芳香を感じたような気がして緋勇は振り向いた。しかしぐるりと辺りを見回してみても、香りの主は視界に入らない。そういえば、と緋勇は思い出す。この《學園》に入った瞬間、ほんの微かに花のような香りを感じた。敷地内のほぼ全域を包むその香りも、今ではあまり気にならない。皆守と行動を共にするようになって嗅覚が麻痺してしまったのだろうか。
いつも通り空いたままの皆守の席に、緋勇はチラリと視線を流した。教室にいないという事は、屋上か保健室か、或いはそれ以外の日当たりの良い場所でも見付けたか。視線を前に戻そうとした時、緋勇は気付いた。もう一つ、視界の中に空いた席がある。二つの空席が緋勇の記憶をざわめかせた。
緋勇は、記憶が確かなものではないという事実を、もうずっと前から知っていた。そして、時にその不確かなものは道を照らす光となる。その事実をも知っていた。
雛川が、いつものように柔らかい微笑を浮かべて《転校生》を紹介した。喪部銛矢という名のその男は、物憂げな目で並んだ羊達を睥睨した。左から右へと移動させた視線に、緋勇の姿が映る。その瞬間、緋勇が立ち上がった。ほぼ同時に喪部が跳躍する。雛川の頬を掠めたのは、緋勇の右足だった。
「な・・・え、ひ、緋勇君?」
「ああ、すみません、先生。下がっていてください」
緋勇が、この場所(戦場と化した教室)では不自然なほど優しげに雛川を見る。喪部はその様子を逐一漏らさず観察すべく、動きを止めている。呆気に取られているともいう。雛川が机の陰に隠れるのを待って、やっと緋勇が喪部を見返した。真正面からその不透明な瞳を見詰め、腰を落とす。誰が見ても明らかな戦闘態勢だ。
「お前、鬼だな?」
それは疑問の形で出された声だったが、緋勇の表情は既にその答えを知っているものだった。察した喪部が一瞬だけ目を見開き、次に破顔する。屈辱による怒りと、歓喜による笑みだった。
「キミは、鬼が何だか知っているのかい?」
「知らん」
「え?」
「昔説明されたが、よく分からなかった」
教室中の羊達が、固唾を呑んで成り行きを見守っている。奇妙な《転校生》が増えた。常識では有り得ない事が、《転校生》の前では頻繁に起こる。つまり、常識などあるだけ無駄だ。羊達にとって、与えられた常識は信仰とよく似ていた。それを信じていれば、自分の心だけは必ず救われる。しかし、神など初めから居なかったのだ。そんな事が容易く認められる筈もない。
羊達の懊悩など気にも留めず、緋勇が床を蹴った。空を切り裂く鋭い音が、無力な羊と健気な教員と一人の少女の鼓膜を揺らす。
頭上で起こった轟音に、保健室で惰眠を貪っていた皆守が目を覚ます。パラパラと落ちて来る校舎の欠片を浴びながら、またか、と、遠い目で呟いた。布団を頭まで引き上げる。呟きが天井に消えた時には、既に皆守は夢の国に再入場していた。
数分後に響いた断末魔を、皆守は永久に知る事はない。
「凄かったんだよ!」
「へぇ」
「転校生のね、えーと、もべ、クン?がね、いきなり青くなって」
「青く?」
「そう!全身真っ青になって、で、ひーちゃんが手から何か出したの!」
「何かって」
「なんか分かんないけど、光ってたの!」
皆守の言葉を最後まで待たずに、八千穂は捲し立てるように事の次第を話した。
転校生と緋勇の目が合った、と思った次の瞬間には、緋勇が凄まじい蹴りを発していた。間一髪でそれを躱し、短い会話を交わした。その会話が終了するや否や、緋勇が掌から膨大な光を発した。
「で、これか?」
皆守の視界には、変わり果てた教室が広がっていた。昨日までは確かに存在していた黒板は、既に瓦礫と表現すべき物と化している。それはまあいい。《生徒会》が頑張ってなんとかするだろう。
「鬼には氣が有効だからな」
「・・・ふうん」
煙を吐き出し、皆守は風通しの良くなった教室を見渡した。緋勇の会心の一撃を受けた男は、何らかの後ろ盾を持った《転校生》だった筈だ。皆守にも通達があった。昼にでも様子を見に行こうと考えていた矢先に、その対象を見失ってしまった事になる。
「・・・まあいいか」
