夷澤凍也は短慮である。彼を知るほとんどの者がそれに同意するだろう。欲求を恥ずかしげも無く口に出し、力を誇示する快楽を隠そうともせず、ひたすらに上だけを見詰める。空の高さと自分の矮小さを比較して焦燥を感じる様なその愚かさを、しかし緋勇は好ましく感じていた。見上げる者を、緋勇は決して嘲笑ったりしない。
 それを知ってか知らずか、夷澤は緋勇によく相談事を持ち掛けた。《生徒会》と《転校生》では有り得ない(と以前の夷澤なら考えていた)関係を、二人は築き始めていた。

「最近、皆守先輩が変なんすよ」
「確かに」
「あ、龍麻さんもそう思いました?」
「主に食生活が」
「それは前からっす」

 本日の話題は皆守だ。夷澤にとって一年先輩にあたるその人物は、一度気付いてみれば気にならない方がおかしいと思える程に胡乱だった。口を開けば「だるい」「ねむい」「カレー」しか言わないのに、《転校生》に対して不自然なほどの行動力を発揮している。かと思えば《生徒会》の内部事情にまで言及してくる。
 加えて、あの目だ。普段は微睡を湛えた目が、時折ほんの一瞬だけ火を点した様に燃え立つのだ。あんな目を隠し持っているのを知って、彼に興味を示さない者はいないのではないか。
 そんな事を力説する夷澤に、緋勇はどこか遠くを見詰める目付きで答える。

「随分な執心だな」
「終身?何いきなり物騒なこと言ってんすか」
「物騒、か。まあそうだな。執着は人を弱くする」
「終着じゃないっすよ!」

 聞くともなしにその会話を聞いていた千貫が、黙って緋勇のグラスにトマトジュースを注ぎ足す。客同士の会話に口を挟むような無粋な真似はしない。或いは無粋な好奇心を持っていたとしても、二人の会話に割って入るのは難しいだろう。自分達の会話が全力で擦れ違っている事に、この二人は気付いていない。

「だが同時に強くもする」
「俺は強くなりますよ」

 千貫は、彼らに出した飲み物にアルコールが含まれていない事をもう一度確認した。












 緋勇の部屋をノックしてから、皆守はその部屋の主を嫌っている自分の感情を思い出した。忘れていた訳ではないが、嫌っているのが本当に自分の感情なのか、時々不安になる。緋勇と行動を共にして、不快になった記憶はないのだ。
 皆守の内心など知る由もないドアが開く。顔を出したのは緋勇ではなかった。

「おや、確か皆守君だったかな?」
「・・・誰だあんた」
「僕のことは気にしないでくれ」
「分かった気にしない。緋勇は?」
「素直で助かる。30分ほど前に出掛けたよ」
「そうか、邪魔したな」

 踵を返そうとして、皆守は湧き上がる疑問が脚を絡め取っている事実に気付いた。そんなものは無理矢理にでも引き剥がして自室に戻り、いつものように(最近は貴重な時間になりつつあるが)ベッドに突っ伏せば良い。睡魔は必ずやって来る。この不確かな世界で、それだけが唯一皆守の信じられるものだった。
 眠れば全て忘れられる。忘れているかも知れない、などという奇妙な不安も忘れられる。寝るぞ、俺は。口中で誓いを言葉にしてみた。言葉にした途端に真実ではなくなるのは、何故なのだ。

「中で待つかい?」

 閉じられたドアの前で突っ立ったまま動こうとしない皆守に、留守番(?)をしていた青年が声を掛ける。控えめなその提案に、皆守は咄嗟に振り向いた。あるいはその言葉を待っていたのかも知れない。緋勇に拒絶されていない。その確信を常に探している自分に気付き、足元を確かめるように爪先を床に擦り付けた。
 その行動を逡巡だと思った青年が、幼い子供に向ける様な張り付いた笑顔(俗に言う営業スマイル)で皆守を部屋に招き入れる。逆らう理由も見つけられずに、皆守は招かれるままに部屋に立ち入った。
 片付いている。というのが皆守の第一印象だった。想像していたよりも物が少なく、整然としている。雑然とした、足の踏み場もないような空間を覚悟していた皆守は、その事実にまず驚いた。

