いつの間にか《學園》から消えていた喪部を、緋勇は特に気に留めなかった。生徒達も、《転校生》が消える事に大きな疑問は抱いていないらしい。状況を又聞きしていた夷澤は、平和な事だな、と胸中で吐き捨てた。変革に憧れながらも、結局は不変の安定を望んでいるのだろう。そんなものは有り得ない。囁くように密やかに、しかしはっきりと花の香りが揺らされているのを、夷澤は未だ知らない。
 抹殺された《転校生》も、人知れず去って行った侵入者も、根本的にこの《學園》を変質させるには至らなかった。世界とは永遠に有り続けるものなのだと、諦めにも似た気持ちで信じていた。夷澤は、未だ信じるべき自分だけの光を取り戻してはいない。

「俺と同じクラスに響ってやつがいるんすけどね」
「響か。憶えにくい名前だな」
「あんたが一発で憶えられる名前なんてあるんすか?とにかくそいつが、最近なんか変なんすよ」
「カレーしか食べないのか?」
「違います。ファントムとか言い出したんすよ」
「・・・まだ生きてたのか」
「や、多分あれ、最初っから死んでます」

 千貫は、夷澤のグラスに牛乳を注ぎ足した。「どーも」と言って僅かに視線を上げた夷澤に無言で微笑み返し、今は校内の修繕に頭を悩ませているであろう主に思いを馳せた。
 阿門を悩ませている諸悪の根源が、千貫の目の前で青汁のレモンジュース割りを傾けている。彼は一口飲んで眉をしかめ、数秒の間を置いてまた口に運ぶ、という動作を繰り返していた。不味いなら飲まなきゃ良いのに、と隣の少年が笑う。それに「不味くはない」とだけ返し、緋勇は律儀にグラスを空けた。
 その奇妙な《転校生》を、千貫は決して憎んではいなかった。阿門が管理する《學園》を蹂躙し、その存在意義までも奪わんとするこの男に、憎むべき卑陋は見出せない。敗北の予感すら、どこか心地好く感じられた。だが、それを認める訳にはいかない。それを認めるのは、主人の心を裏切る事だ。苦悩を背負い、悲哀を携え、優しさを懐にそっと忍ばせているあの人を、どうして否定など出来よう。

「お前は《生徒会》だったな」
「そうっすよ。副会長補佐っす」
「・・・副会長は、誰なんだ?」
「え?・・・さあ」
「知らないのか?」
「そーいや、知りませんね」

 戯れに、千貫は彼のグラスに毒でも盛ってやろうかと考えていた。実行するつもりはない。ただの思考の上での遊戯だ。それでも、気付くと緋勇にも有効な毒素を真顔で吟味している自分に気付く。戯れだ。環境の激しさに反して不思議なほど凪いでいる心を、ほんの僅かに慰めるだけのものだ。
 カウンターの奥で、千貫がひっそりと口角を上げたのを知る者は居ない。












 皆守に与えた能力は、阿門の予想をはるかに超えている。その事実に、阿門は危機感を抱いていた。心の弱さに反比例して、その隙間を埋めるかの如く、呪われた《力》は大きくなる。つまり現在の皆守は、かつてないほど脆いという事だ。
 皆守が差し出したものを、阿門は具体的には知らない。ただ、それが存在し続ければ皆守は壊れただろう。それを取り除く事が、あの時は必要だと思った。その選択に、阿門は疑念を感じ始めている。本当に、そうだったのだろうか。それほどまでに皆守は脆弱だったのか。もしかしたら、大きな過ちを犯してしまったのではないか。
 校舎を修繕する費用よりも大きく、その疑念は心を疲弊させた。

 定期的に行われている作業を終え、双樹が報告の為に部屋のドアを叩いた。その音に、阿門が思考を遮断する。その行為の意味を双樹は知らない。疑問を口にする事もない。与えられるものが例え誤った命令であっても、彼女はそれを遂行して見せる。誇らしげに、嬉しそうに受諾して見せる。今までは、そうだった。

「あの、阿門様」
「・・・《転校生》に加担しても、俺は構わん」
「しません。あたしは、貴方のものですから」

澄んだ瞳で、柔らかい声音で、双樹は阿門に全てを差し出す。それが彼の重荷になるなどと、想像すらしていないのだろう。阿門がそれほどに疲弊している事を、彼女はまだ知らない。

「あたしが訊きたいのは」
「・・・」
「この香を焚くのは、何のためなんですか?」

 ああ、ついにこの時が来た。阿門が心の底で天を仰いだ。遥かな空を見上げ、知っていた筈のその遠さに何度目かの絶望を噛み締めた。世界の構造に疑念が生じた。真実を知りたいという欲望が生じた。
 既に遠い記憶になってしまった、一人の男を思い出す。
 もう遅い。全ては過ぎ去ってしまった。《魂》は捧げられてしまった。彼は行ってしまった。彼女は疑問を発してしまった。炎の魔神は飲み込んでしまった。芳香は揺らされてしまった。そして、阿門は後悔してしまった。
 差し出された信頼を、裏切ってしまった。












