅ましいなどと考える脳もなく、ただ生きる為に水を飲み干すように。惜しむらくは皆守が植物ではなかった事だ。葉佩のライフルが轟音を発した時、溢れたのは紛れもない憎悪と悲哀と、圧倒的な昂揚だった。
 彼の視野が狭い事は知っていた。囚人として生きるなどという選択をした自分よりも、よほど狭い世界に生きているのだと。

「葉佩」
「あのね、お前には言ってなかったかもだけどね」
「ここを開けたければ俺を殺せ」
「ほんとは葉佩じゃないから、俺」
「どうでもいいな」
「え、そーなの?」
「お前は葉佩だ」
「ええと、でも、あの、それ、偽名だから」
「だろうな」
「え、知ってた?」
「なあ葉佩」
「・・・えーと、意外とタフだねお前」

ライフルを構えたまま脱力した葉佩に、武器を放り出して踵を振り下ろした。銃などより頼りになる必殺の踵が空を切り、葉佩が受身を取って床を転がる。素早く立ち上がり、再びライフルを構えて静止した。
 その瞬間、葉佩のH.A.N.Tと皆守の通信機が同時にけたたましく鳴り響いた。それを無視して攻撃を再開した皆守に、葉佩が手の平を見せて一時休戦を提案する。舌を打って如何にも不本意そうに顔をしかめると、葉佩はそれが了承のサインだと過たず察して皆守から視線を外した。
 葉佩がH.A.N.Tを取り出し、送られてきた文面に目を通し、そうしてから皆守を見上げて「お前も早く読んだら?」と言ってライフルを肩に担いだ。言われたからという訳ではないが、通信機を取り出して同じように目を通す。

『遺跡の入り口付近で土砂崩れが発生した
 まだ完全に埋もれていないが時間の問題だ
 早急に脱出しろ』

 そういえば地上は雨季だった。相次ぐ森林破壊で地盤も緩くなっているのが、国内でも取り沙汰されていたらしい。そんな情報を浮かべつつ、担いだライフルを固定する葉佩を見た。

「そんな訳で、俺はとっとと脱出するから」
「そうだな、急げよ」
「うん、急ぐよ」

と言って、葉佩が口を曲げて皆守を見る。暫し無言で睨み合い、先に動いたのは葉佩だった。皆守の腕を乱雑な動作で掴み、皆守が何言か発する前に来た道に向かって足を踏み出した。怒っているようにも見える。掴まれた腕が痛い。そう言っても葉佩は拘束を緩めず、むしろ更に強く力をこめた。

「死にたきゃ勝手に死ねよ。俺の見てないとこでさ」

呟くような音量で、苛立たしげに言い捨てる。掴まれた腕が奇妙に熱くて、皆守は耐え切れずその手を振り払った。葉佩が、まるで傷付いたような目で皆守を睨み上げる。ほんの少しくらいは、彼に傷を残せていたのだろうか。何物にも縛られない自由なこの男に、僅かでも傷を。
 溢れたのは、たとえようもないほどの愉悦だった。