「普通だな」
「何を期待していたんだい?」

 苦笑交じりの青年の言葉に、皆守は思わず目を泳がせる。
 床中に散乱した正体不明の食材(だとは思いたくない物)。隠そうという努力すら認められないベッドの下の銃器。統一性の欠片も見出せない、壁に貼られたポスター。用途不明の金属(のような物)。数ヶ月前のカレーパン(何故か腐敗はしていない)。そして、大量の黒板消し。
 浮かんだ映像が焦点を結ぶ前に、皆守は思考を止めた。最近では幻までもが自分を苛む。溜息と紫煙を同時に吐き出し、急須と湯飲みを用意する青年に視線を流した。その視線を受けた青年の涼やかな目元が、どこか白々しい笑顔で皆守を見詰め返す。

「龍麻は、優しいんだよ」

 皆守に目を逸らす気がない事を察した青年が、手元に視線を戻し独り言のように言った。

「目に映る全てのものを、彼は救おうと思ってる」
「傲慢だな」
「そうだね。でも、僕はそんな彼だからこそ好ましいと思う」
「理解できない」
「だろうね」

 凪いだ水のような表情のまま、青年は慣れた手付きで湯飲みを皆守の前に差し出す。この部屋にテーブルなどという気の利いた物はない。差し出された湯飲みを膝の上に乗せ、受け取ってからそれを拒否する理由を探してみる。しかし、いつもの様に思考は散漫として働かない。退出する機会を逸してしまった皆守が出された湯飲みに口を付けた。それを視線の端で確かめつつ、青年は言葉を続ける。

「君と似てる人を知ってるんだ。
 義務感とそれに付随するプライドだけで自我を保ってる、そんな人だよ。
 支配されていないと不安なんだ。
 自分の生きる意味が、自分の外にあると思ってるんだろう?」
「そもそも意味なんてないと思うけどな」
「それは賢明だね。でも、それを嘆く事すらしないのは愚かだ」
「他人に与えられた義務なんかに縋って生きる方が愚かだ」
「そのとおりだ。龍麻は君を嫌ってるよ」

 青年の表情は凪いでいる。しかし、その心中が表情と同じく穏やかではない事を、漸く皆守は悟った。何故かは分からないが、この水のような青年は心底に嵐を持っている。
 ふと見ると、手の中の茶に細波が立っていた。室内に風はない。茶托を支える自分の手が振るえているのかと思い、右手で左手を押さえる。それでも細波は消えない。体内の血液までもがざわめいているように錯覚し、皆守はその場を立ち去ろうと膝を立てた。

「君の見る夢は、幻ではない」

 目を合わせずに言い放たれた言葉を理解する前に、皆守は逃げるように部屋を出た。その言葉を理解してはいけない。どこか遠くで警鐘が鳴っている。昨夜の夢を思い出そうとする自分の思考を押さえ付ける。浮かんだ幻を凝視しようとする自分の目を固く閉ざす。雑音に混じった声を探そうとする耳を塞ぐ。早く、自室に戻らなければ。踏み出した足が縺れる。
 これは、本当に現実なのか?












「みーなーかーみークンってばぁ!」

 唐突に鼓膜が激しく揺さぶられた。目蓋は開かないが、口だけが何とか声を出す事に成功した。

「・・・何だよ」
「早く行かないと遅れちゃうよ!」
「・・・あと5時間」
「寝すぎ!」

耳元で喚く八千穂の声量に耐えかね、重い目蓋を抉じ開ける。うるせぇな、と喉の奥で唸りながら体を起こす。曲げていた腰が音を立てて軋む。大きな欠伸をしながら、涙で滲んだ視界で周囲を見渡した。

「ひーちゃん、先に行っちゃったよ」
「・・・次どこだっけ」
「理科室!早く追い駆けないとひーちゃんまた迷っちゃうよ」
「あれは絶対意図的にやってる。辿り付けなかったとか、嘘だろ」
「ひーちゃんは真面目だからサボったりなんかしないもん!」
「・・・そうか?」
「皆守クンとは違うんだから!」

 八千穂の口調は責めているようにも聞こえるが、その声の根底に優しさがある事を皆守は知っている。勢いよく捲し立てていた八千穂が、言いすぎたかと皆守の表情を窺う。その視線に皆守は口の端を上げるだけで答え、丁寧に結い上げられた髪を軽く叩いた。
 自分の言葉が皆守を動かした事を知った八千穂が、嬉しそうに頷く。軽い足取りで皆守を追い越して「はやくはやく」と急かしながら、緩慢な動きで歩く皆守を導くように廊下を進む。
 彼女は、現実だろうか。ふと皆守の脳裡に疑念がよぎった。以前にも、こんな事がなかったか。賑やかな友人と廊下を歩いたのは、夢だったのだろうか。確かあの時も、授業に出ろと煩いくらいに言われた気がする。
 階段の踊り場に黒い影が現れた。それが緋勇だと認識する前に、八千穂がその人物の愛称を呼んだ。

