緋勇が再び決戦に臨むと聞き、かつて彼と共に戦った魔人達は昂揚した。緋勇と共に駆け抜けた季節を、彼等は忘れていなかった。全てが終った後も、思い出しては泣き、笑い、吠えた。新たなる戦いに身を投じた者もいる。新たなる商いに手を出した者もいた。辛く険しく、熱く激しかった道の先で、彼等が緋勇を想わない日はなかった。
その緋勇が、一つの伝令を回して来た。無理難題ともいえるその言葉に、魔人達は挙って力を貸した。彼に貸しを作るのは、何を置いても優先されるべき事項だった。緋勇は王ではなかったが、類稀な人望を得ていた。数人は、未だに付き従うように、或いは気紛れのように緋勇の傍らに在る。勿論、彼を助ける為に。だが、緋勇は彼等の手を拒んだ。決して手を出すな。硬い表情でそう言い、緋勇は天香學園の地下に消えた。それは命令ではなかったが、命令よりも遥かに強く魔人達の心を掌握した。
実のところ、緋勇はその夜が決戦となるとは思っていなかった。彼はただいつものように扉を開き、その場所を満たす嘆きを打ち砕く為に進んだ。その部屋の嘆きの源が彼であると知った瞬間も、緋勇はいつも通りに拳を構えた。
「お前の事は忘れない。・・・永遠にな」
その言葉の意味を、本当には理解していなかった。
緋勇は、いつものように振舞った。闘志を隠しもせずに、迷いなく拳を放つ。瞳に宿った黄金を見て、皆守は心の隅にまた絶望を見付けた。彼の中にあるのは美しいものなのだと、羨望すら抱いてそれを認めた。俺とは違うんだ。涙が溢れそうになり、慌てて奥歯を噛み締める。
あの場所に行きたい。暖かい陽だまりで、あいつと笑い合った事を思い出した。あいつは優しくはなかったが、それでも俺を想ってくれた。真実と同等か、或いはそれ以上に熱心に俺を見詰めた。今はもう幻でしかない、あの声を聞きたい。それは逃避だ。でも、ここから逃げたいと思うのは果たして罪なのだろうか。俺が安らぎを求めるのは、罪なのだろうか。きっと、そうなんだな。
期待などしていなかった。俺が居る場所は牢獄で、俺は囚人なのだと思っていた。過ぎゆく時を見詰めても、何も感じなかった。何もかも、早く通り過ぎて行けば良いと思っていた。
嫌悪すら感じていた変化という現象を、浅ましいほどに欲するようになったのはいつからだったのか。
生意気な後輩が膝を付いた。次にあの銃撃を受け、その足元に臥すのは俺だ。
夜毎、幻を見た。あの男を砕く幻。頭蓋を砕き、頚椎を砕き、その心を砕く。俺はそれを冷めた目で見下ろす。死ぬんじゃない、眠るんだ。心地好い微睡の中、無限に広がる柔らかな夢を見続けるんだ。(なんて羨ましい!)
そして浮かぶのは、いつだってその後の自分。スパイスだけが唯一の刺激。花の香は病んだ精神に仮初の安らぎをくれる。終る事のない灰色の日常。きっと、気が狂う。
気が狂う?
