その姿を見た時、自分の心臓が物凄い音を立てたのを感じた。壊れるほど想い、それでも届かなかったのは、もう遠い日の事だ。作りたくもない借りを作り、したくもない努力を積み重ね、漸く辿り着いた。欲していた訳じゃない、などという無駄な抵抗はもうやめた。いま胸を満たすのは、紛れもない愛しさと、溢れるほどの喜び。
求め続けたその男の名を呼ぶ。声が震えたのは、もう気にしないでおく。
階段に足を掛けたまま振り向いたその顔に、拳を叩き付けてやろうと、ずっと思っていた。どんな罵声を浴びせてやろうかと、眠れぬ夜にはいつも考えていた。再会を想像しては自己嫌悪に浸った。自分を地の底に叩き込んだ薄情な男に、ここまで執着する自分が滑稽だと思っていた。
まさか名前を呼ぶだけで、こんなにも心が震えるとは思わなかった。その目に見詰められただけで、こんなにも頭が真っ白になるなんて、予想外どころの話ではない。
呼ばれた男が、不思議そうに皆守を見上げた。階下に向けていた足を止め、皆守に向き直る。名前を呼んだっきり黙り込んで突っ立ている皆守を暫し見詰め、やがて得心したように微笑んだ。
「ああ、葉佩の知り合い?」
「・・・あ?」
「俺は葉佩じゃないよ」
「・・・は?」
咄嗟に思い付いた可能性は、量産型人造人間だった。血縁でもなく、よく似た他人でもなく、量産型だった自分の発想が、少しだけ嫌になる。毒されている。何にだ。
もう一度、見上げてくる男の顔を凝視する。葉佩だ、と思う。見慣れた顔よりも、精悍さが増しているような気がしないでもないような、そうでもないような。多分そうでもない。右頬に瘡蓋がある。唇の端が腫れている。鋭い目付きも、短く刈り込んだ髪も、記憶の中の葉佩と同じだった。
「葉佩じゃ、ないのか?」
「違うよ」
「お前、量産型か?」
「人をモビルスーツみたいに言うな」
「何だそれ」
「・・・知らないんならいいよ」
しょんぼりと目を逸らしたその顔も、かつて見た葉佩と同じ表情だ。続く言葉を見出せず唖然としている皆守に、困ったように笑った。その顔も、仕草も、やはり葉佩にしか思えない。皆守を見返した瞳が、僅かに表情を和らげた。
「お前、皆守だろ」
「何で知ってんだ」
「有名だぜ、いろいろ物凄い新入りがいるって」
「・・・そうかよ」
「いろいろ」の詳細を是非とも吐かせたいところだったが、皆守はその衝動を堪えた。自分に関する不本意な噂が広まっている事は、既に知っていた。それが決して大きく間違っていない事が、非常に不本意だ。
あからさまに意気消沈した皆守に、葉佩(?)が笑った。その歪んだ微笑にも見憶えがある。涙腺が緩んだ事を自覚して、皆守が慌ててアロマを銜えなおす。何に対して泣きたくなったのかは、自分でも分からない。言葉を探しあぐねているうちに、葉佩(?)は「じゃあね」と言って踵を返した。呼び止めようとして、彼の名前を知らない事に気付く。問い質す理由も探し出せず、そのまま去って行く背中をぼんやりと見送った。
自分は何がしたかったのか。目を逸らしていた疑問が急速に湧き上がり、本当はもう知っている筈の答えを形而下に示す。
ずっと、殴ってやろうと思っていた。痛みと傷跡だけを残して旅立った薄情な男に、恨み言を浴びせてやろうと。そうでなければ、眠る事さえままならない。一度でもそれが叶えば、きっともうあの頃の夢など見なくなる。それが白々しい欺瞞だと、本当は気付いていた。
後ろ姿を見ただけで、凍り付いた足がその答えだ。震えた喉も、零れる寸前まで溢れた涙も、心を満たした感情も、一つの事実を証明している。
もう一度、葉佩に会いたかった。くだらない喧嘩がしたかった。彼の作ったカレーが食べたかった。日当たりのいい場所で、莫迦な話をして笑い合いたかった。伸ばされた手を、握り返したかった。風に向かう背中を、振り向かせたかった。傷だらけの体を、優しく包んでやりたかった。
掻き乱された感情が溢れる。奥歯でそれを磨り潰しながら、皆守は足早にその場を離れた。
