取り戻した光と闇を抱いて、皆守は前を見詰めた。不思議と心は凪いでいる。これで終るのだという希望が、皆守から全ての痛みを取り除いていた。せめて、死ぬ前に思い出せて良かった。記憶が作り出した幻に、思わず微笑を漏らす。しかしその笑みは誰の目にも届かず、音もなく消え失せた。
緋勇が雄叫びを上げる。阿門が《力》を解放する。それに続き、皆守が跳躍した。もう一度この足を振るえるとは思っていなかった。白岐に、心の隅で感謝する。その声が届く事はない。その事実が、少しだけ寂しかった。礼を言っておけば良かった。後悔したが、もう遅い。
異形の《王》が咆哮を上げる。それは慟哭だ。怨嗟と恥辱と、歪んだ矜持だ。唯一の救いである永遠の眠りを与えるべく、阿門が《力》を迸らせた。彼が攻撃するのも、その顔が昂揚する様も、皆守はこの時に初めて見た。
異形が滅する時、阿門の生きる理由も失われるだろう。それを知らぬ阿門ではない。それでも彼は戦っていた。憐れな《王》に安らぎを与える為、持てる力の全てを解放しようとしている。
凄まじい蹴りを連発した皆守の膝は震えていた。気を抜くと視界が暗くなる。傷は塞がっていたが、体力は疾うに限界を越えている。異形が放った余波に煽られ、体が宙に浮く。恐ろしい事に天井に激突した。咄嗟に接触する部位をコントロールして内臓を庇ったが、薄い体では衝撃を吸収しきれなかった。激痛に呻きながら、地上までの距離を一瞬で把握する。受身を取れるか。脳が生存の為に活動する。物凄い早さで状況を分析し、体に信号を送る。生物としての本能は、未だ皆守に生きろと命じていた。
皆守の体が落下する地点に、阿門が走り込んでいた。落下のエネルギーと皆守の体重を、全身で受け止める。二人同時に呻き声を発し、暫し無音で痛みを堪える。緋勇が離れた場所から大声で無事かと問う。それに手を上げるだけで答え、《王》の意識を引く為に躍り出た緋勇に続こうと立ち上がる。震える膝を叱咤する皆守に、阿門が静かに声を落とした。
「お前の力は、そんなものではないだろう」
轟音が鳴り響く中、それでもその声は皆守の耳に届いた。荒い息を吐きながら、皆守は笑った。肯定とも否定とも取れるその表情に、阿門が問いを重ねようと口を開く。だがその声が言葉になる前に、皆守は再び地を蹴った。
緋勇が背を向けたまま、皆守を呼ぶ。
背後で、阿門が皆守を呼ぶ。
遠い幻が、距離を越えて皆守を呼ぶ。
深淵が、優しさを模して皆守を呼ぶ。
待ってろ。今行くから。
誰に応えたのかなど、皆守自身にも分からなかった。
陥没したかつての《墓地》を前に、神鳳は溜息を吐き出した。真夜中の激闘の名残が、未だ消えずに燻っている。愚かで無力な羊だと思っていた生徒達が、窓から歓声を上げていた様を思い出す。彼等が緋勇を受け入れる事は有り得ないと、神鳳は思っていた。些細な反抗で退屈を紛らわし、結局は管理されるのを望んでいるのだと。自らの思考も感情も、大きな何かに委ねて生きて行くのが幸福なのだと、そう考えていた。
寄って立つ大樹を、緋勇は根元から叩き折った。そして上げた鬨の声に呼応したのは、かつて沈黙を美徳とした羊達だ。彼等は求める事を知ってしまった。戦い、勝ち取った人を目の当たりにしてしまった。この先平凡な人生を送るのは、きっと難しいだろう。それが幸か不幸かは彼等次第だ。
「まあ、もうすぐ卒業だし、責任を取るのは僕じゃありませんからね」
背後で気配を消していた双樹に聞こえるように、神鳳は独り言を呟いた。察した双樹が瓦礫の陰から現れる。踵の高い靴が、歩きづらそうに地を踏んで近付く。その音を聞きながら、神鳳は穴の底を覗き込んだ。
「気付いてたの?」
「あなたの気配は目立ちますから」
「・・・ふうん」
陥没した《墓地》の底で、《生徒会》のトップ二人が仲良く眠っている。特に皆守は、死んでいるのかと心配になるほど安らかな寝顔だ。双樹が来る前に、神鳳は思わず呼吸を確認してしまっていた。ゆっくりと吐き出される息に涙が出るほど安堵したなどと、本人には絶対に知られたくない。阿門がうなされているのも気になる。
