葉佩が低く唸り、皆守の目の前に赤い飛沫が散った。二の腕の内側に突き刺さっている、指のような刃物のようなそれを抜く事はせず、葉佩が今度は叫んだ。獣のようだ、と、つまらない言葉が皆守の脳裡を掠める。人間も、獣だろう。
 飛んできた葉佩の血液が、皆守の制服の肩に付着している。隣で立ち竦む八千穂は、声も上げずに歯を食い縛っていた。その表情を見ていられなくて視線を落とせば、当然ながら自分の靴が見える。その爪先にも、赤い液体が飛んでいた。

 敵影消滅、と、無機質な声が戦闘の終了を告げた。それと同時に、八千穂が弾けるように葉佩に駆け寄る。葉佩の愛称を呼びながら、こんな状況でも笑みを浮かべる薄情者の傷を労わった。「大丈夫だよ」と繰り返す狂人に、涙すら浮かべて感じた恐怖を訴えている。それに困ったように眉を下げている葉佩は、じゃあ付いてくるなよ、なんて絶対に言わないだろうが、きっと腹の中では思っているのだろう。表面には出てこないが、きっとそうに違いない。
 血に濡れた頬で、葉佩は「ありがとう」と言って微笑んだ。八千穂が唇を噛んで黙り込む。冷徹な断絶を滲ませたまま、葉佩はまだ笑っている。どうしてこんなにも明確な拒絶を、彼女は感じずにいられるのだろう。
 そろそろ引き揚げるか、と言って、葉佩がやっと皆守を見た。葉佩の左手は、まだ血を滴らせていた。右手にはまだ銃を持っている。八千穂と皆守を帰したら、今度は一人で潜るつもりだろう。その背中に延髄切りを叩き込みたい衝動と戯れつつ、皆守は歩き出した二人を追った。

 予想どおり、葉佩は「じゃあおやすみ」と言って八千穂を優しく見送った。まるで仕事を終えたような仕草で大きな溜息を吐き、斜め後ろで欠伸を噛み殺していた皆守に向きなおる。気付いていたが視線は合わせずに待っていたら、葉佩が膝を折って地面に手を付いた。

「いってぇ・・・」
「血はもう止まってるだろ」
「動かすと出てくる」
「押さえとけ」

 葉佩が先程から脂汗を滲ませている事に、彼女は本当に気付かなかったのだろうか。奥歯を噛み締めていた事も、呼吸が震えていた事も、きっと彼女は永遠に知る事は無い。そして、葉佩はそれを望んでいる。
 甘い煙と苦い溜息を同時に吐き、皆守は如何にも不本意といった仕草で手の平を差し出した。こんな場所でいつまでもうずくまっていたら、面倒な事になるのは火を見るより明らかだ。自分の鼻先で赤く光る火を見詰めながら、遠慮がちに触れてきた手を強く引く。「もっと優しく」などと悲鳴のように葉佩が言うので、舌打ちしつつも少しだけ力を緩めた。

「あーフラフラするー」
「真っ直ぐ歩け」
「皆守、歩くの早いよ」
「凭れかかるな、重い」

腕に縋り付く体が妙に熱くて、やけに煩い心臓の音に気付かれはしないかと、隣をそっと窺う。顔色が悪い。それ以上の情報は見出せなかった。誰にも目撃されずに葉佩の部屋にまで辿り着き、脱力した体をベッドに投げる。シーツに血が落ちる前に身を起こした葉佩が、包帯やら消毒やらを取り出しながら視線も向けずに言った。

「ありがと皆守、お疲れ」
「おう」
「おやすみ」
「うん」
「・・・なに?」

ドアの前に突っ立ったまま去ろうとしない皆守を、葉佩が怪訝そうに見上げる。なに?じゃねぇだろこの二重人格が。腹の辺りでもやもやと漂う感情を煙に溶かし、慣れた手付きで処置を始めた葉佩を睨む。感情も煙も視線も何一つ意に介した風もなく、葉佩は錠剤を口に放り込んだ。痛みを誤魔化す薬を水で流し込み、まだ立ち去ろうとしない皆守をチラリと窺う。

「どーした?」
「別に」
「俺が心配?」
「・・・別に」
「やっちーには言わないでね」

 八千穂は、本当にこの男が死ぬと思っているのだろうか。死の恐怖に耐えながら、あの場所に立っているのだろうか。それともホラー映画でも観るような気分で、退屈な日常の裂け目を楽しんでいるのだろうか。たぶん後者だろう。何故なら、葉佩はそう見えるように振舞っているから。痛みを恐れず、どんな困難にも立ち向かう無敵の《宝探し屋》。きっと彼女の為なら、葉佩は演じきって見せるのだろう。舞台裏でどんな情けない表情を晒そうと、可愛いあの人の為に命知らずの無法者を装い続ける。

「俺には?」
「分かったよ、ガムやるから」
「いらん」
「チョコの方がいい?」
「お前は根本的に間違ってる」
「しょーがねぇな、カレーか?」
「カレーは貰うが、まだ間違ってる」
「お前もちょっと間違ってるような気がする」
「そうかもな」

 差し出されたカレーライスを受け取りながら、皆守はその手ごと引き寄せて胸に掻き抱き、首を絞めてやろうかと考えた。勿論、実行はしない。そんな度胸があるなら、事態はもっと差し迫っていただろう。或いは、もう決着がついていたかも知れない。人生で初めてのたった一人を見付けてしまった葉佩が、その障害となる男を殺す事で、簡単に終わっていたのではないか。そんな夢想を弄びながら、皆守は辛辣を口に入れて咀嚼した。満たされない想いと共に飲み下し、腹に溜まってゆく熱を自覚する。
 銃弾を補填する葉佩に、答えの分かりきった問いを投げてみた。

「行くのか?」
「行くよ」
「一人で?」
「一緒に行きてぇの?」
「眠い」
「だろーね」

おやすみ、ともう一度言って、葉佩がライフルを担いだ。汚れた服は着替えぬまま、痛みを忘れ、恐怖を忘れ、愛しい女性を胸に浮かべて、永遠の闇に向かう。殺してやりたいと、心から思う。頭蓋を砕き、頚椎をへし折り、肉を引き千切り、臓腑を引きずり出し、その温もりに抱かれたい。狂ってるな、と、自分でも思う。だが、思っているだけなら誰もその狂気に気付かない。おやすみ、と返し、皆守は部屋を出た。
 ドアを閉じて気配を消すと、背後で窓の開く音が聞こえた。踵を返し、ドアを開けて、その背を追って、縋り付いて、行くなと叫んで、それで?隠していた闇を眼前に提示して、お前を殺さなければいけないのだが殺したくなくて苦しんでいると暴露して、誰かを見詰めるお前の目が耐えられないほど切ないのだと訴えて、それで?同情など、あの男はしないだろう。じゃあ今のうちに殺しておこう、とでも言うかも知れない。
 ドアの前で突っ立ったまま、皆守は自分が可哀想になって笑った。
 せめて泣ければ、気を引く事ぐらいは出来ただろうか。