翌日の同じ時間、同じ場所で、皆守はじっと待っていた。意味など自分でも分からない。ただ、皆守は待っていた。
「あれ?また会ったね」
「お、おう」
「もしかして待ってた?」
「待ってない」
瞬時に返った否定に、葉佩(?)はまた笑った。よく似た会話を、遠い昔に交わしたような気がする。気のせいだ。上滑りする脳内突っ込みを無視して、渾身の精神力で無表情を保つ。吐き出される甘い香りに、葉佩(?)が少しだけ顔をしかめた。
「何その葉っぱ」
「気にするな」
「気になるよ」
「じゃあ離れろ」
言ってから後悔した。後悔した事に、また後悔した。離れたくない、などと考える自分が、もうどうしようもなく死んで欲しい。この葉佩のような男は、葉佩ではない。仮に葉佩だったとしても、そんな事を考える自分は許せない。皆守が一人でぐるぐるしているのを知ってか知らずか(知られたら死ぬ)、葉佩(?)は軽く肩を竦めて言った。
「そんな大声で喋るのやだよ」
投げられた言葉の意味を理解できずに、暫し葉佩(?)の顔を見詰める。突然の無遠慮な視線を、葉佩(?)が訝しげに見返す。つまり、離れても会話は続ける、という意味だ。導き出された解答に、皆守が今度は目を伏せた。忙しなく上下する視線に、葉佩(?)は戸惑っている。
「どーした?」
「いや、別に」
「変な奴だなぁ」
「お前にだけは言われたくない」
「俺は普通だよー」
「普通の人間はポケットに生肉なんか入れない」
「変な上に細かいこと気にする奴だな」
「普通の人間はカレーにあんな物は入れない」
「いい出汁でるかもって思ったんだよ」
あまりの違和感の無さに、皆守は思わず口を閉じた。皆守の視線に気付き、葉佩(?)が目を逸らす。
「・・・おい」
「なに?」
「葉佩だろ?」
「違うってば」
「今ならまだ冗談で済むぞ」
臨戦態勢に入った皆守を見て、葉佩(?)がポケットに右手を入れる。通りすがりの研究員がビクリと足を止め、次いで逃げるように走り去った。その足音が聞こえなくなるまで睨み合い、皆守が先に視線を逸らした。それを確かめ、葉佩(?)もポケットから何も持たずに手を出す。その瞬間、皆守が踵を振り上げた。不意を突かれた葉佩(?)が、それを右肩で受ける。威力を逃がす為に腰を落としたが、その程度の動作で防げるような蹴りなら皆守も誇らない。打たれた肩を押さえて、葉佩(?)がその場でうずくまる。それを見下ろし、皆守が満足気に煙を吐き出した。
「・・・ひどくね?」
「酷くない」
「いやひどいよ」
「お前の方が酷い」
「だからぁ!ほんとに違うんだってば!」
「まだ言うか」
「お前が葉佩のこと好きなのは分かったから!ちょっとは聞けよ!」
「その前提がまず間違ってる」
「え、違うの?」
葉佩(?)が、うずくまったまま驚いて顔を上げた。その顔に靴底を近付ける。攻撃ではなく威嚇の行動だ。手の平で迫る靴底を押し返しながら、葉佩(?)が「待て」と早口で7回ほど繰り返した。いかにも不本意な仕草で、皆守が足を下ろす。
「足癖わりぃな」
「育ちが悪いもんで」
「育ちの悪さで俺に勝てると思ってんのか」
「お前は育ちが悪いんじゃなくって性格が歪んでるんだ」
「環境は人格に影響を与えるもんだよ」
「どんな環境でもお前は真っ直ぐには育たない」
「言い切ったよこの人!」
座り込んだまま葉佩(?)が人差し指を突き付けたので、皆守もおなじようにしゃがみ込んでその指を掴んだ。一瞬で事態を把握した葉佩(?)が自分の失策を悟ると同時に、掴んだ指を捻り上げる。葉佩(?)が叫んだ。先程から二人を避けて通っている協会の事務員達が、何事かと視線を集める。
「場所を変えるか」
「え、これまだ続くの?」
返答の代わりに葉佩(?)の襟を掴み、立ち上がる事を拒んだ体を引き摺って歩き出した。大人しく引き摺られている葉佩(?)の体重が、皆守の腕に負荷をかける。その重さが、どうしようもなく心臓を締め付けた。その重さは、戦う為に存在している。一人で生きる為に、この体は存在している。
|