 双樹に続き、神鳳が敗れた。その情報を知った時、皆守は疾うに終えた筈の覚悟が揺らぐのを感じた。夷澤が《生徒会》の職務を全うする事はないだろう。彼が望むのは、戦いではなく闘いだ。拳をぶつけ合い、技と心を競う行為を望んでいる。そもそも、夷澤が緋勇に勝てるとも思えない。
 冷たい風とよぎった予感に身を震わせ、皆守は空を見上げた。感嘆すべき早さで教室はかつての姿を取り戻した。阿門が頑張ったのだろう。空虚な労いを煙に溶かし、伝わる事のない言葉を吐き続ける。太陽が移動した為に位置を変えた日向を追って、皆守は寝返りを打った。
 望まずとも覗き込んで来る緋勇が、今日は来ない。やっと諦めたのか。浮かべた言葉が、信じられないほどの痛みをもたらした。見捨てられたのか。浮かんだ言葉が、恐ろしいほどの悲しみをもたらした。

 遺跡内で破壊の限りを尽くす緋勇は、それでも定められた道順を守る。壁を破壊して奥に進む事はない。方向を見失う事はあっても、決して開く(壊す)扉を誤りはしない。それは、正確に封印を解く行為だ。捧げられた供物を取り戻し、永い眠りを覚ます行為だ。知識も、その意識すらなく、緋勇は《墓》を暴いていた。同時に、皆守の精神をも暴いていた。
 取り戻した記憶に、神鳳は「あったんですね、僕にも」と言って何故か苦笑を漏らしたらしい。そして、その《秘宝》を握り締めて緋勇に謝意を表した。全ては聞いた話だ。赤毛の剣士が、聞きもしないのに話してくれやがった。
 あの男の正体も謎のままだ。ただ緋勇に寄り添うように、それが自分の使命であるかのように、そこに居る。緋勇も何も言わない。皆守も何も訊かない。八千穂は例の如く質問責めにしていたが、答えは得られなかったらしい。
 二人の姿に、皆守は苛立ちを募らせていた。肩を並べ、背を預け、笑い合って(時に殴り合って)共に道を行く。皆守には、まるでそれが自分から失われたもののように思えていた。叩き潰したくなる。そんなもの見たくない。二度と戻らないなら、後悔すら無意味なら、この幻の慟哭はただの悼みなのか。狂おしいまでの絶望を、二人の男は突き付ける。
 得られないものへの憧憬(要するに嫉妬)だと認めるのは、惨め過ぎる。

 急に陽射しが鬱陶しくなり、皆守は寝床を後にした。寒風もその一因ではあったが、それよりも空の眩しさが癪に障った。無遠慮な光は闇の存在を否定する。小さな灯火を掻き消し、優しい黄昏を塗り潰す。皆守が縋り付く安らぎの正体を、余すところなく暴き出す。
 自ら発した紫煙を掻き分け、皆守は階段を下りた。その視界に現れた人影に、喜びと怒りが同時に湧き上がる。緋勇が自分を気に掛けている事に、滑稽なほど安堵する。そして、その感情が行き着く先を意識する。
 助けてくれ。芳香では、もう覆い隠せない。《魂》を取り戻した者達は、例外なく緋勇を慕っている。忘れていたのは掛け替えのないものだったのだと、大切な記憶だったのだと、口をそろえて言う。取り戻して得られたのは、安らぎではなかった者もいた。それなのに、彼等はまるで満たされたかのように笑う。
 そんな筈はない。確信すら含めて皆守は思う。取り戻してはいけない。それは皆守を壊す。

「荒れてるな」
「・・・お前の所為だ」
「やはりそうか」

皆守の唸り声をさらりと受け流し、緋勇が続けた。皆守にとっての死刑宣告を放つ。

「夷澤が負けたぞ」
「お前が負かしたんだろ」
「そうとも言う」
「あんまりいじめるなよ」
「売られたら買う。決まってるだろう」

緋勇が当然の事のように言った。普段は隠そうとしているらしいが(隠せてないが)、緋勇は好戦的な男だ。自分の力を受け止めてくれる相手を、常に欲している。力の矛先を誤る事はないが、隙あらば力を解放しようとする。もしかしたら、あの剣士はその力を受け止める為に居るのだろうか。
 不意に、皆守が思い付いた疑問を口にした。

「あいつは、何を捧げたんだ?」

その言葉に、緋勇が笑った。目の奥で嬉しそうに、愛しそうに笑って見せた。

「向上心、とでもいおうか」
「ん?あいつ、向上心ありすぎなほどあっただろ」
「そうだな」

不可解な緋勇の返事に、皆守は煙を疑問符の形にして吐き出した(つもりだったが、やはりそんな芸当は不可能だった)。察した緋勇が、今度こそ口の端を上げて笑った(皆守の無駄な努力に、ではない)。

