世界が深夜から明け方へと移行するその瞬間、八千穂は眠りながら自分の頬が濡れている事に気付いた。暖かいその感触に、自分が失っていたものを思い出す。深い瞳の人が、彼女の強さと優しさの源だった。二度と手放すまいと、夢の中で誓いを立てる。
 夕闇のような色の瞳が、夢の中で優しく笑ってくれた。

 双樹もまた、その瞬間に失ったものを取り戻していた。
 緋勇が手を差し伸べる。硬く傷だらけのその手は、座り込んだ双樹を力強く引き上げた。立ち上がった双樹に、切り捨てた弱さの象徴をそっと手渡す。可愛らしい縫いぐるみは、無骨な緋勇の手には似合わない。だが、それが双樹にとって《魂に等しいもの》である限り、その光景はどこまでも優しく暖かかった。

「分かってると思うけど、あたしは阿門様を裏切らないわよ」
「分かってる。それでいい」

妖艶に微笑んで見せた双樹に、緋勇も微笑んだ。心を見透かされたような気持ちになったが、双樹はそれを不快には感じなかった。例えどんなに脆弱な心でも、愚かしい望みでも、彼は決して嘲笑ったりしない。その後ろで双樹の胸を真顔で凝視する謎の赤毛男の事は、敢えて無視した。












 完全装備で《墓》に下りた喪部とその部下達は、その破壊の爪跡に愕然とした。くっきりと拳の跡が付いた壁。鈍器で砕かれた床。砂礫と化した扉。よく見ると落書まであった。天井を支えているであろう太い柱にすら、大きな亀裂が走っている。部下からの報告を聞きながら、喪部は純粋な怒りが湧き上がるのを感じた。
 永遠にも等しい距離を隔てた場所から、人の思いを伝える為にこの遺跡は存在していた筈だ。それは喪部にとって、自分がどこから来てどこへ行くのかを知る手掛かりだった。来し方すら詳らかでない異形である事を、喪部は誇り、また厭ってもいた。それが人であったとしても、実に有り触れた感情である事を、喪部はまだ知らない。
 秘匿された真実に導く糸を絶たれた。怒りを部下にぶつけてみても、砕けた言葉は戻らない。苛立たしげに舌を打った喪部の耳に、軽やかな足音が聞こえた。ほぼ同時に、眠たげな声が嘲笑う。

「悪いが、やんちゃな《転校生》は一人だけで手一杯なんだ」
「・・・キミは、《墓守》か」
「答える義務はない」
「ふん、かまわないよ。どうせキミもここで死ぬんだ」

紫煙と微睡みを従えて、皆守が侵入者を見据える。その瞳が喪部の神経を逆撫でた。それは全てを諦めた目だ。死だけが救いだと信じる、脆弱で愚かしい人間の目だ。そんな人間を、喪部は嫌悪している。《魂》すら捧げて、一体何を守ろうというのか。自分のものではない過去の罪を贖う為に、未来すら手放すのか。否、未来から目を逸らす為に、過去の罪を利用しているのだ。
 感情の赴くまま殺意を隠そうともせず、喪部は銃弾を放つ。鮮やかな体捌きでそれを躱し、皆守が誘うように扉の奥に消えた。開かれた痕跡が発見されなかった扉だ。誘導だと察したが、喪部は皆守を追った。心でも力でも、負ける気はしない。

 導かれた部屋は、岩をも熔かす灼熱の地だった。重装備の部下達が無音の悲鳴を上げる。しかし渦巻く氣に意識を取られていた喪部には、その声無き声は届かなかった。突入の命令を下し、自身もその地を侵略すべく踏み出す。
 扉の奥で、憐れな囚人が慟哭を従えて笑っていた。

「火神か。煉獄ってことかい?」
「違う。煉獄は汚れを清める炎だ」
「成る程。キミの火は、罪の証拠を燃やすためか」

互いに嘲笑を向け合い、《墓守》と《宝探し屋》が同時に地を蹴った。世界に見放された狂人に永遠の安らぎを与えるべく、喪部は血に眠る力を解放した。その姿は喪部にとって、忌避すべきものだった。醜いその姿を罵られ、恥辱を受けた。そして、その記憶が喪部の力になった。

