091:サイレン(皆守)

 またあの夢だ、と、ぼんやり思う。ひしゃげた背骨、陥没した頭蓋、折れ曲がった頚骨、正視に耐えない壊れた人間を、もう何度も目にした。夢の中でも、現実でも。
 これに耐えれば、生きる場所が与えられる。もういっそ全て奪われて死んでしまえたら楽だろうに。
 自嘲を浮かべながら壊れた人間を見下ろして、ふと不思議な気持ちになった。どうしてここに死体があるのだろう。しかもこの顔は知っている。名前は忘れたが、確かにどこかで見た顔だ。でもあいつが死ぬなんて有り得ないから、やはりこれは夢だ。目覚めたら話してやろう。最悪な夢だったぜ、お前が死んでるんだ。いつものように笑うだろうか。縁起でもないと怒るだろうか。
 どちらにしろ、早く目覚めなければ。こんな所に長居は無用だ。なあ、早く帰ろうぜ。どうした、なんで無言なんだよ。どこか怪我でもしたのか?おい、なんで死んでるんだよ。早く俺を連れ出してくれよ。バカなこと言って笑えよ。気が向いたら笑ってやるから。そうだ、カレー作ってくれるって言ったよな。新作が浮かんだとか言ってただろう。お前、あのなんでもカレーにぶち込むのやめろよな。あれはもうカレーに対する侮辱だぞ。おい聞いてるのか?
 ああそうか、これは夢だったな。

 ・・・なんで目覚めないんだ?




092:マヨヒガ(葉佩)

『どんな物でもいい。一つだけ、何かを持って帰るといい』

文字の読み方を教えてくれた人は、本を閉じてそう言った。山で秘境に迷い込み、辿り着いた無人の屋敷で椀を一つ持って帰る。その人が読み聞かせてくれたのは、そうして仕合わせになった男の物語だった。

葉佩のポケットには、安物のライターが入っている。彼が数回だけ使い、葉佩の部屋に忘れていった物だ。
信じてなどいない。あの日に聞いた御伽噺を、民俗学的な考証のサンプルとして扱う事はするけれど、それだけだ。あそこは秘境ではないし、自分は迷い込んだのでもない。
ただ、置き忘れられたライターを見た時、葉佩は思い出した。

『そうしたら、仕合わせになれる』

信じてなどいない。
ただ、葉佩のポケットには、彼が数回だけ使った安物のライターが入っている。




093:Stand by me

今になって思う。あいつは友人などではなく、況してや敵などでもなく、ただ同じ時間、同じ場所に居合わせただけの通りすがりだったのだと。それだって、決して全く同じ場所ではなかった。人間が同じ空間に重なって存在するなどというSF小説のような現象は起きなかったし、何よりあいつは俺とは違う脳を持っていた。俺の見ていた幻が、あいつには見えていなかった。
ただ、あの時あいつは隣に立っていた。それだけの話だ。




094:釦(葉佩・皆守)

「あああ!授業終わってんじゃねぇか!」
「面白いぐらい熟睡してたな」
「何で起こしてくれなかったんだよ!」
「何で俺がお前を起こすと思うんだ」
「ヒナ先生の授業だけは皆勤賞ねらってたのに!」
「物好きだな」
「ヒナ先生は俺のオアシスなんだよ!」
「八千穂は?」
「八千穂は俺のジャングル」
「俺は?」
「道路」
「・・・意味が分からん」
「通過点って感じ」
「地味に傷付いた」
「寝てる間に悪戯された俺の方が傷付いたよ」
「・・・起きてたのか!」
「寝てたよ!」
「あ、なんだ、寝てたのか」
「ボタン全部はずれてりゃ普通は気付くよ」




095:ビートルズ(葉佩・皆守)

「あ、カブトムシが編隊組んでる」
「変態はお前だ」
「え、俺ってそんなに変態?」
「無自覚な辺りが特に」
「そっかー俺って変態だったのかー」
「オタマジャクシがカエルになるのとは違うからな」
「うん、分かってるよ」
「・・・何が変態だって?」
「フォルクスワーゲンが並んで走ってるなーって」
「あ?」
「お前が俺を貶すのって、もう脊髄反射だよね」
「突然なにを言い出すんだこの変態!」
「なにその反応!俺どうりゃいいの?萌えればいいの?」
「勘違いするなよ、俺はただ素直に思った事を言ってるだけで」
「何をどう勘違いしたらいいのか分かんねぇんだよ!」
「・・・それならいいんだ」
「ああ、お前がいいんなら俺もそれでいいや」
「そんな付和雷同でいいと思ってるのか」
「お前ほんとは構って欲しいだけだろ」
「あ、見ろよ葉佩、テスタロッサだぜ」
「そーだねーかっこいいねー」




096:溺れる魚(葉佩・皆守)

