緋勇龍麻は《転校生》だった。天香に来る前はエジプトにいたらしいが、出身校は都内だと聞いた。しかも噂の域を出ていないが、どうやら地元では相当な有名人らしい。その筋に詳しい後輩の言では、都内で発生した暴力事件のほとんどに関わっているそうだ。その人物を監視する事が、皆守に与えられた使命だった。
 皆守はその使命を受諾した。当然の事ながら嬉々として受け入れた訳ではないが、拒否したところで自分の立場が変わる事もない。全てを拒絶するよりも、分相応な地位を受け容れる方が遥かに消費するエネルギーを節約する事が出来る、という事実を、皆守は認識していた。
 信頼には結果で、敵意には殺意で。プラスにはマイナスを、マイナスにはプラスを。皆守は、ゼロが最も安定した数位だと信じていた。












 安定を望む皆守はその時、人間にとって最も安楽な姿勢を模索していた。机に突っ伏すのは最善ではない。曲げられた腰が痛むし、枕にしていた腕は痺れる。むしろ最悪に近い。やはり寝そべるべきか、と床に視線を流すが、どう見ても硬く冷たいその場所は、皆守に安息をもたらしてはくれそうにない。微睡みながらも真剣に、皆守が更なる模索を続けようとした、その時だった。

「ひーちゃん!」

という、無遠慮な大声が教室に響き渡った。
 地上三階の教室に窓から侵入したその男は、真っ直ぐ緋勇に歩み寄った。整然と秩序を守る事こそが美徳だと信じる羊達が、その男に対して如何なる行動を取るべきか逡巡する。与えられる事にも、それに耐える事にも慣れているが、自分が何かを与えるなど想像もしなかった子供達が、列を乱す者に抱く感情は恐怖だ。
 少し長めの赤毛を揺らし、明らかに暴力的な意味を持った長い袱紗を担ぎ、常人ならば気後れするであろう高校生の群れの中に、何の頓着もせずに踏み入って来た。
 皆守は咄嗟に判断を下せずにいる。しかしこの男が何者なのか、自分にとって害悪となる者なのか、瞬時に決断できた者は、この教室には存在しなかった。
 ただ一人を除いて。

「何故いる」

 緋勇がその奇妙な闖入者に向かって言葉を発した。その事実を受け入れるのに、その場に居た誰もが疑問を抱かなかった。奇妙な人間は奇妙な友人を持っているものだ。類は友を呼ぶ。この教室で学ぶ羊達にとって、緋勇は既に平凡な級友ではなかった。緋勇の知り合いか、と納得し、各々今までの作業(雑談、猥談、昼食を賭けたポーカー等)に戻った。君子でなくとも、危うきには近寄りたくないものだ。
 羊達の沈黙を気にも留めず、奇妙な《転校生》と奇妙な闖入者は会話を続ける。

「ひでぇな、相棒だろ俺ら」
「此処に居る理由にはなってないな」
「かてぇこと言うなよ。あ、そーだ忘れてた。偶然だな!こんなとこで!」
「なんだ偶然か。それなら早く言え。てっきり俺を追いかけて来たのかと思ったぞ」
「へへへッ相変わらず自信家だな、ひーちゃんは」

 聞きたい訳ではない。出来ることなら聞きたくない。それでも、同じ教室で繰り広げられるその会話を、無力な羊達と一匹の飼い猫と一人の少女は聞いてしまった。同時に、奇跡の様に心が重なる。
 それでいいのか緋勇!
 八千穂が隣に居た白岐に視線を向ける。その左手にはテニスボールが握られているのだが、白岐はそれを可能な限り優しく抑えた。同時に右手にあったラケットも、そっと押し留める。二人の少女の手の平が、ほんの少しだけ触れ合った。八千穂がその温もりに笑みを零す。その笑みに、白岐も控えめに笑い返す。
 更にその斜め後に居た皆守は、目撃してしまったその光景を意識の外に追い遣る為に、(無駄な努力と分かってはいるが)たった今赤毛の男が侵入してきた窓の外に視線を投げた。
 空は、地上で起こる如何なる事象にも興味を示さない。ある国の神話では、天神と地祇は姉弟であり夫婦でもあるらしいが、所詮は男と女なのだろう。薄情な事だ。