あの男が居ないだけで気が狂うなら、とっくに狂っているはずだ。
ああ、そうか。
狂っているのか、俺は。
皆守が崩れ落ちた。引き攣れたように、その喉が無様な嗚咽を吐き出す。片手で顔を覆い、片手で床を掴み、嘔吐するかのように涙を流した。溢れる慟哭を必死で押さえ込もうと、自分の指に歯を立てる。震える背中を見詰めながら、緋勇は目を伏せた。無様な姿を見せるのは不本意だろう。しゃくり上げる声から遠ざかろうと、そのまま背を向けて歩き出した。
赤い床を踏み締めながら、緋勇は胸に落ちた疑問をじっと見下ろす。《墓守》達は、例外なく《魂》の依代とでもいうべき物を捧げていた。巨大な異形を破り、緋勇はそれ等を取り戻して来た。しかし、あの火神は何も落とさなかった。黒い砂に返る時も、ただ皆守が本当の絶望を思い出しただけだ。それらしい物は見付からなかった。追求するのは酷な事だと感じたが、足を止める。扉の前で、彼が泣きやむのを待つ。皆守は必ず立ち上がり、戻って来る。無心に、ただ信じた。
扉を出た所で立ち止まった緋勇に、黒衣の男が闇から声を掛けた。
「彼は、何を捧げたんだろうね」
「知らん」
「何も出て来なかったように見えたけど」
「・・・見てたのか」
「見てたよ」
悪びれもしない青年に、緋勇が鋭い眼差しを向ける。死闘ともいえる戦闘の直後だ。昂ぶった氣が、刃のように肌を切り裂く。その場から立ち去れと命じる本能を無視して、青年はその場所に留まった。緋勇が視線を落とす。
「救えると、思ったんだ」
「うん」
「《魂》を取り戻せば、あいつは大切なものを取り戻すと、思ったんだ」
「違ったのかい?」
「・・・俺は、間違ってたのかも知れん」
小さな声で、緋勇が言葉を落とす。それを丁寧に拾い上げ、黒衣の男は次の言葉を待つ。後悔も弱音も、或いは嘆きすら、緋勇の輝きを曇らせる事は無い。それ故の黄金だ。
涙と共に全ての気力を流し尽くした皆守が、突っ伏したまま目を開いた。意識が落ちていたらしい。かつて無敗を誇った左足は、奇妙に捻れて激痛を発している。一生治らないかも知れない、と思い、薄く笑った。
予感は正しかった。確認したその事実に、自分でも不思議なほど愉快な気分になる。失ったものは、取り戻してはいけないものだった。自身の闇が真の常闇であった事を認識する。ほら見ろ、だから言ったんだ。涙と同時に含み笑いを零す。分かっていたんだ。逃げなかったのは、ただ面倒臭かっただけだ。緋勇は光だ。光から逃げるなんて無理だ。
捧げられる物など、彼は何も残してはいなかった。癒えない傷と圧倒的な喪失感だけを残し、薄情な《宝探し屋》は旅立った。想う事すら許さなかった。
皆守が捧げたのは、ただその痛みと傷だった。物質ではない供物を糧に、火神は比類無き力を有した。
取り戻した虚無を抱えて、皆守は声を殺して泣いた。早く燃やし尽くしてくれ。塵に返った火神に懇願する。
彼の神は母を焼いて産まれ落ちた。そしてその直後に、父に斬り殺されたらしい。その血飛沫すら多くの神を産み、父の涙がまた神を産んだ。それを教えてくれた男は、もう居ない。相変わらず病んだ心を胡散臭い仮面で隠し、どこかで生きているのだろうか。或いは、もうどこにも居ないのだろうか。どちらでも良い。皆守にそれを確かめる術はない。永久に断絶されたのならば、悲しみも怒りも、渇望も慟哭も無意味だ。
全て無だ。
「・・・遅いな」
「様子を見てこようか?」
「・・・いや、待とう」
信じている。時としてその心が裏切られる事を、緋勇は知っていた。祈りを聞く者など、奇跡など、どこにも存在しない。喪失の痛みならば、嫌になるほど知っていた。人は脆い。だが同時に、驚くほど強い。そうだろう?皆守。心で繰り返す。信じている。どうか、信じさせてくれ。