「醜いだろう?」
「・・・あ、え?ああ、そう、か?」

威嚇も兼ねた自嘲に、皆守は言葉を濁した。ちょっとカッコイイ(面白い80%、カッコイイ10%、その他10%ぐらい)と思ってしまったらしい。誤魔化すようにアロマを銜え直す。《転校生》は常人ではないのが、この《學園》の常識だった。少々皮膚が青くなって角が生えたぐらいでは、《生徒会役員》は驚かない。
 皆守は、自分に宿る《神》を強く意識した。捧げた《魂に等しいもの》を食らい尽くし、それは仮初に存在している。何を捧げたのかなど、どうでも良かった。それを取り戻した時の事を漠然と思い浮かべる。きっと、そこに安らぎはない。甘い幻もないだろう。荒涼とした砂漠のようなその場所で、やがて力尽きて倒れ臥すのだろう。それを回避する為に、自分はきっと捧げたんだ。
 薄く笑った皆守に、喪部が負けじと口角を上げる。人間の分際で嘲笑など、愚行の極みだ。僅かな差異に一喜一憂し、狭い箱庭で幻の花を愛でるが良いさ。

 常軌を逸した二人の闘いに、訓練を受けたとはいえ常人である《秘宝の夜明け》の兵士達は為す術もなかった。取り敢えず、我らが上司様に敗北は有り得ないだろうと高を括り、観戦に専念する事にしたらしい。喪部が既に地上で二度の敗北を喫した事を、彼等は知らない。












 その頃、阿門は眉間に皺を寄せていた。同時に二人の《転校生》を相手にした経験はあったが、今回はその内の約一名が、余りにも規格外すぎる。勿論《秘宝の夜明け》も油断できないが、それ以上に阿門を悩ませていたのは緋勇だった。前回の《転校生》は、強敵ではあったが脅威ではなかった。彼の目的は秘宝だった。その為の対処法が、既に阿門の知識にある。しかし緋勇の目的は、未だに甚だ皆目見当も付かない。目的が不明瞭な相手に対するマニュアルは存在しなかった。
 地下で行われている戦闘の様子を把握しようと、阿門は目を閉じた。実のところ、皆守の暴走は予想外だった。カレーに関する事以外で自分から行動を起こすなどと、今までは考えられなかった。それが、あろう事か《秘宝の夜明け》に喧嘩を売るなんて。子供の成長を見るような感慨を、慌てて押し込める。今はそれどころではない。皆守は元来、突拍子もない性格だったような気もする。問題は、急激な変化が何によってもたらされたか、だ。
 思考を巡らせながら、阿門は地下の死闘が終った事を感知した。今の時点で、皆守は無敗だ。誇らしさと同時に、遣る瀬無い気持ちになる。皆守の能力の高さは、取りも直さず彼の闇が深い事を暗示していた。火神が持つ壮絶な破壊力は、皆守の苦悩をその根拠としている。忘却だけが、彼の安らぎなのだろうか。
 《墓》から人の気配が消えた。不純な静寂が、狭く閉ざされた世界に満ちる。これが世界だ。意味も無く、阿門が一人呟いた。或いは意味があったのかも知れない。だが、認識できないものなど存在しないに等しい。疲労して緩やかになった思考が、歩き慣れた迷いの森をさまよい始める。睡眠を欲したのを自覚すると同時に、轟音を立てて部屋のドアが蹴破られた。

 見た事もないような剣幕で、皆守が殴り込んで来た。

「何をした!双樹だろう!あいつを出せ!あと《転校生》は気に入らなかったからヤキ入れといた!」
「落ち着け。語彙が夷澤になってるぞ」
「お前が落ち着け!」
「いや、どう考えてもお前だ」

戦闘の昂揚の名残と怒りで頬を紅潮させ、皆守が喚き立てる。薄っすらと涙すら浮かべてしきりに何かを訴えるのだが、阿門にはその言葉が理解できなかった。努めて冷静に、彼の言葉に耳を傾ける。

「八千穂がまたボケやがった」
「・・・一番の療養は気長に付き合うことだ」
「白岐のこと忘れてるんだよ」
「ああ、そのことか」
「やっぱりお前か。戻せ!今すぐにだ!」

