あいつに全部あげようと思った。
でも俺は何も持っていなかったから、それは叶わなかった。
あいつを守りたいと思った。
でも俺は誰かを守れるほどには強くなかったから、それも叶わなかった。
あいつが幸せそうにしてるのを見ると、俺も幸せな気分になった。
でもあいつが幸せだと思っているものは、俺にとっての最悪だった。
そんなもの捨てちまえと言いたかった。
でもあいつはきっと捨てたくなかったのだろう。
あいつが大事にしているものを、欠片も残さず叩き潰してやりたかった。
でも俺はあいつの悲しむ顔も怒った顔も見たくはなかった。
本当のことを言うと、笑った顔も見たくはなかった。
あいつの記憶だけが、俺の頭から消えれば良いと思った。
何も持たず、強くもなく、狭量な自分を突き付けるあいつがいなければ良いと思った。

そして、あいつはいなくなった。












 夢から覚めるように皆守は目蓋を閉じた。空は晴れているが、皆守の心は重く淀んでいる。
 清流のような緋勇の気配が近付き、慈雨のように皆守を打つ。優しい声音で何事か喋っているらしいが、皆守にはその言葉が理解できない。そもそも、皆守が他人の言葉を理解できた例があっただろうか。

「お前が持つ《神》を破壊すれば、お前の記憶は戻るんだろう?」

 そんな事は知らない。呻くようにそう呟いたが、緋勇の耳には届かなかった。届かなくても良い。どうせこいつも消えるんだ。目覚めれば消える夢に理解を求めるなんて、莫迦げてる。
 俺は何も失ってなんかいない。皆守の脆弱な心の奥深くで、空虚な叫びが響く。失って嘆くほど大切なものなんか、持っていなかった筈なのに。では何故、あの火神はあんなにも悲痛な声で泣くのだろう。

「ところで和風とシーフード、どっちがいい?」
「和風も捨てがたいが、敢えて選ぶなら、シーフード」
「そうか」

 皆守を苛んでいた渦のような思考よりもはるかに魅力的な話題が、唐突に提示された。間髪入れずにその話題に反応した皆守に、シーフードピザが差し出される。

「・・・カレーじゃないのか」
「ピザだ」
「学校で出前取るな」
「持つべきものは足の速い友人だな」
「パシらせたのか」
「人聞きの悪い事を言うな。金は払った」

 それは皆守が期待していた物ではなかったが、空腹を感じていた体は素直にその欲求を満たす為に動いた。未だ熱を持ったピザに歯を立てる。無言で咀嚼し、飲み込む作業を繰り返す。
 何気なく目をやると、緋勇の傍らにピザが入っていたであろう紙製の平らな箱が置かれていた。その箱に、見覚えのあるようなないような亀のイラストが描かれている。

「なんだその箱」
「ピザが入っていた」
「それは分かる。何故亀なんだ」
「亀じゃない。玄武だ」
「・・・どこのピザ屋?」
「真神學園の旧校舎で入手できる」

 ふと湧き上がった疑問を口にしてみた皆守は、緋勇が持ってきた物を無防備に口に入れてしまった事を後悔した。思わず口元を押さえる。皆守には効いて、緋勇には効かない毒素の存在を、完全に否定する事は出来ない。吐き出したい。思わずトイレに駆け込もうと腰を浮かした皆守に、緋勇は座るように手で促した。

「心配するな。死にはしない」
「なんだその最低限の保障は!」
「むしろ回復する」
「何が」
「カレーでも回復するんだ。ピザで回復したっておかしくない」
「おかしいだろ!むしろお前の存在がおかしい!」

 暖簾に腕押し。柳に風。緋勇に疑問を投げたところで、回答が得られない事は分かっている。むしろ新たなる疑問が止め処なく溢れ出る。いつか決壊するかも知れない(皆守の精神が)。知っていたのに、突っ込みの衝動は容易く理性を押しのけて空気を振るわせた。

「犬を倒すと手に入るんだ」
「意味が分からない」
「世界は不思議に満ちている」
「そんな絶望的な事をさらっと言うな」

 こんな事象(例えば緋勇の存在)で世界が満ちているのなら、それは絶望以外の何物でもない。そんな世界なら滅びてしまえ。しかし、皆守に世界を滅ぼすほどの力はない。ならば、世界を拒絶するには自分が滅びるしかない。
 絶望のあまり物騒な事を考え始めた皆守を、緋勇は無表情に見詰めている。彼が絶望という言葉を理解する日は、恐らく永久に来ないのだろう。愚かしいほどに、緋勇は望みが叶うと信じている。