「阿門に勝ちたかったらしい」
「ああ、それは取り戻さない方がよかったかもな」
「そう言ってやるな。俺はあいつが嫌いじゃないんだ」
「まあ、いいけどな」

なんとなく、「そんなものでも良いのか」というような気持ちになった。












 完全な敗北の後も、夷澤は緋勇に対する態度を変えなかった。彼らにとって、殴り合いは友情の確認作業なのだろう。理解するのは難しいが、理解する必要もないだろう。重要なのは、夷澤に宿った《神》が服されたという事実だ。
 神鳳は、目を落としていただけで読んではいなかった本を閉じた。稚拙とも思える継ぎ接ぎだらけのその本は、それでも優れた能力を有する者達の手で作られたといわれている。ならば、誰が見ても明らかな矛盾の数々は、何らかの意図を伝える暗号なのだろうか。或いは単純に、多数の人間が関わった結果の手落ちなのだろうか。前者であれば良いと、神鳳は思っていた。未だ解明されない謎が存在している方が、楽しいではないか。
 ふと、何かが引っ掛かった。似たような事を言っていた者がいたような気がしたのだが、誰だったか。走った一閃を追おうとするが、その尾はするりと手を擦り抜けた。為す術もなく、それが深層に潜って行くのを見詰める。捧げた《魂》を、そうとは知らずに追っていた感触と良く似ていた。
 皆守が捧げたのは黒板消しではないと、阿門は言った。何故に黒板消しなる単語があそこで出て来たのかは分からない。輪ゴムや消しゴムに、あの無精者がどんな感情を抱いていたのかなど、知る由もない。
 そういえば以前、教室中の黒板消しが行方不明になった。あの事件(?)と関係があるのだろうか。確か犯人は割れた筈、と考え、神鳳は思考を止めた。否、強制的に遮断された。

「負けちゃったんですって?」
「・・・これはこれは、珍しい」

双樹が、三回のノックとほぼ同時に神鳳の部屋のドアを開けた。相手が阿門であったなら頑ななまでに返事を待ち続ける彼女も、神鳳にはほとんど気を遣わない。それを、神鳳は気を許しているのだと、そう思っている。深く追求するとややこしい事になりそうな気もしていた。

「なんか、お線香の香りがするわね」
「そうですか?」
「緋勇って強いのね」
「そうですね」

目まぐるしく変わる話題も、彼女の特徴の一つだ。女性の特徴である、とも聞いた事がある。もしかしたら、意図的に演じているのかも知れない。芳しい香りを纏い、性的な魅力を強調し、彼女はあどけない自分を隠そうとしているのかも知れない。彼女の声は、時々驚くほど幼く聞こえる。口にしようとは思わないが、神鳳は時折現れるその顔の方が好ましいと感じていた。

「ねえ、あいつは何を捧げたんだと思う?」
「誰の話ですか?」
「あいつよ、皆守」
「ああ、黒板消し」
「黒板消し?」
「ではない、と聞きました」
「誰からよ」
「勿論、阿門様から」

はぐらかされたと感じたのだろう。双樹が苛立たしげに髪を掻き上げた。芳香の粒子が神鳳の鼻を刺激する。双樹は、阿門の名が自分以外の口から出る事を嫌っている。

「あいつ、前はあんなじゃなかったわよね」
「どうでしょう」
「どうなのよ」
「・・・」

神鳳は、素直に質問の答えを探してみた。眠たげな双眸も、何故かゆらゆらと揺れる立ち姿も、皮肉な物言いも、辿った記憶では違和感なく存在している。忘れた頃に思い出したように現れる激情も、内に溜め込む性質なのだと考えれば理解に苦しむ事もない。ただ、一つだけ。

「躁鬱の気が、強くなったように思えますね」
「たしかに、最近特に上下動激しいわね」
「不安定になっているんでしょう」
「何で?」
「そんな事、僕は知りませんよ」

知りはしない。だが、想像は出来る。緋勇に敗北するのが怖いのだろう。無敗を誇るという事は、打たれた経験がないという事だ。誰が見ても明らかに、皆守は緋勇に惹かれている。同時に、恐れている。緋勇が照らし出す闇に、何が存在しているのかを知るのが怖いのだろう。考えるまでもなく、そこまでは簡単に導き出せる。しかし、どうしても感情が納得しない。

「取り戻したいと、心の底では思ってました」
「《魂》を?」
「そう、魂を。なので、負けると分かっても」
「それ以上は、言っちゃダメよ」

双樹の言葉が間に合ったのは、神鳳が躊躇ったからだ。
 負けると分かっても、心のどこかでは安堵していた。失った自分の欠片を取り戻せる。狂おしい空洞を、やっと埋められる。
 それは誓いを破る事だ。捧げたものを欲するのは、契約に背く事だ。それでも、人間である事をやめる訳にはいかない。削ぎ落とされた魂を、諦めるなど出来ない。

 闇の中だけで生きて行ける人間など、存在しない。それなのに、皆守は光を厭う。闇だけを強く欲する。
 幻の黄昏の中で、永遠を夢見ている。