様々な思考と記憶を放り投げ、皆守は一言でその惨状を意識の外に追いやった。要するに仕事が減ったのだ。喜ばしい事じゃないか。風に流される煙に向かって語り掛ける。授業も中止になったらしい。今日は良い日だ。
不自然なほど晴れやかな表情の皆守に、八千穂が疑惑の目を向けた。
「もしかして、授業中止になってラッキーとか思ってる?」
「すごいなお前、心読めるのか」
「もー!そんなんだから転校生にも会えないんだよ」
「いや、別にどうでもいいっていうかそれ関係ない」
「またそんなこと言う!」
絶妙に食い違った言葉を交わしながら、皆守は緋勇に視線を流した。黙り込んでいるのかと思ったが、口中でしきりに何事か呟いている。
「まさか鬼道衆が、いや、そんな筈はない」
「ひーちゃん、きどーしゅーってなに?」
「鬼だ」
「へえ、そうなんだ」
「昔、何度かやりあった」
「え、何を?」
「殺し合いを」
「ダメだよ!そんなことしちゃ!」
「そうだな」
八千穂の言葉に素直に頷いた緋勇は、それでも眉間に皺を寄せて何事か考えている。
「だって、鬼にも家族とか友達とかいるはずだよ」
「・・・ああ、そうだな」
「死んだらきっと悲しむよ。も、もぶ、クン?だって、きっと死んだら悲しむ人がいるはずだよ!」
「・・・八千穂」
「なに?」
「お前は正しい」
「え、あ、ありがと」
斜め後ろで聞いていた皆守には何故だかさっぱり理解できなかったが、八千穂は嬉しそうに頬を染めた。その様子に目もくれず、緋勇が場違いなほど燃え滾った瞳で空を仰ぐ。
「残党がいるはずだ。叩くぞ」
言葉と共に二人を振り返る。「だーかーらー!」と言って八千穂が緋勇に向かってラケットを構えた。珍しく本気で驚愕する緋勇から目を逸らし、皆守は「そういえば」と呟いた。全ての《執行委員》が敗れた今、《生徒会》は窮地に立っている筈だ。何か策を弄するような話を聞いたような聞いていないような気がしたのだが、なんだっけな。風は、穏やかにその声を掻き消して行き過ぎた。
時計台の最上階で、白岐は溜息を吐いた。阿門がそれに気付き視線を向ける。しかし続く言葉はなく、狭い部屋を静寂が満たした。
《墓》から這い出した亡霊が、幻影となって《學園》内を闊歩しているらしい。少し前に聞いた報告を思い出し、阿門はふと湧き上がった疑念を口にしてみた。
「お前は《ファントム》を知っているか?」
「たしか、夷澤くん、だったかしら?」
「・・・そうなのか?」
「緋勇さんがそう言ってたわ」
「・・・そうなのか」
その可能性は考慮に入れていたが、周知の事実だったとは想像もしていなかった。額を押さえ、阿門は疲労を強く自覚した。《墓》から這い出たものの、緋勇に敗北して逃げ帰ったのだろうか。否、と阿門は考える。夷澤はただの依代に過ぎない。奴は恐らく、新たなる体を見つけ出す。《鍵》を探す為に。
そこまで考えて、阿門は再び白岐を見た。その眼差しが深い哀切を湛えている事を、白岐はもうずっと前から知っていた。しかし向けられる瞳の底には、見憶えのない感情が沈んでいる。それがまるで渇望のように思えて、白岐は軽い衝撃を受けた。以前にも同じ感覚を抱いた事がある。皆守と同じ変化を、この男から見出すとは。
「緋勇さんが怖いの?」
「仮にそうだとして、それを俺が認めると思うのか」
「・・・そうね」
無意味な会話だ。二人は同時に同じ言葉を思い浮かべ、同時にそれを胸にしまった。口にする必要のある言葉など、本当に存在するのだろうか。
荒涼とした沈黙を、二人は決して厭っていない。悠久の時を経てなお変わらないものがあると信じていたいのだ。それが静寂であったならば、と果かない希望を抱いていた。そして、その願いが叶わない事を知っていた。
《學園》に満ちているのは、ただ甘い香りとヘリコプターが発する轟音だけだった。
「ヘリコプターだと!?」
「うわ凄い!初めて見た!」
「いや、ヘリぐらいあるだろ」
「こんな近くでは初めてだよ!」