リンリンと騒がしかった双子の亡霊も、今は静かだ。限りなく静寂に近い空間で、双樹がやっと口にすべき事を口にした。
「ねえ、緋勇は?」
答える者は居ない。
目覚めたのは、阿門が先だった。自身を見下ろす二対の瞳に向かって、すまない、とだけ言った。神鳳と双樹は、その謝罪を一瞬も躊躇う事なく切って捨てた。謝る必要はない。どうか、ねぎらいを。真っ直ぐにそう言い放った二人に、阿門は希望どおり、ねぎらいと謝意を声に乗せた。そして、思い出したように問うた。
「緋勇はどこだ?」
「・・・それが」
「いないのか?」
「いませんね」
「探せ」
以前と何ら変わる事なく命令を落とし、一呼吸の後にそれを依頼に言い換えた。それを受け入れた二人が部屋を辞するのを確認し、隣のベッドをそっと窺う。
皆守は眠っていた。その寝顔があまりにも安らかで、思わず手を伸ばして口元に添える。指先に触れる呼吸を確かめ、肩を撫で下ろした。彼にこそ、謝罪しなければ。そう思い立ち、目覚めを待った。時間ならある。持て余すほどに。浮かんだ言葉に苦笑を漏らし、阿門は目を閉じた。
あの日以来、皆守に純粋な眠りは存在しなかった。扉の隙間から這い出すように、過去の記憶が夢と化す。それを掴もうと伸ばした手を、《墓》の呪いが絡め取った。否、阿門の下した決断が、皆守の心を閉じ込めた。悔恨を、深く胸に刻む。欲する心を否定したのは、本当に彼の為だったのか。もう分かっている。断罪されるべきは自分だ。
早く目覚めろ。謝罪をさせてくれ。それすらも、独り善がりの願いに過ぎない。
皆守の目蓋が動いた。ゆっくりと目が開く。その様子を、阿門はまるで世界の終わりを見るような気持ちで見ていた。瞳が焦点を合わせる。彷徨うように揺らめき、阿門を映す。永遠にも似た永い時間、その瞳は阿門を見詰めていた。
永遠が終った時、目蓋は再び下りた。低い唸り声と共に、皆守が寝返りを打つ。阿門が、動けぬままそれを見詰める。再び寝息が聞こえた。それを認識した阿門が、立ち上がって皆守のベッドに歩み寄った。毛布から僅かに覗く髪を、暫しじっと見詰める。阿門の手には、未だその感触が残っていた。肩と思しき場所に手を置き、控えめに揺すってみる。僅かに唸り声を上げて毛布の中で身動いだが、また寝息が聞こえて来る。それを数回繰り返し、阿門は毛布を勢いよく剥ぎ取った。
「うわさむっ!」
「・・・皆守」
「返せよ寒いだろ!」
「聞け」
「んー、あと5時間したらな」
「寝すぎだ」
答える声はなかった。阿門が端を掴んだままの毛布に無理矢理くるまり、皆守が目を閉じる。うるせぇな、と聞こえたような気がする。阿門の血管が一本増えた。掴んだ手に力をこめる。皆守が負けじと力をこめた。米神の辺りに、血管がもう一本増えた。一つ息を吸うと、阿門はそのまま毛布ごと腕を引いた。毛布に巻かれていた皆守が、裏返った声で何か言った。だが気にせず、引いた腕を振り上げる。「うぐっ」というような本気の呻きが聞こえ、皆守が毛布ごと床に転がった。それでも毛布を離さない事に、感嘆すら上げたくなる。
「・・・起きろ」
「分かった起きる・・・あと50分」
「今だ」
「うー・・・」
言いながらも皆守は、床の上で毛布と一体化するべくごそごそと動いている。「疲れてんだよ」などと呟き、鬱陶しそうに顔をしかめた。そんな目で見られるのは心外なのだが、それでも強く言い出せず、阿門が皆守の横に座り込む。その根性に敬意を表し、毛布を没収する事は諦めた。疲れているのは事実だろう。捲れ上がった毛布を引っ掻く足先も、隙間なく覆ってやる。
「皆守、寝たままでいい。聞け」
「・・・かたい」
「いや、聞いてくれ」
「つめたい・・・」
「俺は」
「・・・まくらがほしい」
