自分で歩き出した葉佩(?)と共に近所のレストランに入り、注文を終えてアロマに火を点けた。対面には、葉佩と同じ顔の男が座っている。時間が戻ったような気持ちになった。何も変わっていない。少しぐらい変わっていて欲しかったと思うのは、贅沢だろうか。思考を、漂う煙に溶かす。一本を吸い終え、皆守が眼光を鋭くして正面の男を見据えた。
「・・・で?」
「味噌汁はアサリが一番だと思う」
「どうでもいい」
「ワカメは嫌い」
「後頭部の寝癖よりどうでもいい」
「寝癖は気にしろよ」
「誰も気が付かないんだからいいだろ」
「それでいいと思うお前がもう駄目だと思う」
言葉が足りなかったのだと、素直に認めた。指先で灰皿を突付きつつ、本題をどうやって切り出そうかと考える。葉佩(?)は何も言わない。皆守の言葉を待っているのか、或いは喋る事が無いだけか。後者の確率が高い。
いつものように思考はまとまらなかったので、単刀直入に言ってみた。
「葉佩じゃないのか?」
「違うよ」
「じゃあ、お前の名前は?」
「無い」
「ナイ?」
「うん。あ、いや、『ナイ』じゃないよ」
「ちゃんと喋れ」
「俺に名前は無いの。葉佩って呼びたかったら葉佩でいいよ」
「じゃあ九ちゃんで」
「それは勘弁しろ」
葉佩(?)が、本当に嫌そうな顔をした。その表情も、目を逸らす為に顔を上向ける仕草も、即座に返る言葉も、葉佩のように思える。
皆守は、何を信じればいいのか分からなくなった。目の前の男の言葉を信じる理由は無い。だが、自分の目を本当に信じていいのだろうか。記憶はもう、気付かぬうちに薄れてしまったのかも知れない。少々の差異など見分けられないほど、あの日々は遠くなってしまったのではないか。
唇を引き結んだ皆守の前に、注文したカレーが運ばれる。葉佩(?)の前には、ハンバーグステーキが置かれた。切り分ける事すらせずに、葉佩(?)がそれにかぶり付く。瞬く間に消えてゆく肉塊をぼんやりと見ながら、皆守は自分の皿に手をつけた。
「皆守はさぁ、葉佩に会ってどうすんの?」
「殴る」
「それから?」
「もう一発、殴る」
「あとは?」
「・・・蹴る」
「ふーん」
葉佩(?)の皿は、いつの間にか空になっていた。暫く皆守がスプーンを口に運ぶのを見ていたが、やがて「じゃあね」と言って立ち上がった。皆守の皿には、まだ三分の一ほど残っている。驚いて顔を上げた皆守を、不思議そうに見下ろした。
「食事中に席を立つな」
「もう終わった」
「俺はまだだ」
「あ、金は払うよ」
「当たり前だ」
食事のマナーなど、この男はきっと知らないのだろう。
やはりそんなマナーなど知らなかったであろう葉佩は、しかしいつも皆守が食べ終わるのを待っていた。食後のコーヒーと一服を終えて、待ちくたびれた葉佩と並んで帰路を踏むのがあの頃の日常だった。いつも、葉佩は待っていてくれた。世間一般の決まり事ではなく、皆守と並んで歩く為に。
そんなつまらない瞬間を、未来の自分が思い出してこんな気持ちになるなどと、想像もしなかった。だって、終わると思っていたから。全ては綺麗に完結するのだと、皆守はずっと信じていた。あの夜までは。
「葉佩は何処だ」
「知らない」
「お前は、本当に葉佩じゃないのか」
「違うよ」
「嘘だ」
「お前が信じようと信じまいと、俺は葉佩じゃない」
穏やかな口調に、口の中が冷たくなった。その瞳に激しい感情が見出せないだけで、酷薄に感じてしまう。きっと、そのとおりなのだろう。葉佩は基本的に酷薄な人間だった。何も残さず、想い続ける事さえ許さなかった。
たった数ヶ月を共に過ごしただけの、通りすがりの旅人。たったそれだけの存在に、何故こんなにも強く心を揺さ振られるのだろう。皆守は彼に会う為だけに、あんなにも愛していた平凡な環境を捨て、なだらかな道を外れた。流れに逆らい、細く頼りない糸を辿り、彼に会うまでは存在すら知らなかった世界に身を投じた。たった一人の薄情な男の為に、なんて遠くまで来てしまったのだろう。