 葉佩が、酷く切なげな目で見上げてきた。禁忌に触れるような仕草で、そっと手を伸ばす。禁忌など鼻歌混じりに蹂躙するこの男が、何を思ってそんなことをしたのかは分からない。肩に触れ、髪に触れ、もう一度肩を叩き、回した手の平で背中を叩いた。そうして、何も言わずに身を離して立ち去った。
 今まさにベッドに入り、愛しの寝具達と睦みあわんとしていた皆守は、呆気に取られたままその背中を見送った。暫しぼんやりと、たった今その身に触れた冷たさを思う。次にふと思い立ち、ドアの鍵を確認する。鍵は確かに施錠されていた。

 皆守の部屋を出て、自室に向かう。その途中で、葉佩は何度も拳を握った。たったいま触れた温もりを確かめるように、或いは封じ込めるように、手の平を指で包んだ。
 闇を恐れるようになったのは、いつからだろう。妖艶な闇が、問うても答えなくなったのは、一体いつから。自問し、その答えの無意味さに気付く。いつからだったとしても(たとえ出会ったその瞬間からだったとしても)関係ない。葉佩は、禁忌を犯した。その事実が存在するだけだ。
 恐怖に震えながら闇に身を投じる。暗がりが、敵意を抜き出しにして葉佩にその視線を突き刺す。裏切り者と謗る声に耳を塞ぎ、葉佩は見出した扉を開いた。それは、葉佩に唯一残された、自分を生かす方法だった。




097:アスファルト

雲になりたい。
そう言ったあの人は、きっと知らない。
雲が大地に憧れて雨を降らせている事を。




098:墓碑銘(葉佩・皆守)

「なんにも書いてないんだね」
「死者じゃないからな、一応」
「俺が負けたら、此処に埋まるんだ」
「そうだな」
「花は要らないから」
「分かってる」
「ってゆーか、負けないから」
「それはどうだろうな」
「泣くなよ」
「泣いてない」
「裏切ったとか思ってねぇから」
「信頼なんか始めから無かったって事か」
「違うよ。皆守は裏切ってねぇっつってんの」
「俺はお前を殺すぞ」
「上等、出来るもんならやってみろ」
「裏切りじゃないのか」
「俺が信じてるのは、お前が信じてるものだよ」
「?」
「お前が信じてるもんは、俺より価値があるんだろ?」
「・・・」
「その為に殺されるんなら、俺は恨まないよ」
「葉佩」
「まあ、簡単に死ぬ気はねぇけどな」




099:ラッカー(葉佩・皆守)

庭先に新聞紙を敷き、葉佩はその上に愛用しているヘルメットを置いた。鼻歌のリズムに合わせて、カラカラとスプレー缶を振る。その様子を眺めながら、皆守が「何してんだ」などと言いながら近付いて来た。慌てて「火気厳禁!」と叫び、その足を止める。皆守の口元では、いつものように紫煙が揺れていた。葉佩の手に握られているスプレー缶を見留め、皆守が納得する。続けて、カッティングシートとビニールでコーティングされたヘルメットを見下ろす。皆守が示した理解に、葉佩が満面の笑みを浮かべて言った。

「お色直し」
「そうか」
「今度は赤にするんだ」
「ふうん」
「皆守、最近は着ないね」
「あ?」
「あのシャツ」

葉佩の手には、赤とオレンジのスプレー。漸くその試みに思い当たった皆守が、あからさまに眉をしかめた。同時に、何かを失ったような気持ちになった。もう二度と戻らない時の上に立っているのだと、そんな事を思い浮かべる。
葉佩はかつて、何かを懐かしむという感情を理解できないと言って寂しそうに笑った。

見憶えのある炎を、満足気に磨く葉佩を見る。
変化したのは、自分だけではない。それが嬉しくて、悔しくて、皆守は大事そうにヘルメットを抱える葉佩の後頭部に足の裏を押し当てた。




100:貴方というひと

 恐らくは無意識だろう、逃げを打った腰に苛立ち、力任せに強く引き寄せた。最奥まで挿し入れられて、彼が悲鳴のような声を上げる。それは恐怖だ。深くまで男に貫かれて、苦痛ではなく声を上げる自身を、彼は恐れている。眼前に見える白い喉に噛み付くと、彼が唾を飲んだのが分かった。首筋を辿って耳の裏を舐めると、ぎゅっと絞られる。思わず息を止めた。
 羞恥と屈辱に耐えながら鋭い眼光で見上げてくる目は、こんな時でも理性を手放さないのだと思い知り、酷く暴力的な気分になった。押し潰されそうな恐怖に震えながらも、彼は挑んでいる。冷たく燃える瞳が、こんな事では屈しないと気高く言い放つ。
 どうすれば彼は狂うのだろう。俺が彼に狂ったように。