翌朝、葉佩はいつもどおりに笑っていた。昨晩の怪我を案じる八千穂に、《宝探し屋》舐めんなよ!などと訳の分からない事を言っている。さっすが九チャン!と、更に訳の分からない事を大声で言う八千穂に、皆守はもうどうしたらいいのか考えるのも面倒臭くなった。諦観と悲哀と眠気を湛えた瞳でそれをぼんやり見ていたら、葉佩が親指を立てつつ皆守を見た。やはり意味は分からなかったので、親指を下に向けてそれに応える。皆守のその動作に、やけに嬉しそうな表情で葉佩が吠えた。

「喧嘩売ってんのか!」
「売ってない」
「そっか、ならいいんだけど」
「地獄に落ちろ、だったか」
「ああ、意味は知ってたんだね」
「まあ、なんとなく」
「どっちかってーと『そいつを殺せ!』って感じかな」
「へえ」

斜め下から斜め上に聞き流しながら、アロマを銜えて火を点ける。いつか対峙する時が来たら、中指でも立ててやろうとふと思い付いた。薄汚い征服欲を叩き付けて不敵に笑ってやれば、彼も笑ってくれるだろう。それとも、本気で軽蔑されるだろうか。はたまた、その時にはもうとっくに見限られているかも知れない。
 始業の鐘が響き、慌ただしくも整然とした空間を作り出した羊達を見遣る。同時に幻の羊を数えながら、皆守は今日が昨日の続きである事を一心に願った。視界の端で踊る羊が56匹になった辺りで意識が途切れる。闇に落ちる一瞬前に、いつの間にか混じっていた黒い羊が柵を壊して走っていった。

 皆守が目覚めると、世界は放課後になっていた。明日を疑う事すら知らない別れの挨拶が飛び交い、羊達が与えられたねぐらへと足を向ける。いつものように無為に過ぎ去った時間を惜しむ事もせず、皆守は曲げていた体を伸ばしながら立ち上がった。葉佩の姿は見えない。一瞬だけ、自分にも役割があった事を思い出す。一つの機構を構成する一部であった自分を思い出し、それ以外に世界と関わる手段が存在しない事を嘆いた。だが、それも一瞬だ。自ら機構を構築するなど、皆守には不可能だった。それが平凡というものだ。平凡である事を、皆守は望んでいる。
 廊下を、足音を消して歩く。意味は無い。自分がどれだけ無音で動けるか、ふと試してみたくなっただけだ。下駄箱まで来て、今日は床の黒い部分を踏まないで校舎を出る事にする。しかし、五歩目で詰まった。皆守が本気の脚力を使おうかどうしようか思案していると、聞き憶えのある声が近付いてきた。

「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だってば、俺は《宝探し屋》だもん」
「痛くないの?」
「全然」
「えい!」
「ぜんっぜん痛くない」
「ほんとにー?」

葉佩と八千穂だった。白い床で進退窮まっていた皆守に気付き、会話を中断して有り触れた言葉を投げてくる。それに曖昧に頷き、皆守は腰を落とした。校庭まで出られれば、誓いは果たされる。胸中で呟いて、助走も無く跳んだ。
 着地して息をついた皆守を、二人は首を傾げて見ていた。普通に歩いて校舎を出て、皆守に歩み寄る。満足気な表情を浮かべている皆守を、葉佩が見上げた。

「何してんの?お前」
「気にするな」
「まあいいけどさ・・・」
「皆守クンは?どう思う?」
「何が」
「九チャンのこと心配じゃないの?」
「無駄な事なんかこの世に溢れ返ってるが、その中でもこいつの心配ほど無駄な行為はないと思う」
「うん・・・うん?」

素直に心情を語った皆守に、八千穂が一瞬だけ頷きそうになり、次に眉を寄せた。その瞳が自分を貫く前に、皆守は視線を逸らせて煙を吐いた。その横で、葉佩が奇妙な表情で宙を見詰めている。含まれた感情は複雑すぎて、皆守には読み取れない。そして、読み取る必要も無いと考えていた。他者への理解など、空想の産物でしかない。優しさが想像力で作られるのなら、どこまで行っても人は孤独なものだ。閉じられた脳の中で、自分で作った快感と苦痛を弄んでいるだけだ。だからどうした。
 皆守は、脳裡でたゆとう無意味な言葉と戯れるのに夢中になっていた。歩き出した皆守の横では、葉佩と八千穂が会話の続きを展開している。

「だってさぁ、すっごいいっぱい血が出てたよ」
「ほら、俺って血気盛んだから」
「ほんっとぉーに?無理してない?」
「してないよ。やっちーは優しいね」
「もー!またそーやって誤魔化す!」

