001:クレヨン(皆守・葉佩)

抽斗の奥から随分と懐かしい物が出てきた。裏返すと、平仮名で所有者の氏名が記されている。小学校低学年の時分に使用していたクレヨンだと思い至り、あまり思い出したくない記憶が脳裡を過ぎていった。今の自分が所有していても使用する事はないと断じて、燃えるゴミの袋に放り込む。と、その手を葉佩が止めた。訝しんで視線を向ければ、その時にはもう取り上げたクレヨンの箱を嬉々として開封していた。

眼前に現れた不ぞろいな絵具を検分し、葉佩が一つの事実に気付いた。さまざまな長さで並ぶクレヨンの中に、一本だけ全く減っていない色がある。
身を削って画用紙に色を移すのが、クレヨンの存在意義だ。一枚の絵を完成させてこそ、その用途は果たされる。そして子供というものは、往々にして好む色を多く消費する。価値があるのは、描かれたその完成品に他ならないのだ。
一度たりとも使用された形跡の見えない、新品同様の紫色のクレヨンを見下ろす。
迷う素振りすら見せず、不要と断じた物を次々とゴミ箱に放り投げる皆守の背中をこっそり盗み見て、「こいつって昔っからこんな奴だったんだなぁ」と、声には出さずに呟いた。




002:階段(葉佩)

 一階の廊下を歩いていた葉佩が、階段の踊り場に皆守の姿を発見した。意味は無いのだが、背後から忍び寄ってみようと思い立って実行に移した。気配を極限まで消し、階段を上る。皆守は近付く不穏な気配に気付かず、誰かと談笑しているようだ。彼のそんな顔を、葉佩は見た憶えが無い。まずは手摺の陰になっている人物を確かめようと、身を低くして視界を移動させる。
 その動作が終わる前に、皆守が声を立てて笑った。その頬に、誰かの手が触れる。その手に自分の手を重ね、皆守が今度は声を立てずに微笑んだ。いつの間にか見慣れてしまった、嘲りを含んだ表情ではない。

 気配を消したまま、葉佩はその場を立ち去った。




003:荒野

このぬくもりは、幻なのかも知れない。本当はベッドなど存在せず、ここは荒野なのかも知れない。寒さと孤独に耐え切れず、脳が勝手に作り出した幻覚の中で生きているとしても、それを完全に否定する根拠はない。
隣で安らかな寝息を立てる人に、そっと手を伸ばした。

早く目を覚まして、夢ではないと言ってくれ。
そうしたら信じるから。




004:マルボロ(子供葉佩・皆守)

皆守はラークだ。赤い箱がよく似合っていると、見る度に思っていた。葉佩には喫煙の習慣が無い。
もう一度、テーブルに置かれた箱を見る。マルボロだ。灰皿には吸殻が五本残っている。一本は見憶えのあるラーク。四本がマルボロだ。じっとそれを見詰めていたら、玄関でドアの開く音がした。足音がよく知っているものだったので、葉佩は動かずにその人物の接近を待った。

「うお、居たのか」
「誰か来たの?」
「ん?ああ、ちょっとな」

目を合わせずに葉佩が顔を歪めた。
皆守は社交的ではない。自分のテリトリーに立ち入るものを、無意識の内に選別している。葉佩が此処に居られるのは、取りも直さず皆守がそれを許容したからだ。自分の他にも、それを許された者が存在する。その事実に、何故だか無性に腹が立った。狭量だ、と認めはしたが、湧き上がる感情はどうしようもない。
目を伏せたまま黙り込んだ葉佩に、皆守が口の端を上げた。

