赤い部屋に慟哭が満ちた。神の名を持つ仮初の生命が、天空を求めて雄叫びを上げている。皆守はそれを見詰めながら、その声の意味を理解できずにいた。

 つらい事なんて何もない。あいつはいつだって自由だった。今でもきっと、喜んだり怒ったり燃えたり黒板消しを持て余したりしながら、好き勝手に生きているのだろう。それならば、苦しい事なんて何もない。
 ただ、今あいつが傍にいなくて、少し寂しい。それだけだ。

 赤い慟哭が皆守の精神に触れた。熱を持った虚無感が胸に広がる。体内に感じる自分のものではない熱が自分を侵しているように錯覚して、皆守は息を吐いた。吐息に混じって溢れ出る自分の声が、まるで嗚咽のように聞こえる。頬に流れる水が、汗なのか涙なのかも分からない。
 嘆く理由などない。もう一度、皆守は強くその言葉を心に浮かべた。何も失ってなどいない。何度も呟く。同時に心臓が締め付けられるような圧迫感を感じたが、それを無視して皆守は微睡の裾にしがみ付く。縋るように爪を立て、堪えきれない吐息を漏らす。

 まだ目覚めたくない。












 緋勇は涼やかな表情で空を見ていた。隣でピザをかじる夷澤は、何故か少し難しい顔をしている。皆守が知る夷澤は、いつも眉間に皺を寄せていたような気がする。

「真神學園って犬いるんすか?」
「いるぞ。半魚人も人魂もいる。田中さんもいた」
「・・・誰っすか?」
「中央公園に住んでる」
「や、住所じゃなくって、つーかそれ浮浪者じゃ」
「雨が降っても靴が濡れないらしい」
「・・・へぇ、いいっすねー」

 夷澤は、口の中のピザを咀嚼しながら視線を空に飛ばした。自分が立っていた場所が崩れ去ったような、世界に亀裂が入ったような、そんな表情で雲の行方を追う。その横顔が大人になろうとしている子供のようで、皆守は薄く笑った。会話の内容は聞こえないが、緋勇と夷澤が並んで食事をしているその光景は、まるで普通の男子高校生のようだ(一人は二度目だが)。
 ぼんやりと呆けたようにそれを見ていた皆守に、緋勇が気付いて声をかける。

「起きたな。食うか?」
「つーかよく屋上で熟睡なんかできますね。だから先輩、腰が悪いんじゃないっすか?」
「うなされてたようだな」
「あ、だいじょぶっすよ。目ぇ逸らしてましたから」
「何がどう大丈夫なのか言ってみろ天香の犬」
「や、何となく18禁のよーな気がしたもんで」

 問い掛けておきながら、緋勇は返事を待たずに皆守の前にピザを差し出した。未だ半分は夢の中にいる皆守が、特に意識せずにそれを受け取る。受け取ってから、皆守は漸く目覚めた。ピザのように見えるそれが、本当にピザなのか、という疑問を思い出し、拒否の言葉を探し出す。

「・・・ピザって気分じゃない」
「我儘を言うな」
「カレーが食いたい」
「そんなことは分かってる」
「・・・食欲がない」
「カレーは食事じゃないんすか?」
「カレーを食べ物だなんて言うな蹴り殺すぞ」
「違うのかよ!違わねぇだろ!なんで喧嘩腰なんすか!」
「腰とか言うなこのエロ餓鬼が」
「えええええぇぇぇー!」

 他愛ない(?)言葉の応酬が、皆守には酷く得難いものに感じられた。晩秋の陽射しは暖かくコンクリートを照らし、そこに座る三人を柔らかく包む。数分前の夢が風に攫われて形をなくす。乾いた空気は汗に濡れた額を優しく撫で、悪夢の名残を掻き消してゆく。
 足りない物なんか、どこにもない。心の隅で呟き、皆守は渡されたピザを夷澤に押し付けた。












 阿門は手を止めた。口元に運ばれようとしていたティーカップをソーサーに戻し、深夜の来客を見詰める。招かれざる客は、立ったまま真っ直ぐに阿門を見詰め返す。その瞳が揺らぐのを、阿門は未だ見た憶えがない。今まで数え切れないほどの《転校生》を見てきたが、記憶をどれだけ検索しても、この男に似た人物を探し当てる事は出来なかった。