 皆守が「蓬莱寺京一」という名を知ったのは、その数時間後だった。学徒の役割を終え、皆守が最も尊ぶ就寝の時間を迎えた頃、緋勇が皆守の部屋にやって来てそれを告げた。
 そもそも緋勇の監視を義務付けられている皆守だったが、今のところその役目を遂行しているとは言いがたかった。緋勇が夜毎《墓》に立ち入っているのは確認済みだが、目的は把握出来ていない。言動は予測を裏切り、その能力は計る事すら不可能に思えた。
 しかも、皆守の役割を知ってか知らずか、緋勇は《墓》に潜る前に皆守の部屋を訪れるのだ。

「これから地下に潜る。お前も来い」
「・・・早く寝ろ」
「お前も来い、と言っている」
「・・・蓬莱寺、だっけか?そいつも一緒なのか?」
「勿論だ」
「・・・石拾いでもして寝ろ。頼むから」
「何故石など拾わねばならんのだ」
「・・・さあ」

 どうして石拾いなどという言葉が出て来たのか、皆守にも分からなかった。ただ、それが《転校生》の習慣の様な気がしたのだ。《転校生》は黒板消しと石を収集する、と、何故かそう思ったのだ。理由は分からない。むしろそれに当て嵌まらない緋勇こそが奇妙に思えた。

「緋勇」
「何だ」
「・・・輪ゴムをどう思う?」
「伸びる」

うん、と喉の奥で肯定を示し、皆守はドアを閉めた。鍵を掛け、緋勇の背を追って禁じられた場所に向かう。言葉の存在意義を、皆守は信じていなかった。言葉は、思いを伝えるようには出来ていない。












 緋勇が鋭い気合いと共にゾンビ(仮)に掌を打ち付ける。衝撃に耐え切れず吹き飛ばされたゾンビ(仮)が、蓬莱寺の木刀に脳天を叩き潰される。まただ。不味いコーヒーでも飲み下すように、皆守はその呟きを飲み込んだ。
 一箇所に固まっていた蝙蝠(仮)を蓬莱寺が薙ぎ払う。それを緋勇が一閃して光に返す。言葉はおろか視線さえ合わせずに、緋勇と蓬莱寺は見事な連携を見せていた。蓬莱寺がこの場所に立つのは初めての筈だ。常人ならば居続けることすら危険なこの地で、まるで綿密なリハーサルを繰り返した舞台上の殺陣の如く、二人は仮初の殺戮を演じて見せた。

「皆守、怪我はないな?」

 緋勇が皆守を振り返る。自分の身を案じるその言葉に、皆守は出来得る限りの凶悪な表情で答えた。知られてはいけない事実を、この男に叩き付けたくなる。
 俺は、お前と対峙する義務を負っている。眠たげな言動は偽りだ。燃え盛る炎が、俺の胸には確かにある。視線に乗せたつもりだったその叫びは、幸か不幸か緋勇には届かなかった。緋勇は皆守から視線を外し、物珍しげに辺りを検分している蓬莱寺に歩み寄って行った。
 愚かな自己顕示欲が皆守を煽る。揺らぎもせずに前だけを見詰める緋勇に、絶望と悔恨を与えたい。自分を見て恐怖する緋勇を想像しようとして、その映像がどうやっても浮かんで来ない現実に、皆守は少しだけ虚脱感を覚えた。無理だな。そう断じて無為な思考を止める。燻っていた心に火が点いたのは、初めてではない。

「どーした皆守、ビビってんのか?」

 蓬莱寺が止まったまま動かない皆守に声を掛ける。安い挑発にも聞こえるその声に、皆守は紫煙に濁った視線を返す。一瞬前の自分の思考が、煙と共に闇に消える。湧き上がった灼熱の思いは、既に深層の最奥に沈んでしまった。漸く『いつもの』自分を取り戻した皆守は、眠たげな双眸に嘲笑を浮かべて言った。

「気付かなかった。ビビるほどの事があったのか?」

 火が点いたのは初めてではない。その事実を、皆守は未だ知らない。