051:携帯電話(皆守)

 ご所望の物です、と言って差し出されたのは、カレーパンだった。それを受け取り、皆守は当惑した。まさか本当に持ってくるとは思わなかった。葉佩は、自分が差し出した物が過たず皆守の手に渡った事を喜んで、笑みを浮かべている。そこには一片の迷いも無い。

鍋を取り出すが、葉佩はそれを要らないと言った。ただ満足そうに笑っている。皆守が更に困惑する。葉佩は、どうして自分の望みを叶えようとするのだろう。
返せるものなど、何も無いのに。




052:真昼の月

貴方が孤独だったから
心を隠していたから
癒えぬ傷を持っていたから
俺に出来る事などなかったから
忘れられないのだと、全てが終わってから気付いた。




053:壊れた時計(葉佩・皆守)

「やっべ寝すぎた。皆守、いま何時?」
「えーと、2時15分」
「はっ?」
「止まってる時計と三秒遅れてる時計、どっちが正確だと思う?」
「意地悪クイズとかどうでもいいから」
「こっちの時計では8時48分」
「あーもう諦める」
「らしくないな」
「俺をどうしたいんだお前は」
「壊したい」
「うわ怖ぇ!聞かなきゃよかった!」
「世の中そんな事だらけだ」
「くっそーお前の部屋に目覚ましなんか期待した俺が莫迦だったよ」
「まあ、行くんならとっとと行け」
「んー、もう少し寝る」
「あ、おい!毛布を巻き取るな」
「寒いんだよー」
「狭い」
「しょうがないだろー」
「どこ触ってやがる!」
「うるせぇなー」




053:054:子馬

地平線の葦毛の馬を、葉佩は追いかけていた。
立てなければ見捨てられると思い込んで、ずっと走ってきた。
隣で、欠伸まじりの声が「くだらない」とつぶやく。
地平線じゃなくても馬なんてそこら辺にいるだろ、と。

それもそうだと納得してしまったのが敗因だと、今では思っている。




055:砂礫王国

体内に侵入された。その痛みではなく、恐怖で叫んだ。
何一つ持たずに生きてきた。欲しても得られないと知ったのは、自分が人間だと教えられるより前だった。
それでも、この体だけは自分が支配する自分だけの王国なのだと、そう思っていた。
自分ではないものに囲まれて、この体、指先に至るまで、それだけは自分のものなのだと。
唯一の、全てだった自分さえ、それはお前のものではないのだと、侵入したものが囁く。
抗う術は見出せず、ただ無力な幼子のように泣き、いやだと叫んだ。

何も持たずに死ぬのだと、ずっと思っていた。
ただ、この傷と体だけは、潰えるその瞬間まで自分だけのものだと。
それすら幻だというのか。
体すら、この心すら、初めから自分のものではなかったのか。
侵される。
信じていたのに。




056:踏切(皆守)

 空気を切り裂く鋭い音と同時に、爪先が弧を描いた。遠心力に引かれた筈の軸足に、視認できるブレは無かった。床に触れて小気味良い音を立てる左足を踏み切り、今度は低く走り込んだ。化人の腹の下に到達するや否や、その体が弾けた。右足で膝裏を刈り、化人の足を巻き込んだまま、左の爪先を頭上まで振り上げたのだ。減り込んだ爪先が光に包まれる。膝頭と鼻先を触れそうなほど近付けた体勢のまま、一瞬だけ静止した。ように、葉佩には見えた。ゆっくりと皆守がその足を下ろした時には、全てが終わっていた。




057:熱海(葉佩・皆守)

「・・・ねっかい?」
「あたみ」
「あたみぃ?何でこれが『あたみ』なんだよ」
「俺に言うな」
「あ、あつうみ?」
「あたみ」
「『あつうみ』が訛って『あたみ』」
「ちょっと苦しいな」
「きっと海中から熱湯が噴き出したりしたんだよ」
「あーそーかもな」
「温泉いきてーなー」
「ところでずっと気になってたんだが」
「なに?」
「俺ら、迷ってるよな?」
「ん、まあ、そうなるかな」
「何でお前は観光地図を広げてんだ」
「分かんないけど、ポケット入ってたから」
「一度でいいからそのベストの構造を検証したい」
「うん、実は俺も」