「俺の前に来たという《転校生》は、どんな奴だ?」
「それを聞いてどうするつもりだ」
「どうするかは聞いてから決める」

 誰にも似ていないこの《転校生》の名を頻繁に耳にするようになったのは、もう大分前の事のような気がする。沈着冷静が売りの会計ですら、危惧なのか期待なのか判断しがたい言葉を以ってこの男を評していた。芳しい女を装う書記の少女に至っては、はっきりと期待を口にしている。更に、最近では放置ぎみの副会長とその補佐が、目も当てられないほどの傾倒ぶりを見せている。
 由々しき事態だと憂う心情と裏腹に、確かに感じる昂揚感にも似た期待を、阿門は如何扱うべきか判断しかねていた。この奇妙な《転校生》が、この《學園》に蔓延する虚脱感と諦めと呪いを、根底から覆してくれるのではないか。しかしそれは、阿門の存在理由をも覆す事と同じだ。
 恐怖しつつも、阿門は望んでいる。定められた命の使い道を、心の奥底では厭っている。その事に気付いた時、阿門は慄然とした。疑いもしなかった自分の生命の理由が、自分の望みとは異なっている。それを認めるには、阿門はこの場に長く居すぎた。
 せめて、覚悟という名の諦観を得る前に、この男と出会っていたなら。
 阿門の心情など知る由もない緋勇が、責めるような口調で問いを繰り返す。この《學園》に、疑問を抱く人間など存在しなかった筈なのに、この男は何の気負いもなく問い掛ける。まるでその行為が正義であるかのように。

「《墓守》の力は、失った記憶と関係している。そうだな?」
「・・・答える義務は無い」
「傍観する気ならそれでも良い。俺は扉を開くだけだ」

 緋勇は揺らがない。それはもしかしたら、願望が見せる幻なのかも知れない。揺らがぬものが、この世界に存在する。その確信は、容易く揺らぐ人間にとっての希望なのかも知れない。

「・・・皆守は、何を捧げた?」

その問いに対する答えを、阿門は持ってはいなかった。
 阿門は《魂》という言葉を、強く欲する感情の在り処だと定義している。《魂》それ自体は、ただの器でしかない。器を満たすものが何であろうと、《魂》そのものの価値は変わらない。
 皆守が捧げた《魂》に何が満たされていたのかなど、阿門は知ろうともしなかった。知ったところで意味のない事だ。どうせ、理解など出来得る筈もない。自分と他人という似て非なる存在に、阿門は拠り所など求めない。

「黒板消しではないのか?」
「・・・何がだ」
「皆守は、黒板消しに執着している」
「カレーではないのか」
「《転校生》と黒板消しには、どんな関係がある?」
「知らん」

 緋勇は、誰にも似ていない。












 日課の報告を聞きながら、神鳳は溜息を堪えた。体が欲するままに吐き出しても問題はなかったのだが、目の前にいる夷澤は確実に嫌な顔をするだろう。それ自体は問題ではない。最大の理由は、神鳳自身が疲労を感じている事実を認めたくなかったのだ。
 神鳳が夷澤に望んでいるのは、知的労働力ではない。それが苦手であるとは言わないが、それでも得意ではないだろう。決して頭は悪くないのだ。しかし、彼は感情を制御する方法を知らない。感情そのものを否定する気はないが、多くの場合それが冷静な判断力を鈍らせる事は否めない。
 しかし、その率直さは彼の能力とも思える。真っ直ぐな心は影響力を持つ。影響力とは他人を動かす力だ。今更省みるまでもなく、歪んでしまった事を自覚している神鳳には、その子供染みた所作が羨ましくもあった。自分が彼ほど直接的に感情を表に出す事は、生涯有り得ないだろう。その事実を、少しの苦味と共に飲み下す。一歳しか違わない筈なのだが、夷澤には自分よりもはるかに多くの時間が残されているような気がしてならない。老人が幼子を見るのに似た目で、神鳳は夷澤を見ていた。
 彼は何を捧げたのだろう。ふと、神鳳にしては珍しく、つまらない好奇心が顔を出したが、幸い(ではない)それを口に出す前に、夷澤が爆弾を投げて寄越した。

「今度の《転校生》は品行方正っすね」
「正気ですか?」
「だって、備品に手ぇ出してないっすよ」
「《生徒会》は備品補充の為にあるのではありません」

 何とか爆弾発言を不発に終らせ、神鳳は今度こそ溜めていた息を吐き出した。副会長とその補佐は、既に緋勇に心酔している。しかも内一名は、最早泥酔と言っても過言ではないほどだ。自分の役割すら、言われるまで失念していたに違いない。
 阿門様、《生徒会》の危機です。
 胸の内に秘めた嘆きを祈りに変えて、神鳳は夷澤を見据えた。

「夷澤、君の役目は何ですか?」
「《転校生》をぶっ潰すことでしょう」
「・・・まあ、いいでしょう。大体あってます」
「うぃっす」

 この際、対抗心でも敵愾心でも何でもいい。青い瞳をした悲しいあの人が、せめてこれ以上心を痛める事のないように。神鳳はそれだけを願った。
 願う心が無意味だと笑ったあの眠たげな無精者は、どんな気持ちでその《魂》を捧げたのだろう。願う心の在る場所に、得体の知れない異形が棲み付いている。その事に、恐怖を感じないのだろうか。
 神鳳に宿った《神》は、多くの説で製鉄と深く関わっている。火を入れ、混ざり物を削ぎ落とし、永い時間と莫大な労力をかけ、黒金が一振りの剣と成る様を想像する。神話の時代に、その輝きはどれほど目映く見えただろう。
 閉ざされた暗闇の奥深くで、その目映さに抗える人間がいるだろうか。