夷澤の耳に溌剌とした声音が届いた。聞き覚えがある。いつも楽しそうにはしゃいでいる姿しか見たことがない、一年先輩のあの少女だろう。こちらには気付いていない。
彼女のような天真爛漫な人間を、夷澤は嫌悪していた。なんの呵責もなく笑う事が出来るのは、恐怖も屈辱も知らないからではないか。喪失の痛みも知らずに旺盛な好奇心で他人に踏み込み、それが親切だと信じている。人の手では救われない者が居る事を、想像もしないのだろう。
胸中で吐き捨てる夷澤は、未だ知らない。差し伸べられた手も、暖かい心も、真っ直ぐに貫かれた清廉な覚悟も、それらがどれ程に得がたいものなのかを、年若い彼は未だ知らなかった。自分が救われる日は来ないという確信を、誇りにも似た気持ちで抱いていた。
隣を歩く人物には見憶えがない。先日通達のあった《転校生》だろうか。本人に悟られぬよう、さり気無さを装ってその姿を確かめる。
少し長めの前髪が鋭い眼光を隠しているが、その立ち振る舞いは明らかに常人ではない。几帳面に第一釦まで留められた制服の上からも、彼の体が安息に慣れていない事を見取ることが出来た。
彼は、自分の飢えを満たしてくれるだろうか。
心の隅で期待が震える。自分の力の存在価値を、彼は認めてくれるだろうか。
正直なところ、夷澤はうんざりしていた。それが自らの墓穴となる事を知ってか知らずか、《転校生》達は躊躇いもせずに《墓》を暴く。秘匿された真実などに興味の欠片もない夷澤は、死さえ厭わぬその行動が理解できなかった。
何故、自身の命すら投げ打って死者の眠りを妨げるのか。此処は《墓》だ。《墓》には虚しか存在しない。そんな事も分からないなんて、愚昧にも程がある。
こっそりと陰から様子を見るつもりが、少々殺気を放ちすぎたらしい。《転校生》が鬱陶しそうに夷澤を見た。さらりと流れた前髪から獰猛な視線がちらちらと揺れる。自分の性を理解して尚、隠す気はないようだ。尊大な態度でじろじろと夷澤を観察する。
カチン、と夷澤の耳の傍で何かが鳴った。奥歯が触れ合って発生した音だったが、夷澤にとってはまさに『カチンと来た』音だった。初対面で無遠慮に瞳を覗き込むなど、喧嘩を売っているとしか考えられない。そうと分かれば、こちらも遠慮はしない。瞬きもせずに凶暴そうな視線を真っ向から受け止める。
唐突に始まった眼の飛ばし合いに、八千穂はきょとんとした表情で為す術を探している。
先に声を発したのは夷澤だった。
「何か用っすか?」
その声を聞き、「まずは一勝」とでも言うように《転校生》がほんの僅かに視線をやわらげた。眼が飛び交う中で声を発するのは、要するに根負けした事を意味する。限られたある一部の者達の間でだけ通用するルールだ。そもそも多くの人間は、挨拶代わりに眼の飛ばし合いなどしない。
「用があるのはお前じゃないのか?」
凄んでいるようには見えない。ただ雑談を交わしているような口調だ。事実、八千穂は彼等流の挨拶が終わったことを察知して《転校生》に言葉をかけた。
「えーっと、彼は、夷澤クン。二年生だよ」
「ほう、二年生の夷澤クン、ね」
「・・・うっす」
声にも態度にも威圧する意思は感じられない。しかし夷澤は、物理的な力で押されたように顔を伏せた。それでも視線を逸らす事だけは踏み止まる。そこまで惨めな敗北は喫していない、筈だ。多分。
「あ、それでね、あそこが売店で」
どうやら校内を案内している途中だったらしい。二人の間に交わされた挨拶が如何なる意味を持つかなど、まるで頓着せずに八千穂は自分の使命を再開させた。その事に安堵している自分に気付き、夷澤は拳を握る。《転校生》は既に歩き出していた。