 皆守の呟きは、外界と完全に隔絶されている。世界がどれだけ変わろうとも、この小さな部屋だけは硬く閉じられていた。しかし最近になって気付いたのだが、その隅に得体の知れない何かが存在している。初めからあったのか、いつの間にか出現したのかは判然としない。目を逸らすと襲われそうな気がして、どうにも気になる。だがそれを見詰めていると、それもまた自分を見詰めているように思えた。時々、全てをそれに支配されているような錯覚すら起こす。為す術が見当たらないので放置しているのだが、不安は常にあった。

「大丈夫だよ」
「・・・分かった、信じる」
「うん、ありがと」

 皆守が現実に戻ると、何故か葉佩と八千穂が隣を歩いていた。寮に向かう皆守と彼等の目的地は同じなのだから、それも不自然な事ではない。二人の会話も決着がついたようだ。葉佩が皆守に向かって、「腹減った」と、さして深い意味の無い言葉を放つ。皆守がそれに同意を示すと、葉佩は気味が悪いほどご機嫌な表情で頷いた。

「じゃ、俺らマミーズ寄ってくから」
「うん、じゃあね!食べ終わったら連絡してね!」
「おう、任せろ」
「待て、いま俺らっつったか?」
「皆守、今の聞いた?」
「聞いたから聞き返してるんだ」
「やっちー、俺のこと信じてるって」
「ほお、そりゃ可哀想に」
「あーやっぱ飯も誘えば良かったかなぁ」

嬉しそうに悔しがる葉佩から目を逸らす為に、アロマに火を点けた。去って行く八千穂に手を振っている葉佩の背中を見ながら、今日は何を食べるかな、と、やはり意味の無い言葉を呟く。意味のある事象など、そうそうお目に掛かれるものではない。

 案内された席に着き、葉佩が発する声を聞き流す。気紛れに返される相槌は、葉佩にとって必要不可欠なものではない。

「でもさぁ、俺って《宝探し屋》なんだよね」
「箸を人に向けるな」
「ずっと一緒にとか、やっぱ無理なんだよ」
「箸を振り回すな」
「待ってて、とかさぁ、言えねぇよなー」

幸せそうに苦悩する顔から目を逸らし、ルウとライスを口に運ぶ。いつもより少しだけ塩辛く感じた。葉佩と向かい合っていると、あんなにも魅力的だったスパイスの香りさえ半減する。
 初めて知った喜びに、葉佩は目も当てられないほどはしゃいでいた。それはもう毎日を楽しそうに生きている。八千穂の言動に一喜一憂し、それを皆守に報告した。嬉しかった、悲しかった、そんな事を、飼い主に獲物を見せに来る猫のように誇らしげに。その度に、皆守は壊れてゆく自分を感じた。

「葉佩、怪我は?」
「化膿はしてない」
「そうか」
「薬も飲んだ」
「それ、本当に痛くなくなるのか?」
「うん、麻痺させてるから」
「ふうん」
「受容体をね、こう、強制的に閉じちゃう訳さ」

そう言って、葉佩は箸を握ったままの右手を左手で包んだ。尖った箸先が、皆守の心臓に向いている。
 痛みとは生命の危険信号だ。壊れてしまわぬよう、死んでしまわぬよう、命を守る為にある。体の悲鳴を踏み躙って、彼はどこへ行くつもりなのだろう。絶えず痛みを訴えるこの心臓は、まだ浅ましく生きていたなどと思っているのか。心痛を緩和すると思っていたラベンダーは、今ではもうほとんど意味を成していない。だがこの痛みを取り去る方法を、皆守はもう知っていた。葉佩の目が自分を映して燃え上がればいいのだ。だから皆守は、その時を待っている。

「皆守、今夜も来る?」
「だるい」
「まーそー言うなよ」
「八千穂と二人で潜ればいいだろ」
「そそそそそんな!二人っきりとか!無理!」
「頑張れ」
「やだよー皆守ー来てよー心細いよー」

スプーンを持つ手を取られ、揺さ振られた。そんな些細な接触で、沸き立つ心が鬱陶しい。どうにか無表情を保ってそれを振り払い、目の前のカレーに集中しようと視線を落とす。葉佩の触れた部位が熱い。感触がなかなか消えなくて気が散る。カレーをゆっくり味わう事すら許さないなんて、俺はこんな男をどうして心臓に住まわせているのだろう。違う、許可した憶えもないのに、勝手に占拠しているのだ。俺は迷惑してるのに。
 如何にも不本意といった態度で、皆守は探索の同行を承諾した。「やっぱ皆守は頼りになるな」などと言って、安堵したように葉佩が微笑む。だが、葉佩が本当に欲しているのがあの少女である限り、本質的にそれは無視されているのと同じ事だ。それなのに、まるで必要とされているかのように錯覚して、皆守の心が密やかに愉悦を含んだ。
 油断するとどんな願いでも聞いてしまいそうになる自分が、どうしようもなく憐れだ。