「妬いてんのか?」
「誰が、誰に?」
「お前が、大和に」
「やまと?って夕薙か!」

感情の向かう相手が具体的に提示され、漠然とした不安が憎しみに近くなる。こんな自分は知りたくなかった。
力任せに皆守の肩を引き寄せ、顔を埋めた。「しょうがない奴だ」と言いながら優しく背中を叩く手に、泣きたくなる。皆守は全てを許してくれるのに、自分はこんなにも些細な事で彼を煩わせている。それが悔しい。更に力を込めると、皆守が痛みを訴えた。離さなければ、と思うが、離したくない、と同時に思う。
痛みではなく、醜い嫉妬でもなく、もっと優しくて温かいものを与えたいのに。それすら叶わない自分の手が、酷く惨めだ。




005:釣りをするひと(葉佩・皆守)

ぱしゃん、と音を立てて、魚が跳ねた。釣り糸を垂らしている葉佩の、すぐ横で。

「まだか」
「・・・」
「腹が減ったんだが」
「・・・」

葉佩が無言で立ち上がった。手製の釣竿を放り出し、少し離れた場所に停めてあったDT250に歩み寄る。プラグを引き抜き、何やらコードを取り出して繋ぎ始めた。葉佩の目的を察した皆守は、黙ったままそれを見ている。確か、日本では禁止されている筈だ。感電死した話も聞いた事がある。
葉佩がコードの先を川に放り込み、セルを回した。一度だけ皆守に向き直り、笑みを作る。

「良い子は真似しないでね」

良い子ならば、言わなくともそんな真似はしない。そう思ったが、やはり無言で焚き火を突付いた。




006:ポラロイドカメラ(葉佩・皆守)

「皆守、ポラ出して。写真とる」
「これって普通のカメラじゃ駄目なのか?」
「現像に時間かかるだろ」
「いや、データ送ればすぐプリントできるだろう」
「ところで素朴な疑問なんだけど」
「本当に素朴だったら答えてやる」
「普通のカメラって、デジカメ?」
「思ったより素朴だったな。他にあるのか?」
「フィルムカメラが普通だと思ってたよ」
「ふうん」
「デジタルは駄目だよ、改竄できるから」
「こんな石像のデータ改竄する奴いるのか?」
「世紀の大発見だったらどーすんだ!」
「写真だって燃えたらなくなるぞ」
「データが壊れるより確率は低いよ」
「あ、おい葉佩、あの辺も入れろ」
「ん?どの辺?」
「あそこ、人の顔に見える。心霊写真っぽく写せ」
「おお、ほんとだ。よっしゃ任せろ」
「あ、動いた」
「うごくせきぞう が あらわれた!」
「実況中継しなくていいから」
「ほら見ろ!やっぱ大発見だったじゃねぇか!」
「ああ、写真とる前に粉砕されるの決定だがな」
「壊すなよ!」
「無茶言うな!」




007:毀れた弓(葉佩・神鳳)

 壁際に追い込まれた葉佩が、活路を探して忙しなく視線を動かす。その視界に、警告を告げる信号が点滅した。勿論それは脳内で作られた幻なのだが、葉佩には信じる理由がある。思考すら追いつかず、体が自動的に反応した。
 鈍い音を立てて壁に突き刺さったのは、矢だった。

「はずしたか」

呟いたのは神鳳だった。葉佩が、床に寝転がったまま顔を上げる。反射的に身を伏せたのは、葉佩にとっては正解だったようだ。だが神鳳は、その行動に鋭い憎しみを向けた。表情筋は一寸も使わずに、瞳だけで殺意を表現している。葉佩の背中に嫌な汗が浮かんだ。

「君の事は、もう少しまともな男だと思ってましたよ」
「は、はい?」
「僕が害を被った訳ではないのですが・・・人を殺したくなったのは久し振りです」
「昔はよくあったんだ」

神鳳が、口を閉じて弓を引き絞った。




008:パチンコ(村雨)