見通しの良くなった教室で、皆守と八千穂がはしゃいでいる。周囲の砂を巻き上げながら校庭に着陸したヘリコプターから、一人の奇妙な男が降り立った。教員が走り寄り、誰何の声を上げている。
黙って成り行きを見守っていた緋勇が、崩れた壁から身を躍らせた。気付いた皆守が声を上げたが、その声は緋勇には届かなかったようだ。軽やかな音を立てて着地し、そのまま流れるような動作で回し蹴りを繰り出す。銃を構えた男の右腕に強烈な一撃を叩き込み、ついでとばかりに首を刈る。倒れこんだ男を確かめて短く息を吐いた緋勇が、近付く気配に視線を鋭くした。事態を把握していない教員を避難させ、闘争心を隠しもせずに歩み寄る男を睨み付けた。歪んだ笑みを浮かべた喪部が、緋勇の間合いの一歩手前で立ち止まる。
「・・・生きてたのか」
「当たり前だろう?僕があの程度で死ぬはずがない」
「そうか、進化してるんだな」
「そうさ、キミたち人間とは比べ物にならないほどの速度でね」
その言葉に、緋勇が笑みを見せた。嘲笑の類ではない。心から溢れた純粋な微笑だった。言葉を発した喪部が、あからさまな不快を顔に乗せてその笑みを睨み付ける。
「何か、おかしなことを言ったかい?」
「いや、何も」
「名乗るのが遅くなったが、僕は《秘宝の夜明け》だ」
「レリック・ドーン?」
「知っているかい?」
「いや、知らん」
「・・・だと思ったよ」
先にロゼッタ協会のハンターが潜入していると聞いていたが、彼ではなさそうだ。緋勇の殺気を受けながら、喪部は次に行うべき事について思考を始めた。
墓地から遺跡に入れる事は、昨夜の内に確認済みだ。先に潜入した《ロゼッタ協会》のハンターが、現在どの区画まで踏破したかを調べる必要がある。まさかこれほど早く支援部隊を呼ぶ事になるとは予想外だったが、一人でこの《學園》の破天荒ぶりに対抗するのは少々億劫だ。
「この男はお前の仲間か」
地面に寝転んだまま動かない男を視線で示し、緋勇が喪部に問い掛けた。喪部は男をチラリと一瞥し、一瞬だけ侮蔑を浮かべた。次の瞬間には、何事もなかったように緋勇に冷めた目を向ける。
「いや、今はもう違う」
「ふん、負ければ用無しか」
「彼は、キミより劣った人間だったんだよ」
「・・・違う」
「そうかい?まあどうでもいいよ。彼は今、使い物にならない」
「・・・」
「そんな人間を仲間と呼べるほど、僕は心が広くない。それだけさ」
口の端に快によるものではない笑みを貼り付け、鬼の血を持つ男は緋勇を見た。黄昏よりもなお昏く、その瞳は深淵のように光を吸い込んだ。深淵に見詰められ、緋勇が視線を険しくする。それに魅入られた心を、緋勇はよく知っていた。それを愛する事は自分を壊してゆく事だ。破滅を望む心は、何故こんなにも美しいのか。
緋勇が唇を引き締めた。清廉な彼は、醜い人間でありたいと願っていた。
教室の窓(ガラスは無い)からその様子を窺っていた八千穂が、隣に居る筈の皆守を振り返った。しかし、皆守の姿は視界のどこにもない。「あれ?」と呟いて辺りを見回す。瓦礫と化したかつての教室に、八千穂は自分がたった一人で立っている事を認識した。爽快感すら覚えていた破壊の爪跡に、急速に恐怖が湧き上がる。
「み、皆守ク〜ン」
思わず、意外と頼りになる友人の名を呼ぶ。返事はない。頼りになるのは事実だが、彼は基本的に薄情なのだ。気紛れで八千穂を庇う事はあっても、勇気付けてくれるような繊細な優しさは持ち合わせていない。
不意に、八千穂は自分が探しているのは皆守ではない事に気付いた。彼よりも、或いは他の誰よりもずっと近くに居た、優しい人。暖かい手の感触を、確かに憶えている。もどかしくなるほど控えめに、それでも強く想ってくれた。深い悲しみを湛えた瞳が、信じられないほど遠く感じられる。
「・・・あれ?おかしいな」
心細さを誤魔化す為に、無理して笑みを作ってみる。
手に触れた温もりが、心に触れた優しさが、誰のものなのか思い出せない。
甘い香りが、爆風に飛ばされる事なく《學園》を包んでいた。
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