皆守と共に転がった枕を拾い上げ、顔面に向かって放ってやる。皆守は正確にそれを受け止めた。やはり、既に覚醒しているのだろう。思わず舌を打ちそうになって、慌ててそれを押し込める。顔面に当たったら愉快だったのに、などと子供染みた考えが頭をよぎった。阿門の内心など知りもしない皆守が、受け取った枕に頬をすり寄せる。幸福そうなのは喜ばしいが、今は話を聞いて欲しかった。
「・・・皆守」
「なんだよ。言っとくが、謝ったら絶交だぞ」
「ぜっこう・・・」
漢字変換にてこずった阿門が、口中でその言葉を転がす。漸くその意味を悟った阿門が、続く言葉を見失って口を噤んだ。交友を絶つ、という意味だ。それはつまり、謝罪をしなければこの先も交友が続く、という意味だ。導き出された至極単純な解答に、阿門は眉を寄せた。式に間違いはないか、計算間違いはないか、何度も答えを見なおす。
黙ってしまった阿門を、皆守が毛布の隙間からじっと見ていた。複雑な色のその目が、阿門の瞳を見詰める。暫し無言で見詰め合い、皆守は目を逸らした。
「お前のせいじゃない。
・・・あいつだって、悪くない」
囁くように、小さな声で皆守が言った。言いながら、頭まで毛布に潜り込む。体を丸め、床に接する体の面積を少なくしようと無駄な努力を繰り返す。ベッドに戻れば良いものを。口に出そうとして、阿門はそれをやめた。代わりに、皆守の体を力任せに引き上げる。そうとは知らず、襟首を掴んでしまったらしい。皆守がくぐもった呻き声を上げた。苦痛を与えるのは不本意だ。ニの腕に持ち替え、引き上げた体をベッドに放り投げる。
勢い余って壁に激突した皆守が、咳き込みながら阿門を睨み付ける。だがその瞳はどう見ても、自分が受け入れられる事を疑いもしない子供が、親に向けるような色を宿していた。それが少しくすぐったくて、阿門が笑った。それを見て、皆守が益々顔を歪めた。ひねくれ者が。そう言うと、皆守が更に眼光をきつくした。小さく舌打ちまでした。だがその眼差しが拒絶ではない事を、阿門はもう知っている。
引け目を感じたまま生きて行かなければならないこの先の道を思い、空を仰ぐ。
呆れるほどの晴天だった。
数日後、皆守宛に小包が届いた。差出人の名前を確認した皆守は、開封するべきか否かで逡巡した。『緋勇龍麻』と書かれていたのだ。見憶えのあるようなないような亀のイラストが描かれたその小包を、皆守は部屋の隅に置いたまま忘れようとした。勿論、そんな事が可能だとは思っていない。些細な抵抗のつもりだ。何に対する抵抗なのかなど、追求するのも面倒臭い。
部屋の隅で埃を被り始めたそれを開けたのは、何故か夷澤だった。皆守が日向で丸くなっていたら唐突に部屋に乱入し、発見したその小包の差出人を見るや否や、断りもなく包装を破った。
出て来たのは大量の書類だった。一人の男の生い立ちと履歴、身体的特徴や現在地などが細かく記載されている。「個人情報」という言葉が、皆守の脳裡を掠めて消えた。
その書類の一番上に、ある人物の名前が記されている。その名前を、皆守は思い出していた。心臓が音を立てて冷える。それは、皆守を傷付けた人間だ。一方的に話し掛け、笑い掛け、あらゆるものを差し出し、それを受け取った皆守を見て、本当に嬉しそうに笑った人だった。精神の深い場所にまで入り込んだ彼は、皆守を壊した。空を見せておきながら、地の底へ叩き込んだ。
湧き上がった闇に意識を持って行かれた皆守に構わず、夷澤が同封されていた紙切れ(本当にノートの切れ端のようだ)に書かれていた文字を音読した。
『一度ふられたぐらいであそこまで落ち込むな 周りが迷惑だ』
一呼吸の後、夷澤が大爆笑した。転げ回って床を叩く夷澤の延髄に、爪先を叩き込む。大量の書類を握り締め、燃やしてやる、と心で誓う。そして、その誓いが果たされる日が永遠に来ない事を知っていた。
この書類が後に更なる悲劇を生むなどと、今でもまだ夢見がちな皆守は夢にも思わなかった。
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