唇を引き締めたまま黙りこくる緋勇の耳に、足音が届いた。弾かれたように顔を上げる。だが、足音の主は緋勇が待ち望んでいた人物のものではなかった。扉とは反対側から、《墓守》を統べる男が姿を現す。その陰に隠れるように、白岐が音もなく佇んでいる。目を伏せ、憂いを帯びた表情をしていた。彼女は知っていたのだろうか。
「迦具土をも破ったか」
「・・・阿門」
「お前の愚行を責める気はない」
緋勇の握り締めた拳が、ギリ、と音を立てた。
「皆守は、何も捧げてなどいない」
「・・・なんだと?」
「ただ、差し出しただけだ」
《神》を宿すのに物質など不要だ。それはただ忠誠の証として、管理者に渡されるに過ぎない。《神》を受け入れるには、ただ差し出せば良い。その思いが強ければ、その分だけ高い能力を得られる。淡々と語られる言葉に、緋勇の目が見開かれた。
「奪ったのか。記憶を、あいつから!」
「皆守自身が望んだことだ」
「・・・違う!」
「お前が何を信じようと、お前の自由だ」
手に嵌めていた黄龍甲を、緋勇は地面に叩き付けた。その勢いのまま扉の奥に走り去る。その背中を見詰めていた白岐が、突然胸を押さえてうずくまった。
「目覚めてしまう・・・」
その言葉に、阿門が決意した。緋勇を追って扉を開く。
永い眠りを守る。阿門の命は、その為にあった。冷然と響く靴音に、白岐が唇を噛み締めた。彼の瞳が哀切を湛えている事を、白岐はもうずっと前から知っている。
白岐はずっと願っていた。仮初の微睡ではなく、永遠の安らぎを。彼は戦った。傷付いて、裏切られて、それでも立ち上がって進もうとした。嘆きも悼みも、彼を挫く事はなかった。彼を壊したのは絶望ではない。亡霊達が言っていた言葉を思い出す。
『まるで、在りし日のあの方のよう』
永遠のような時間を越えて、彼の強さと優しさが白岐の心臓を締め付ける。しかしそれが幻である事を、白岐はもう知っている。遠い過去に、戦い敗れた悲しい《王》が居た。その汚された死を嘆いた女が居た。それだけだ。今この時この場所で、戦っている人がいる。幻などではなく、優しい少女は笑ってくれた。もう忘れてしまったが、思い出の中の旅人も、きっと肯定してくれた。
《王》の嘆きが《墓》に響いた。白岐は立ち上がる。
緋勇が投げ捨てた手甲は、彼の大切な物だったに違いない。龍を模したその牙が、少し欠けているのを知っていた。髭の部分も、片方だけが不恰好に短い。硬そうな鱗には大小様々な形の傷があった。白岐が隠し持っていた剣は、その代わりになど決してならないだろう。
地面に転がった手甲を拾い上げ、白岐は走った。
濡れた頬を無防備に晒し、皆守は仰向けに寝転がっていた。走り込んだ勢いで壁を削った緋勇に気付いても、億劫そうに瞳を僅かに動かしただけだった。赤かった部屋は既にその炎を燃やし尽くし、灰色に変わっている。掛ける言葉を見付けられずに、緋勇が素手の拳を握り締めた。こんなつもりではなかった。浮かんだ言葉の浅ましさに立ち竦む。その背後から、ゆっくりと阿門の足音が近付いた。
姿を現した阿門に、皆守が力なく笑った。
「悪い、守れなかった」
消耗しきった皆守の髪に、阿門はそっと、繊細な氷の彫刻に触れるように触れた。安易な慰め以外に、彼に触れられる理由を思い付けなかった。その光景を、緋勇が呆然と見詰めている。
地下深くで、目覚めた《王》が振動した。その気配に、緋勇と阿門が同時に顔を上げる。虚空を満たす怨嗟の声が、かつては赤かった部屋に響いた。
「これが、お前達の罪か」
「そうだ。全ての人間の罪だ」
熱を失い黒く変色し始めた床が轟音を立てる。天空に向けて太古の《王》が吠える。皆守が気を失った事に気付いた阿門が、彼の体を抱え上げた。それとほぼ同時に、白岐が走り込んで来る。その胸に抱かれた黄龍甲を見て、緋勇が目を見開く。