 先程、一人目の《役員》が敗れたのを察知した。彼女が放った香りは程無く消え失せるだろう。だが、もう一つの香りは未だ《學園》に満ちている。忘却ではなく、消去の力を有する芳香だ。それが完全に機能していない事を、阿門は密かに危惧していた。繰り返される。その確信すらあった。だが、阿門が《抱香師》である彼女の能力を疑う事はない。能力ではなく、感情なのだろう。取り戻した縫いぐるみに、愛しげに頬を寄せていた姿を思い出す。

「お前には効かなかっただろう」
「・・・阿門、俺は」

唐突に皆守が何かを呟きかけ、寸前でそれを押し留めた。続く言葉を察して、阿門が口を開く。

「自分が何を捧げたのか、知りたいか」
「・・・いや、いい」

スイッチが切れたように脱力した皆守に、阿門は既視感を覚えた。気まずそうに阿門の肩に置いていた手を下ろし、皆守が少し後退る。その手が、薄暗い部屋の中でも分かるほどに震えていた。俯いた皆守の頭頂部を眺めながら、阿門はその髪に触れようとして思い止まる。安易な慰めでは、彼の闇は癒されない。

「お前が捧げたのは、黒板消しではない」
「黒板消しだって言われても困るけどな」
「輪ゴムでもない」
「やっぱりお前が落ち着け」

幾分か冷静さを取り戻した皆守が、思い出したようにアロマに火を点けた。

 せめて、眠りだけでも。

 青い瞳が深い悲哀を湛えている事を、皆守は知らない。












 久し振りに面白いものを見た。ソファの後ろで様子を窺っていた神鳳は、皆守の気配が遠ざかった事を確かめてから体の力を抜いた。驚くほど昂ぶった声と、切なくなるほど沈んだ声を同時に思い出す。彼の炎は、真空ですら燃えるのか。自分の中に浮かんだ言葉に、自嘲と共に否定を被せる。そんな筈はない。火種があるから燃えるのだ。当たり前の事実を確認し、神鳳は阿門を見上げた。
 椅子に座るよりも正座の方が落ち着く、という理由で、神鳳はよく床に座っていた(座布団は持参)。手の中の湯飲みで手の平を暖めながら、記憶の消去に過剰なまでの反応を見せた無精者に思いを馳せる。

「阿門様」
「・・・なんだ」
「彼は、何を捧げたんですか?」
「お前がそれを知る必要はない」

答えが得られるなどと、期待してはいなかった。だが、神鳳は湧き上がった違和感を巧く飲み込めないでいる。
 双樹は捧げたものを取り戻したらしい。《魂に等しいもの》とは、神鳳が知る限りでは、強い思い入れのある物だった。本人以外の者にとっては、ただの紙切れに過ぎない楽譜。古びたオルゴール。安っぽい手鏡。脳内で羅列してみても、自分の執着を思い出す事は出来ない。そもそも、そんな情熱が自分にあった事が信じられない。
 切り捨てるのに覚悟が必要なほど大切なものが、果たして存在したのだろうか。自分にも、あの無精者にも。分かっているのは、彼の瞳が乾いている、という事実だけだった。皆守の瞳の奥にあるのは、清濁を吸収せんとする空漠だ。渇きだ。痛々しいほどの渇望だ。

「取り戻したいか」

不意に、阿門が口を開いた。穏やかなその口調にいつも通りの静寂が含まれている事を確かめ、神鳳は慎重に言葉を発した。阿門に否定を返す時は、それがどんな言葉であっても、一瞬だけ躊躇うのが神鳳の常だった。

「いいえ。それは、貴方の手にあるからこそ価値のあるものです」
「それは幻想だ」
「人が戦うのには、いつだって幻想が必要なんですよ」

巧く笑えただろうか。湯飲みをじっと見詰める。衝動的に、その湯飲みを床に叩き付けたくなる。そんな無意味な行動を取るつもりはない。手に力をこめ、衝動をやり過ごす。背中合わせに座っていた為、互いの表情は見えない。それでも、神鳳は自分の表情を気にした。そんな事は有り得ないのだが、もしかしたら、とても情けない表情をしていたかも知れない。
 不完全な忘却は、毒のように体を支配する。その毒は、神鳳の精神をも犯していた。それを取り戻した時、得られるのは安らぎではない。ならば、《執行委員》達の変化は何だ。
 友人の痛みを我が事のように感じる緋勇の、あの気高さは何だ。