屋上に寝そべる皆守の目に映っているのは、気が滅入るような晴天だった。決して届く事のない青は、自分を拒絶しているように感じられる。皆守が好むのは、もっと優しい色だった。光を包み、闇を厭わず、穏やかに眠りを促す黄昏の色。
眠ってしまえればいいのだが、神経の深い場所に引っ掛かった衝動が夢の道行きを遮る。
あの奇妙な《転校生》。
実年齢は二十四歳などと公言している、自他共に認める似非高校生(夕薙が何か言いたそうにしている)。遺跡にも古代文明にも欠片ほどの興味もないと断言しながら(何しに来たんだ)、「習慣だ」などとほざき、毎夜《墓》に潜っては向かってくる異形の者と派手な攻防を演じる似非宝探し屋(それすらもオープンか)。幾重にも張られたトラップを軽々と躱し(時には破壊し)その扉を躊躇いなく開いてゆく、あの男。
最初に《墓》に潜ったあの夜、見るからに不慣れな手付きで銃器を弄繰り回していたかと思うと、彼は無造作にそれを投げ捨て、黄金の龍を模した手甲を取り出したのだ。その時、皆守は全ての感情をストップさせた。こいつは、ここで死ぬんだろう。隣で喚いている八千穂をどうするか。冷めた思考が、いくつかのつまらないシミュレーションを見せる。
目の端を黒が掠めた。
しなやかに踊る影が轟音と共に異形と激突する。遅れて舞い上がった塵がその男を覆い隠し、二撃目の呼吸が皆守の耳に届くと同時に、無遠慮な光が《墓》の一室を照らしていた。
先刻の倍の音量で緋勇を褒め称える少女の声に少し我を取り戻し、一つの義務を負った皆守は深く静かに覚悟を決めた。
いつか、こいつは俺の前に立つ。
陽射しを感じていた皆守の皮膚が違和感を覚えた。目蓋の裏で感じていた光が遮られたのだ。他人の接近に気付けなかった事に驚きつつ、平静を装って目を開ける。緋勇が覗き込んでいた。
「何か用か」
殊更気だるげに問うてみる。お前の所為で心地好いまどろみを放棄せねばならなくなったと、言外に含めたつもりだった。しかし緋勇はそれに気付いた様子もなく、いつも通りの無表情で皆守を見下ろし、独り言のように呟いた。
「下がってるな」
「・・・気圧?」
「どうした?苛められたか?」
「・・・」
皆守の気持ちが沈んでいる事を察知しての言葉らしいが、如何せん、彼の言葉は分かりづらい。
「誰に泣かされた?俺が泣かし返してやろうか」
「別に泣いてない」
「それなら良いんだがな」
「心配なら、自分の脳にした方がいいぞ」
「何を言う、自分の心配などし尽くした。今はお前が心配だ。頼ってくれて一向に構わんぞ?こう見えて昔は結構強かったんだ」
「・・・安心しろ、今でも充分人外だ」
事実、蝙蝠(都会育ちの皆守には、それが常軌を逸した生物であるという認識は無い)だけならまだしも、得体の知れないミイラやゾンビすら素手で吹っ飛ばす様は、見ていて薄ら寒くなるほどだ。
「いや、衰えた。かつて『真神の緋勇』と言えば、知らぬ者など居なかったんだ」
「多分それ、時代が変わってるだけだから。」
「そうか、それもそれで悲しいな。ああ、いや、良い事なんだが」
ここではないどこかを見詰めながら、年上の友人は少し笑い、手甲を取り出した。どうやら常に持ち歩いているらしい。
装着するでもなく(今ここでされても困るのだが)、緋勇はそれを手の中で遊ばせている。時折見せるその行動は、彼が揺らいだ時の癖なのだろう。
皆守が信じる常識を一般常識だと定義するならば、それは異常なものだった。いい歳の大人が肌身離さず所持していて、それどころか、まるで無二の至宝であるかのように扱う様は、見ていて何だか恥ずかしい、と言うのが、皆守の常日頃から抱いている感想だった。
そんな隣人の心情を察した訳では無いのだろうが、緋勇は彷徨っていた視線を皆守に戻し、左右非対称の表情で(笑ったのかも知れない)更に恥ずかしい台詞を放った。
「これは俺のタカラモノなんだ」
その日の夜、寮の風呂場でいつものようにいつもの面子がひしめく中、やたらと目つきの悪い後輩を見つけた皆守は、ふとした思い付きで話題を振ってみた。
「おい、そこの二年坊」
「何すか、三年寝太郎先輩。」
「まだ二年とちょっとだ。お前、『真神の緋勇』って聞いた事あるか?」
「緋勇!って、あの!?」
「え、どの?」
「真神の、つーか新宿の伝説っすよ。卒業後は華僑の要人に招かれたとか、メキシカンマフィアになったとか」
「華僑とメキシコって全然違うぞ」
「現役時代はあの醍醐先輩と蓬莱寺先輩をも従えて」
「だから、あのってどのだ」
「都内であの人に従わなかった奴は、片っ端からヤキき入れられたらしいっすよ」
「ヤキ入れってまだ使う奴いたんだな。」
「もしかして先輩、知り合いなんすか?あ、緋勇?あああ!あの《転校生》!」
物凄い勢いで風呂から上がり、あっという間にどこかへ走り去るチンピラ候補生。彼と会話を交わすのは難しい。あの浮世離れした生徒会長やこの世離れした会計ですら、時折噛み合わない漫才を繰り広げる羽目になっている。