緋勇 龍麻。
それが《転校生》の名前だった。
「・・・緋勇?」
夷澤は呟き、首を捻る。聞き覚えがあるような気がしたのだ。しかし、顔を見た限りでは全く記憶にない。理性を持った野獣のような、あんな人間(?)は一度でも会っていれば忘れはしないだろう。
結局その時は、不可解な記憶の正体を明かせぬまま眠りに落ちた。
謎が氷解したのは数日後の夕方だった。いつものように狭い風呂場で湯を浴びていると、風呂場に在っても紫煙を従えた皆守が話しかけて来た。この男は、何だかいつも唐突だ。
「お前、『真神の緋勇』って聞いた事あるか?」
思わず叫んだ。『真神の緋勇』。聞いた事がある、どころではない。
入学したての頃、夷澤は夜毎《學園》を抜け出しては路上の殴り合いに明け暮れていた。行き場のない少年達の密やかな狂宴は、夷澤の自尊心を満足させてくれた。そんなある夜、一人の少年が口にした言葉。
『俺、真神の緋勇さん見た事あんだぜ!』
隣にいた名も知らぬ友人から、新宿に棲む少年達の間で語り継がれる伝説が語られた。聞いた直後は他愛のない作り話だと思ったが、ある時気付いた。新宿には、その伝説の名残が生き続けているのである。大陸産の筋者から、公園で寝起きする老人から、訳ありの女から、その男の影を見つける事が出来た。その名が、この眠たそうな男の口から出ようとは。
あの《転校生》が伝説の男だったのだ。自分の鈍さを口中で罵倒し、夷澤はその場を走り去った。走りながら着衣を済ませ、その勢いのまま辿り着いたドアを打ち開ける。
「緋勇さん!」
「何だ、騒々しい」
黒い瞳が冷ややかに乱入者を見詰める。夷澤の項が粟立った。恐怖に似ているが、違う。これは何だろう。脳裡を過ぎる感覚を追い遣り、直球を投げてみた。
「なんで高校生なんすか!」
言い終わった瞬間、部屋の温度が下がった、と感じたのは錯覚だろうか。しかし、夷澤の肌が総毛だったのは事実だ。昂揚していた精神が一気に冷め、自分が失言を発した事に気付いた時にはもう遅かった。部屋の真ん中で片腕倒立をしていた緋勇が揺らぎもせずに両足を床に下ろし、夷澤に目を向けた。
「少年」
「夷澤っす」
「疑問を口にすれば答えが得られると思うな。口にして容易く得られる答えなら、始めから自身の中に在る。他人に問う前にまずは己を見詰めろ」
「・・・はい?」
夷澤は、緋勇の言葉を理解する前に昏倒した。床に崩れ落ちた半裸の少年を見下ろし、緋勇が低く呟く。
「如月、こいつを部屋まで運んでやれ」
「問答無用か、相変わらずだね」
闇などない筈の部屋の闇から現れた黒衣の男が、嘆息して夷澤を担ぐ。「お代は後で請求するよ」と言い残し、黒衣は再び闇に混じった。後に残された緋勇が、虚空に向けて無音の声を放つ。
「何故、か」
答えなど、緋勇自身にも無い。或いは存在しないのかも知れない。存在したとしても、恐らくは無意味だ。
人生で二度目の高校生活を送る嵌めになった緋勇龍麻24歳。因果など気にするような神経は持ち合わせていない。ただ、目の前に愛しい者がいる。出会ってしまったのだ。理由など、それで充分だ。
遠くはない過去を思い出し、緋勇は少しだけ笑った。
「・・・にじゅうよん?」
「そうだ」
穏やかな昼下がり、不穏な声が発せられた。発したのは皆守だ。隣に座る友人(?)を暫し見詰め、様々な言葉が脳裡を行き過ぎるのを待つ。
お前、どれだけ留年してんだよ。
そんなに莫迦なのか?
そんなに学校好きなのか?
ていうか隠さなくってもいいのか?