058:風切羽(葉佩・皆守)

 葉佩が目覚めて最初に見えたのは、皆守の横顔だった。甘い紫煙が流れてくる。呻いた声に気付き、皆守が僅かに微笑んだ。安堵したような表情だ。しかしその表情はすぐに消え、いつもの皮肉な笑みに塗り替えられる。ぼんやりとそれを見返す葉佩を覗き込み、悪戯をした子供を見るように唇を歪めた。

「起きたか」
「・・・俺、生きてる?」
「生きてるよ。俺に感謝しろ」

見下ろしてくる視線を見詰め返すと、皆守がまた微笑んだ。身を起こそうとすると、優しく額を押さえられる。そのまま髪を撫でる手の平が、冷たくて心地好い。そう言うと、手は僅かに躊躇ってから目蓋を覆った。

「寝てろ」
「・・・いま何時?」
「いいから、もう眠れ」
「でも俺、行かなきゃ」
「もういいんだ」

添えられた手の冷たさが、急に恐ろしくなった。これではまるで、安息のようではないか。まるで、いつか見た夢のような。思い至り、葉佩が痛む体を起こそうと身じろいだ。冷たい手が、名残惜しそうに離れる。それを追って上体を起こすと、皆守と目が合った。彼が視線を合わせるなんて、珍しい。そう言うと、皆守は暫くぼんやりと宙を見詰め、目を開けたまま眠ってしまったのかと葉佩が不安になるほどの間を空けてから、小さな声で呟いた。

「どうせ起きたら行くんだろ」
「うん、まあ、行くけど」
「・・・足を折ったら、どうする?」
「はい?」
「失明したら?」
「何の話?」
「それでもお前は行くんだろ?」
「そりゃまあ、行くけど」
「じゃあ寝てろ」

そう言って、まるで労わるように葉佩の体を押した。逆らわず、再び身を横たえる。
 葉佩を排除する事にどれだけの苦痛を感じても、彼はその責務を全うするだろう。苦痛を感じている時点で、それは裏切りなのに。皆守が自分を救うと信じていた役目は、葉佩を前にして呵責へと変化した。それでも、皆守はその義務を遂行するに違いない。それならば、言うべき言葉など無い。
 そんなのは嫌だ。何か与えたい。消えない何かを、彼に残したい。このまま眠ってしまったら、永遠にそれは叶わない。それだけは絶対に駄目だ。目を開けなければ。
 ああでも、そうしたらきっと、この手は離れていってしまう。




059:グランドキャニオン

「今から言う事を想像してみてください」
「努力してみます」
「宜しい。では、皆守君が崖にぶら下がっています」
「はい、想像しました」
「皆守君は肩に怪我を負っています」
「怪我の理由は、《転校生》を沈黙させる目的で上段蹴りを放ち、それを躱した《転校生》がナイフで切りつけた事に因るものと想像しました」
「宜しい。皆守君は崖から落下する事を望みません」
「それを想像するのは難しいと思います」
「努力しなさい」
「はい、皆守君は崖から落下する事を望みません。望みません」
「貴方の腕力では、彼を引き上げる事は不可能です」
「はい、私の腕力では彼を引っ張り上げるなんて無理です」
「でも、彼は必死で貴方に助けを求めています」
「努力するので時間をください」
「分かりました。許可します」

「想像しました。皆守君が必死で私に助けを求めています」
「28分56秒かかりましたね」
「感嘆すべき早さだと思います」
「それには同意しかねますが、まあ宜しい。
 では、崖の下には何があると思いますか?」




060:轍

落としていた視線を上げる。先にこの道を行った人が残した跡が目に入った。一つ、ギアを落とす。
ふと振り返る。たったいま踏んだ道に、名も知らぬ花が揺れていた。
対向車が来た。脇に避けて遣り過ごす。擦れ違い様に、軽トラックの運転手が右手の平を見せた。
それに左手を上げて、また走り出す。
こんな道が人生ならば、きっと明日も怖くない。