「・・・有名なのか・・・」
アヒル隊長は、今日も無我の境地にいる。
「ひーちゃんって、不良だったの?」
それは翌日の昼休みだった。皆守は、口で言うほど八千穂を疎んじてはいない。知り合って数日は煩わしかった振り幅の大きい感情も、一歩間違えれば無神経とも感じられる、しかし決して押し付けがましくはないその優しさも、彼に不快を感じさせることはなかった。だから今、皆守が額に手を当てているのは、不快ではない感情によるものだ。
「そんな事はない。俺は品行方正な学生だった」
「メキシカンマフィアになったとか噂されてたぞ、お前」
「うわあ、カッコイイ!」
「ああ、それは多分、友人にエセメキシカンがいたからだろう」
「エセ?」
「だが、あいつはマフィアじゃないぞ。実に陽気で愉快な奴だった。不良なんかじゃない。まあ、銃を携帯していたのには少々驚いたが」
確かに、不良などという可愛らしいものではないらしい。不良というのは、些細な逸脱に快感を求める少年を指す言葉だ。尤も、「些細な」という言葉の線引きにもよるが。
「なんだそっかぁ。ゴメンね、変なこと言っちゃって」
「いや、構わん。誤解が解けて良かった」
更なる誤解が生まれた事など、緋勇は知る由もない。
「しかしそうか、そんな噂が流れていたのか。昨夜のあいつも、それを聞いて来たんだろうな」
「え、どうしたの?」
「昨夜、何やら半裸の少年が俺の部屋に殴り込んで来たんだ。とりあえず礼儀を叩き込んでやったが」
皆守には、後輩の無事を(信じてなどいない神に)祈ることしか出来なかった。己の無力を嘆くのは無意味だ。自分に出来ることなど無い。せめて自分の肺から吐き出された煙が、風に乗って空に近付いた事に希望を託そう。
砂に埋もれたあの部屋は、まだ遠いはずだ。
「ここだな」
「今日は何?」
「喜べ皆守、『辛さを求めん』だ」
「冷めたままのルーを流し込むこの行為で何を喜べって言うんだ」
「生憎米は切らしてる」
「ひーちゃん、せめて水とか無いの?」
「食塩水ならあるぞ。飲むか?」
「遠慮しとく」
自分たちの足元に何があるのか、皆守は知っている。そして、自分が何の為にここにいるのかも承知している。《転校生》の監視。それ以上の目的は、今のところない。
黒いコートが脳裏を掠める。青い瞳を思い出す。彼の望みを、皆守は知っている。しかし、その《転校生》の目的は甚だ皆目見当も付かない。一度、聞いてみた事がある。「何の為に」という問いに、返ってきたのは奇妙に長い思考時間と、「鍛錬だ」という、これまた非常に不可解な答えだけだった。
知りたい、と思っている。この男の過去を、心を。
「皆守クン、どうしたの?」
レトルトの袋から直接ルーの一気飲みをやり遂げてから(野菜に少々苦戦した)、一言も口を利かない皆守を案じて八千穂が声をかけてくる。思考の海に潜っていたのは事実だが、もう一つの事実を提示してやる。
「・・・口の中が物凄い事になってる」
「食塩水でも飲むか?」
「何がしたいんだお前は」
皆守にしては珍しく、本気で疑問を投げつけた。答えなど期待せずに。
自分が変化していることを、認めない訳にはいかなかった。
あれほどに嫌悪していた変化という現象に直面して、皆守はかつてないほど狼狽していた。
いつか来るその日を思うと、逃げ出したいほどの恐怖を感じる。こんな激情は知らない。スパイスだけが唯一の刺激だったあの頃が懐かしい。彼は怒るだろうか。失望するだろうか。軽蔑の眼差しを向けるだろう。きっと自分はその視線に耐えられない。想像するだけで足が震える。魂までもが震えている。
「有難う、白岐」
「いいえ、役に立てたのなら嬉しいわ」
覚めたまま夢を見るのは皆守の趣味の一つだった。五感のチャンネルを現実に合わせ、揺れ動く黒髪を見る。この《墓》の意味を、彼女も知っているはずだ。何を思って緋勇に手を貸すのかは知らないが、想像は出来る。彼女もまた変化を望んでいるのではないだろうか。
「・・・あなたも魂を震わせたいの?」
「その言い方やめてくれ」
「怪我をしてる訳ではなさそうね」
「何で魂が震えると怪我が治るんだ?」
「あなたは、疑問なんか抱かない人だと思っていたわ」
痛いところを突かれたのと、会話が成立していない事に気付き、皆守は黙った。
「・・・お前ら、仲悪いのか?」
「悪くなるほどの仲でもないわ。」
「そうか。それは何よりだ。」
白岐の言うとおり、皆守は疑問など抱いたことがなかった。他人が何を考えていようと自分には関係ない。世の理りなど興味もない。答えなど存在しない問いばかりを重ねたところで虚しいだけだ。しかし、止め処なく疑問符は湧き上がる。為す術もなくただ見詰めている事に、堪えきれないもどかしさを感じるのは何故なのか。
その疑問が自分の一生を左右するなど、今はまだ夢見がちな皆守は夢にも思わなかった。
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