「ひーちゃん!待っててくれたの?」
「いや、迷った」
「またぁ?もーしょうがないなぁ、ひーちゃんは!」

 斜め上を見詰めながら紫煙を生産し続ける皆守に、緋勇がちらりと視線を流す。八千穂は既に歩き出していた。

「御執心、だな」
「誰が誰に?」
「ああ、お前には通じるのか。若者には通じないのかと思った」
「まあ、あんまり言わないな」
「そうか」

何かを得心したように一つ頷くと、緋勇は八千穂とは反対方向に歩き出した。その足取りに迷いはない。八千穂と緋勇のどちらを追うべきか数秒だけ考え、皆守は《転校生》の後を追った。

「理科室、あっちだぞ」
「そうだな」
「あれ誰?」
「どれだ?」
「昨夜お前の部屋に居た奴」
「ああ、古い馴染みだ」
「あんまり部外者を立ち入らせるな」
「管理者みたいな事を言うな。問題は起こさせない」
「まあ、いいけどな」

 実際は良い筈がないのだが、どうせ責任を取るのは皆守ではない。憂鬱な青い瞳を思い浮かべ、同時に憐れみを咀嚼して飲み込んだ。彼の瞳の青は空の色ではない。きっと深い水の色だ。皆守は心の隅で出された結論に満足して、それ以上の思考を止めた。












 闇を振るわせて、清冽な氣が光を放つ。緋勇が無造作に扉を開く。すっかりこの場に馴染んだ赤毛の剣士が、踊るように殺戮を演じる。彼は躊躇わない。地盤沈下が起こるのではないか、という危惧もないらしい。壁を壊す。柱は折る。膨大な時間を経てなお存在し続ける知識すら、彼にとっては昨日の夕食と同じぐらいの価値しか持たないようだ。
 蹂躙される《墓》を見詰めながら、皆守は自分の心が激しく叫ぶ声を聞いていた。

 気安く触るな。それを得る為だけに、   は生きていたんだ。

 叫ぶ心を、もう一つの自分が冷めた目で見ている。知らない記憶が自分の中で泣いている。その涙の理由が理解できずに、皆守は途方に暮れていた。

「どうした?また電池切れか?」
「ん?腹減ったのか?」
「・・・なんでもない」

 あの赤い部屋まであといくつの扉があるのか。おぼろげな記憶に目を凝らし、その答えを探す。二人の侵入者は既に次の扉に向かっている。皆守に背を向け歩き出している。皆守は、自分に備わった能力を強く意識した。
 二人の背中は無防備に見える。そして、皆守の体には破壊力が備わっている。
 一人の足場を崩し、反応したもう一人の延髄に爪先を捻じ込む。一人の得物には間合いが必要だ。懐に入り込む必要がある。フェイントを多用して視線を誘い、切っ先を上げさせる。
 そこまで考えた瞬間、二人が同時に皆守を振り向いた。緋勇は無表情だったが、蓬莱寺は笑っている。

「安心しろ。お前も後で可愛がってやる」

緋勇の静かなその声に、皆守の体が総毛だった。失われた記憶を求めて指先がおののく。捧げた魂を強く欲する。忘れてしまった感情が、恐怖を押しのけて雄叫びを上げている。
 燻らせた紫煙が消えるのを、絶望にも似た気持ちで見送る。たった今消えていった煙を見詰め、それを掴もうと手を伸ばした人を思う。莫迦な奴だと言って笑った自分を、寂しい人だと悲しく笑ったその顔が、思い出せない。

「・・・《墓》の呪いか」

 緋勇が呟く。呟いたその言葉は誰の耳にも届かず、闇に混じって意味を失った。
 皆守は、自分がなんの為にここにいるのか承知していた。《転校生》の監視だ。《墓》を暴こうとする愚者を、正しく導く為に存在している。死者の眠りを守り、永久の静寂を作り出す為に皆守は存在している。そう信じていた。
 それこそが幻なのか。