 鳥面の者が自分の呼び名を高らかに告げた。どうやら彼はファントムという名前らしい。最近の親は凝った名前を付けるな、と緋勇が皆守に囁く。皆守は何も言えずに目を逸らした。
 高みから滔々と何事かを喋り続けているファントムの声が、前触れもなくぶつ切れる。聞くともなしにその言葉を聞き流していた皆守が、不審に思ってやや俯かせていた顔(なんとなく居た堪れなかったから)を上げた。上げた瞬間、意識して目を細めて視線を遠くに飛ばした。俺にどうしろってんだ。
 校舎の屋上に立っていたファントムの真横に、いつの間にか緋勇が立っている。そういえば、土を蹴る音とコンクリートを蹴る音が連続して起こっていた。目撃する事は出来なかった(したくもない)が、緋勇が自慢の身の軽さを以って壁を登ったのだろう。突然間近に現れた緋勇に、ファントムは傍目で見ても分かるほどに狼狽していた。
 為す術もなく見上げている皆守は、瞬く間に間合いを詰められ仮面に手を掛けられたファントムに、心の中で手を合わせた。恨むなら、緋勇に近付いた自分を恨めよ。
 数秒だけ揉み合うような音が聞こえ、辺りは静かになった。

「・・・龍麻さん?」
「なかなか良いじゃないか夷澤。そのセンスは嫌いじゃないぞ」
「は?あれ?何すかこのカッコ」
「自分で作ったのか?器用な奴だな」
「や、あの、とりあえず俺の趣味じゃないっす」
「そうなのか」

 脱力している夷澤を肩に背負い、緋勇が皆守の前に着地する。着地の衝撃で夷澤が奇妙に潰れた声を出したが、緋勇はそれに気付いた様子もなく手を離す。緋勇の身長分だけ落下した夷澤が、声もなく崩れ落ちた。遠目には豪奢に見えた服装は、土に塗れて安っぽい舞台衣装のように夷澤を包んでいる。滑稽な自分の姿を認識し、夷澤が羞恥と屈辱に表情を歪めた。

「お前の趣味じゃないとすると、あれの仕業か」
「あれってどれっすか?」
「さっき思念体がお前から出て行った。雑魚だったがな」
「思念体?」
「墓地の方に逃げた。大方《墓》から這い出た亡霊だろう」

 一人で納得している緋勇に、皆守と夷澤は互いの表情を窺うように顔を見合わせた。自分達は《墓》を守る為に存在している。その《墓》から這い出た亡霊が、一体なんの為に守人を惑わすのか。腑に落ちないものを感じながらも、ここで答えを出す事は不可能だと判断し、何やら張り切っている緋勇を追って歩き出した。
 死後も現世に影響を与える事が出来るのなら、死とは如何なる意味を持つのだろう。むしろ、生者よりもよほど自由に動いているように見える。それならば、生命の価値とは何なのか。死の尊厳とは何なのか。
 死の恐怖など、生きる恐怖に比べれば。












 自分が忘れている事に、皆守は気付いていた。何を、という具体的なものは分からなかったが、確信だけが静かに精神の底に横たわっていた。失った事を認識して尚、皆守に焦燥は生じなかった。欠け落ちたその部分を取り戻しても、自分が安定するとは到底思えない。

「だから、別にいい」

 緋勇は皆守のその言葉を聞き、元々険しい表情を更に険悪に張り詰めさせた。記憶とは、自分自身を形作る根拠となるものではないのか。そう力説する緋勇を前に、皆守は冷めた視線で紫煙を燻らす。

「忘れても生きてるってことは、つまりその記憶は俺にとって必要じゃないってことにならないか?」

皆守としては、それは筋の通った言い分だと思えた。しかし緋勇は、自分の感情が拒否する事にいくら理屈を付けられても納得できないという、困った性分を持っている。皆守は、嘆息する事すら億劫に感じて目を閉じた。

「お前が《墓》を暴きたいって言うんなら好きにしろ。ただし、俺はお前を殺す」
「上等だ。俺に勝てると思うのか」

思ってはいない。皆守は声に出さずにその言葉を口の中で転がした。緋勇の強さは知っている。負けるのなら、それでも良い。この男に殺されるのなら、それも良い。
 会話の途中で、皆守は幻に沈み始めた。止め処なく浮かぶ映像に身を浸し、外界との接続を切り離す。

 清冽な氣が胸を貫く。峻厳なこの男が、本当は優しい人なのだという事実を苦々しく思い出した。膨大な量の熱と光を発した掌は傷だらけだった。その傷の一つは自分が付けたものだと、心の隅で淡い満足感を噛み締める。
 構えを崩さぬまま、緋勇が表情を崩した。泣きそうだ。そんな顔もするんだな。似合わないぞ。声はもう出ない。暗くなって行く視界の真ん中で、強くて優しい男が立ったままこちらを見詰めている。弱い自分を責めているようにも見える。俺を許すなよ。言葉は届かない。最期まで、届かなかった。

 ゴツッという音と共に鋭い痛みを感じて、皆守は強制的に現実に戻された。

「目を開けたまま寝るな」
「・・・起きてる」
「じゃあ無視か。いい度胸だ」
「そんなに褒めるな。気色悪ぃ」
「・・・お前のスイッチはどこだ」
「ここの、このへん」
「ここか?」
「うお!あぶね!」
「避けるな。スイッチ入れてやるから」
「避けるだろ今のは!スイッチごと壊す気か!」

 半分以上本気で皆守は叫び、純度100%で本気の緋勇の拳をかいくぐる。どれだけ覚悟を決めていても、いざ死を目前にすると恐怖してしまう。皆守は、自分の本能が未だに壊れていない事にこっそりと嘆息した。
 皆守は、自分で思っている以上に、生に執着している。