緋勇は思い出した。自分が何者であったかを。
緋勇が弾かれたように阿門を振り向き、その名を呼ぶ。
呼ばれた《墓守》は答えない。だが、気にも留めず緋勇が続ける。ただ、目の前に愛しい者が居る。出会ってしまったのだ。理由など、それで充分だ。愚かしく浅ましい心を、それでも緋勇は掲げて立つ。誇りすら抱いて、愚かしい人間と、その人間が存在する汚れきった世界を愛する。
「阿門、力を貸せ」
見開かれた瞳に黄金色の光が灯る。彼の行動には、初めから意図など含まれていなかった。ただ、目の前に悲しい瞳が在った。闇を見詰める人が居た。理由などない。存在したとしても、恐らくは無意味だ。炎の中で必死で叫ぶ人を、救いたいと緋勇は願った。漸くその事実に気付き、阿門は自分の願望を意識した。与えられた命の意味を否定する、心の叫びに耳を傾けた。
腕の中で眠る皆守を白岐に預ける。黄龍甲は既に緋勇の手にあった。空いた腕で、白岐は皆守の体を支えようと力を込める。しかし、痩せているとはいえ成人男性の体重を支えられるほどの力は、白岐にはなかった。せめて、痛みを与えないように慎重に床に伏せる。可能な限り優しくしたつもりだったが、皆守が呻いて目を開いた。
「じっとしてて」
「・・・白岐?」
有り得ない方向に捻れた足に、そっと手を当てる。魂が震えている。目を閉じて、心で呟く。傷付き、疲れ果てた皆守の魂を強く思う。同時に自分の中で震える魂を深く思う。ただの想像でしかないのかも知れない。現実に起こっている現象ではないのかも知れない。それでも、白岐にとってのその真実を、そっと声に乗せる。
「魂は、震えてるものなの」
「・・・あ?」
「その振動を私の魂と共鳴させて、私の力を分け与える」
「・・・はあ」
「だから、傷が治る」
いつだったか、皆守が投じた疑問だった。その事すら忘れかけていたのだが、白岐は答えを提示した。疑問には必ず解答が存在する。例え得られなくとも、それは見出されるのを待っている。真実は確かに有るのだと、白岐は皆守に伝えたかった。問う事は、決して無意味ではない。手にする事が不可能でも、求める事は間違いではない。空に向かって手を伸ばした、今は遠い人を思う。
皆守が、納得できない事で叱られた子供のように顔を背けた。叫びたいのに、その行為が無意味だと思い込んでいる。誰にも届く事などないのだと、ずっと信じていた。
「・・・まだ痛む?」
「・・・」
薄情なあの男はもういない。意識して、胸の中でその事実を言葉にする。激痛が襲う。目頭が熱くなる。視界が赤く染まる。それでも、取り戻してしまった闇をじっと見詰める。心臓が冷える。静脈に冬が流れる。それを暖めてくれた炎は、もう打ち砕かれてしまった。凍えた魂が震えている。構わず、じっと見詰める。その闇にかつて閃いた銃火を探し出そうと、必死で目を凝らす。
腫れた頬に、折れた肩に、焼けた胸に、白岐は淡々と手を当てた。皆守の傷が癒えるにつれて、白岐の顔色が青ざめる。それに気付いた皆守が、柔らかくその手を止めた。
「もういい」
「・・・無理は、しないで」
「約束はできないな」
皆守がポケットに手を入れ、見るも無残にひしゃげたパイプを取り出した。今更ながら、緋勇が持つ破壊力に恐怖が湧き上がる。幻の安らぎを生み出すそれを投げ捨て、皆守は顔を上げた。
凄まじい怨嗟と、恐ろしいほどの氣を感じる。黄金の氣に寄り添っているのが馴染んだ気配である事を確かめ、皆守が床の大穴に飛び込んだ。白岐がその背中に何事か声を発する。だがその声に振り向く事なく、皆守は戦場を踏み締めた。
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