「え、じゃあ、トラハンターっていうのも嘘なの?」
皆守が溢れ出す突っ込みの衝動と戯れているうちに、会話は音を立てて進行していた。
「いや、それは事実だ」
「え、じゃあ、もしかして、この学校には伝説の人食い虎がいたりして?」
「勘が良いな」
「ええ!本当?」
「ああ、だがこれは極秘任務なんだ。口外すれば命の保障はない」
「う、わ、分かった。絶対誰にも言わない!」
緋勇は真顔だ。八千穂も、授業中とは比較にならないほどに真剣な表情を見せている。その横で皆守は無表情に空を見詰めていた。煙の行方でも追っているのだろう。眩しそうに細められた目は、会話に参加することを拒んでいる。突っ込み権を放棄したのだ。空気と戯れる皆守を置いて、会話は長閑な小川のように流れ続ける。
「白虎というのを知ってるか?」
「え、白い虎の事?」
「そうだ。そいつは昔、新宿にいた」
「ええ!上野の動物園にもいなかったのに!」
「そんな所にはいない」
「新宿の何処にいたの?今でもいる?あたし見たい!」
「真神學園にいたんだ」
「無理だろそれは!いくらなんでも!」
皆守の「俺には関係ないぜ」ポーズがついに決壊した。そもそも緋勇と八千穂の会話に突っ込みを入れていたら、きりがないのは分かっている。二人はどこまでも本気なのだ。出合った直後は、なんでも信じる八千穂を面白がってからかっているのかと思っていた。しかし、違う。緋勇は本気なのだ。
「醍醐という名前だ」
「ダイゴ?かっこいい!」
八千穂が目を輝かせた。白虎の醍醐を想像し、頬を染めてはしゃぐその姿は微笑ましいと思えなくもない。緋勇はそう思っているのだろう。普段は冷え冷えとした瞳が今は優しい光を宿している。その表情は、孫に昔話を聞かせるお爺ちゃんそのものだ(真顔だけど)。見たい見たいとせがむ八千穂に、緋勇は「では今度会わせてやろう」などと戯言を吐いている。どこまでも真顔だ。正体不明の敗北感に打ちひしがれた皆守は、その言葉が冗談である事を心から祈った。
祈りながら、皆守は祈りが無意味であるという事を痛いほどに理解していた。
この世には、叶わぬ願いが多すぎる。人間の欲が深すぎるのか。
ある夕暮れだった。寮の廊下で、いつも以上に虚ろな目をした皆守が夷澤を捉まえて言った。
「おい、副会長補佐」
「・・・なんすか?」
「《転校生》抹殺計画はどうなってる?」
「人聞きの悪い事言わないで下さい。ていうか、《生徒会》でもないのに何でそんな事知ってんすか」
「詳細は想像に任せる。兎に角あの《転校生》を早いとこ消してくれ」
「や、だから《生徒会》はそういうんじゃないっすから」
「監視とか、本気で無理」
「監視?」
「詳細は想像に任せる。つーか説明すんのだるい。つーか何もかもがだるい。生きるのがだるい」
「ええと、まあ、何つーか、そのうちいい事ありますよ」
「信じられない」
夷澤が知る皆守は常日頃から気だるげな雰囲気を纏っていたが、何やら様子が突き抜けておかしい。会話中も目を合わせようとせず、後ろ向きに全力疾走している。
「阿門に言っても無駄だった。もうお前しかいない」
「阿門さんに?なんて言ったんすか?」
「早く緋勇殺せよ」
「直球すね。阿門さんは何て?」
「それが出来れば苦労はしない」
「・・・ああ」
兎にも角にも、夷澤は今にも泣き崩れそうな皆守を自室へ招いた。緋勇の噂なら、夷澤も少々聞いている。
遺跡内で同窓会と称した酒宴を開き、危うく《墓》の主を呼び起こしかけたらしい。夷澤としては、是非とも参加したかったところだ。伝説の魔人達を生で目の当たりに出来るなど、羨ましい事この上ない。一世を風靡した歌姫までもが来ていたとあれば、それだけでも一目見たかった。
素直にそう語ると、皆守は深く息を吐き出した。脱力したようにその身をベッドに投げ、聞き取れないくらい小さな声で何事か呟き、そのまま毛布にくるまった。
「お前もか、もういい。俺は疲れた。寝る」
「寝るんなら自分の部屋に帰ってください」
「そんな重労働は無理」
本当に寝た。夷澤のベッドを占領して安らかな寝息を立てている。その横で、夷澤は途方に暮れていた。寝る場所はいい。どうにでもなるだろう。問題は、やはりあの《転校生》だ。
柔らかなそうな髪の毛が、夷澤が毎夜顔を埋めている枕を撫でている。穏やかな筈のその光景が、何故か酷く心をざわめかせた。
「なんで《生徒会》の内部事情に精通してんだよこの人」
夷澤は未だ知らない。
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