急速に、皆守は冷えた。どうしたって静まる事は無いと思っていた嵐が、穏やかになってゆく。同時に湧き上がったのは、自嘲と後悔。
確証など無く、果かない約束すら無く、あんなにも愛していた平穏を捨ててしまった。早く日本に帰って、ちゃんと大学を卒業して、真っ当な仕事に就こう。そうして、いつか懐かしく思い出すのだ。若さゆえに莫迦をやったのだと、今日の事を笑いながら話すのだろう。時々夢を見るかも知れない。殴っておけば良かったなどと、目覚めて思うのだろうか。
テーブルの脇に立ったまま、葉佩(?)が笑った。
「やっと気が付いた?」
「ああ、目が覚めた」
「おはよう」
葉佩(?)の黒い瞳が、寂しげに揺らめいた。皿に残っていたカレーを、皆守が手早く口に入れる。咀嚼しながら立ち上がり、葉佩(?)の目を見詰めた。同時に、爪先を振り上げる。予想していたのか、葉佩(?)は難なくそれを躱して身を翻した。それを追って、皆守が踏み出す。
平和な食事をただ穏やかに楽しんでいた客達が、何事かと一斉に視線を向ける。驚愕と恐怖に彩られた視線を無視して、皆守は財布を取り出して数枚の紙幣を抜き取った。それを店員に叩き付け、「釣りは要らない」と言い捨てて踵を返す。そのまま振り向かずに、ドアを蹴破って外に転がり出た葉佩(?)を追った。ドアの修理代を含めても、少々多めに渡しておいたのだから問題は無い。こんな場面に慣れてしまっている自分が、少しだけ可笑しかった。
世界は、黄昏を終えていた。あの夜よりも乾いた夜気を吸い込み、皆守にとっての異国の空を見上げる。こんなに遠い場所に来るなんて、あの頃は夢にも思わなかった。
建物の陰に走り込んだ影を、無心に追いかける。障害物の多さに舌を打ちながら、この数年で磨き上げた足を地面に強く打ちつけた。追いかけて、追いついて、横に並んで走り続ける為に、あんなにも厭っていた努力を積み重ねたのだ。
不意に、前方で何かが光った。常人では感知できないほどの少ない光量だったが、皆守の目はそれを捉えた。ほぼ無意識に、皆守が身を低くする。米神を掠ったのは、見憶えのある黒いナイフだった。葉佩が片時も離さずに持ち歩いていた、あのナイフだ。距離を取るために地面を転がり、その勢いで身を起こす。
「さっすが期待の新人」
「どうして逃げるんだ」
「お前が追いかけるから」
そう言って笑った顔は、記憶の中の彼と何一つ変わっていない。悪巧みに成功した時の笑い方だ。
皆守が踵を振り上げる。逃走は断念した葉佩(?)が、緩やかに腰を落とした。逆手に持ったナイフを、誘うように揺らして見せる。その姿が、ナイフの反射光だけを残して消えた。皆守が目を見開いた瞬間に、ナイフが音を立てて地面に落ちる。ほぼ同時に、後頭部に硬い感触が当たった。自分の頭部に銃口が触れているのだと、数秒だけ遅れて認識する。
「目はいいみたいだけど、それだけに頼ってるとこーゆー事になるよ」
鉄の塊でゴツンと小突かれる。衝撃は軽かったが、思った以上に痛かった。
皆守は、本気だった。殺意ではなく、害意ではなく、目の前の男を屈服させるつもりで力を放った。それを、葉佩(?)は軽くいなした。冷静に、確実に、皆守を止めた。
葉佩はいつだって、皆守の攻撃に恐怖した。それがじゃれ合いの延長でも、決意の表明でも、葉佩は最後まで皆守に勝てなかった。最後まで、皆守を傷付ける事が出来なかった。地に伏したまま「くやしい」と呟いた声が、今も心臓を叩いている。
銃口が、さまようように揺れてから離れた。固まっていた体を弛緩させ、皆守が背後に向かってそっと囁く。
「お前は、葉佩じゃないんだな」
「うん」
「でも俺は葉佩って呼ぶからな」
「どうぞ」
「葉佩」
「うん」
「今度は逃がさないからな」
言うと同時に、皆守が拳を握る。葉佩が目を見開いた。
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