061:飛行機雲

すっと真直ぐに伸びた飛行機雲を見て、あいつの背中を思い出した。
真昼の青空に浮かんだ白い月を見て、あいつの手を思い出した。
駆け抜けた風が枝葉を揺らすのを見て、あいつの髪を思い出した。
水溜りにきらきらと反射する光を見て、あいつの目を思い出した。
思い出したので会いに来た。
だってやっぱり背中とか目とかだけじゃなくて、全部じゃないと意味がない。




062:オレンジ色の猫

近付いても逃げない猫を見ると、少し憂鬱になる。人間が怖くないのか。誰もお前を傷付けなかったのか。まだ信じているのか。優しい人ばかりじゃないのに、それを知らないのか。
無防備に頭を撫でられる猫を見ながら、ほんの僅かに力を込めた。




063:伝染

かつて隣に立っていた男は、いつも花の香りをまとっていた。それが安らぎを生み出すのだと信じて、麻薬に依存するようにそれを欲した。もはや意思ではなかったのだろう。呪いのように、祈りのように、ライナスの毛布のように、彼はそれを唇で拘束した。
その香りは、忘れ得ぬがゆえに忘れ去った女の残り香なのだと、あの夜に彼の口は語った。

そして今、自分はあの香りをまとっている。花の香りがする度に、救えなかった友人を思う。失ってしまった彼を思う。二度と戻らない時間を思い、自分の愚かさを悔やんだ。それは自分の罪を忘れぬ為であり、此処には居ない彼の幻を見る為だった。幻は苦痛でもあったが、同時に酷く甘い心地にもさせる。彼もこんな気持ちだったのかと、あらぬ妄想を掻き立てた。

彼が誰かから与えられた香りを、自分は彼から与えられた。
そうして伝染した狂気を、人は実に綺麗な名前で呼ぶ。まるでそれが美しい行為であるかのように錯覚してしまう。
忘れられない筈の記憶が、甘く溶けて夢になる。
目覚めたら消える、夢になる。




064:洗濯物日和(皆守・子供葉佩)

「おい葉佩」
「んー?どしたー?」
「俺の服は?」
「あそこではためいてる」
「・・・洗濯しちまったのか」
「だっていい天気だったんだもん」
「いや、曇ってるだろ」
「全裸にシーツってエロいね」
「・・・何がしたいんだお前は」
「洗濯」
「え、おい、ちょっと待て」
「だっていい天気なんだもん!」
「分かったから引っ張るな!」
「しょーがないだろ!いい天気なんだから!」
「今にも降りそうなんだが」
「うるせぇ!洗濯させろよぉ!」
「いいからとっとと服を寄越せ!」
「せっかく休みなのに皆守はずーっと寝てるし!」
「休みの日ぐらいゆっくり寝かせろ!」
「触ると怒るし!寝てるし!寝てるし!」
「あー分かった分かった。どうしたいんだ」
「洗濯」
「クーラー強くしとけよ」
「洗濯したい」
「重い。乗るな」
「洗濯させてよ」
「ちょっと緩めろ。苦しい」




065:冬の雀

 花は要らないと言った友人の為に、何か代わるものを探そうと森に入った。そこはかつて墓地と呼ばれた場所で、都内とは思えないほどの広大な敷地の中でも、とりわけ人の気配を拒絶した場所だった。
 今では、其処は墓地ではない。ただ木々の生い茂る、小さな生命に満ち溢れた、清浄な場所だった。

 彼は何を好んでいただろうと考え、何も思い付かなかったので、仕方なく自分の好む物を其処に置いた。あの夜が終わるまでは片時も離さず持っていた、銀のパイプ。優しい幻を見せてくれた、花の香り。それを、地面にそっと置いた。
 彼は死後の世界など信じていなかったので、祈りを捧げるのも相応しくないように感じた。ただ、もう二度と顔を見る事も、声を聞くことも、肩を叩き合う事も、向かい合って食事をする事も無いのだと、そう思った。




066:666

 野生動物のようだと思った。それも、怪我を負った獣。
 あの笑顔が偽りだと気付いたのは、出会って間もない頃だったような気がする。あれはあいつの鎧であり、また武器でもあったのだろう。ただ曖昧に微笑んでいたのではなく、一定の許容を見せて、それ以上の干渉を拒む、純然たる意思の表れだったのだと今更になって思った。
 だから、俺はあいつの笑顔が嫌いだった。獣が牙を剥くように、あいつは唇を笑みの形に歪めていたのだ。もし俺がもう少しだけ警戒心が薄くて、欲求をそのまま行動に移すような人間で、心のままに手を出していたら、喉笛を食い千切られていたのかも知れない。
 結局、俺は一度もあいつに触れなかった。それが良かったのかは、まだ分からない。手を伸ばして、触れて、あいつに殺されていたら、と、今でも時々考える。




067:コインロッカー

誰が鍵を持っているのかは分からない。いつこれが開くのかも分からない。もしかしたら永遠に開かないのかも知れない。ここは暗くて狭くて、でも時々外の音が聞こえてくる。
隣が開いた音がした。ああ、顔も知らないお隣さんは、きっと持ち主の手に戻ったんだ。羨ましくないと言えば嘘になる。俺もいつか、誰かが鍵を開けて連れ出してくれるのだろう。どうやら今日ではないようだが。

だいぶ長いこと微睡んでしまったようだ。ここは心地が好くて、惰眠を貪るには実に快適な空間だ。
そうしてふと思う。俺は本当にここから出たいのだろうか。ずっとこんな場所で眠っていた俺は、きっと外の世界では生きられない。隙間から差し込む光にもくらむほど、この目は闇に慣れてしまった。長い間うずくまっていた体は、もう立ち上がる力もない。
これは永遠に開かないのだと、夢の中で考えてひっそりと笑みを浮かべた。




068:蝉の死骸

足元に落ちていた。暫しそれを見下ろし、やがて一匹の蟻がその羽に登るのを見た。
夏が終わる。
そんな事実にすら、酷く気が滅入る。
季節は、全てを置いて流れ去る。
空を見上げるだけで、涙が出そうになる。
行かないでくれ。俺も、連れて行ってくれ。
忘れた筈の慟哭が、汗と共に地面に落ちた。




069:片足(皆守)

その頭頂部に踵を落としたくなった。抱き締めたくならなかっただけマシか、と思い、皆守は自分の思考回路を意図的に遮断した。その思考の先にあるものに気付いてしまったら、きっと安らかに死ぬ事も、平凡に生きる事すら叶わなくなる。




070:ベネチアングラス

 そこに立ち寄った事に理由を求めるなら、偶然と気紛れと好奇心とその他が5:3:1:1ぐらいの割合だろうか。その他については深く詮索しないでくれ。そう言ったら、お土産に買ったグラスよりも透き通った青い目がほんの少しだけ柔らかくなった。何一つ変わっていないようで実は大きく変化している青い目を見上げて、どうかさり気ない振りが成功していますようにと願いながら彼の行方を問う。

「知らないのか?」

 青い目が眇められた。何を?と俺は返す。返しながら、自分の無意味に発揮される洞察力を恨んだ。青い目に浮かんだ僅かな色で、俺は察してしまった。
 彼がもう、どこにもいないのだと。