いまいちだったな、と胸中で呟きつつ、パチンコ屋を後にした。今日は調子が悪いらしい。行き着けの雀荘に顔を出すも、やはり配牌からして良くない。早めに切り上げて、当ても無く路地裏をさまよった。こんな日は、とっとと帰って寝るに限る。そんな事を考えながらも、歩は何処へともなく足を向ける。その足を止めたのは、聞き憶えのある声だった。
こんな場所で無遠慮に自分の名前を呼ぶ人間など、そうはいない。その顔を思い浮かべつつ振り向くと、予想どおりの顔がこちらに向かってきた。思わず頬が緩む。大声を出さずとも会話が出来る距離まで近付くのを待って、からかうように笑いながら名を呼ぶ。腹の底に溜まっていた不快な塊が、するりと解けて流れ去るのを感じた。
今日の不運は、これでチャラだ。呟いた声に、疑問が返される。今日は全部で8万しか勝てなかった。そう言うと、涼やかな声で夕食を強請られた。それも、珍しい事に微笑を浮かべて。
偶然に会えただけではなく、食事にまで誘われた。しかも微笑みすら浮かべて!

そんな些細な事で、一日の負けが吹き飛ぶ。俺も安くなったな、などと浮かぶ苦笑も、隣を歩く靴音に消された。8万なら大勝の部類に入るのではないか、などと嘯く声に、俺を誰だと思ってやがる、と、緩んだ頬を隠すように歯を剥いてみせる。そうすると、またあの微笑が咲いた。
これがツキではなく、運命ならいいのに。不意によぎった思いに、ぎくりとして足を止めた。怪訝そうに覗き込んでくる瞳を直視する事が出来ずに、唐突に降って湧いた感情の名を、信じられない思いで見詰める。
もしかしたらこれは、大敗なのではないか。




009:かみなり(皆守・葉佩)

轟音と共に雷光が走った。ああ降ってきたな、と、ぼんやりと皆守が思う。出かけるのが面倒臭い。だが、冷蔵庫は既に極限状態だ。空腹を持て余したまま、暫しこの神鳴りを見詰めよう。そんな結論を思い浮かべ、窓の外を見ていた。その左手を、葉佩が掴んだ。思わず見上げた黒い瞳に、いなづまが走る。数秒だけ遅れて、神の怒りが轟く。腕を掴んだ手は、細かく震えていた。

「怖いのか?」
「何でお前は怖くねぇの?」

逆に問われ、答えを探し出せずに瞳を見詰めた。避雷針を有した建物がすぐ近くにある。まさか、この場所に落ちるとは思えない。そんな言葉がよぎったが、口には出さずに葉佩を見た。

「あれって、人を殺すんだよ」
「まあ、打たれれば死ぬな」
「意味とか無いんだぜ?」
「そりゃ、自然現象だしな」

肯定を示しながら、その言葉の本当の意味は理解できない事を、皆守は知っていた。
葉佩が、掴んだ腕を引き寄せる。引かれて抱かれた体を、雷光が照らし出した。痛いほど強く胸に閉じ込められて、皆守が僅かに苦痛を声に出す。それを無視して、葉佩が低く囁いた。

「いま、死ぬかも知れないんだよ」

そうだな、と、喉の奥で応えた。
理不尽な死を、葉佩は恐れている。こんなにも有り触れた現象を、葉佩は畏れている。恐れるのは、きっと自分の死ではないんだろうな、と、窓の外を見たまま考える。
喪失の恐怖が、葉佩を弱くした。畏れを知らぬ《宝探し屋》は、もうどこにも居ない。禁忌を犯し、神の怒りにすら嘲笑を浮かべた勇敢な男は、もうどこにも居ない。皆守が憧れ、夢見た無法者は、あの夜に消え失せた。
震える腕に抱かれ、皆守が光を見詰める。
意思など無く、この身を貫く光なら、いっそ委ねられたのに。




010:トランキライザー

「俺が憶えててやるから、忘れちゃえよ。全部」

悲しい記憶は全部俺が食ってあげる。
お前は優しい夢だけ憶えてれば良い。
俺が全部、持って行くよ。