その日、緋勇は昼になっても姿を見せなかった。
蓬莱寺が悪影響を与えたとしきりに訴える桜井を、美里が苦笑しながら宥めている。冷やかし半分で放課後に様子を見に行こうと提案する醍醐にチラリと視線を流し、蓬莱寺は突っ伏していた机から顎を上げた。半日ほど顔を見せなかったからといって、心配しすぎだろう。そんな言葉を口中で呟き、始業の鐘が鳴る前に席を立つ。
「京一くん、どこ行くの?」
「頭が痛いから早退する」
「あ、じゃあさ、ひーちゃん見つけたら『あんみつ食べに行こう』って伝えといて」
「じゃあの意味が分かんねぇ」
「美味しいお店、発見したのよね」
「ひーちゃんにも教えてあげようって話してたんだ」
舌の上でとろける甘味を思い出したのか、桜井が幸せそうに微笑む。蓬莱寺は了承も拒否も示さず、腑に落ちないものを感じつつも教室を出た。
どうして彼女は、頭痛で早退すると言う者に伝言など預けるのだろう。しかもなんだ、デートかこの野郎。あいつは甘い物とかそんなに好きじゃねぇんだよ。いや、知らねーけどさ。でもなんとなく似合わない、気がする。待てよ、そーでもねぇか?あ、うん、似合わなくもない、かも?そーいやあいつって何が好きなんだろう。
蓬莱寺の目測を誤った独り言は、旧校舎の前に立つまで続いた。自分が何故こんな場所に立っているのか気づいて、深く息を吐き出す。腹の辺りでわだかまる不快を、何かにぶつけたいだけだ。何かって、主に彼の顔面とか。我知らず拳を握り締め、蓬莱寺は闇へと続く階段に足を掛けた。
探していた訳ではないが、その背中を見た瞬間、蓬莱寺は思わず駆けだした。走りながら無意識に得物を構え、辿り着くと同時に振り下ろす。過たず異形の急所を打った木刀を肩に乗せ、驚いたように自分を見上げる瞳を見下ろした。
「いいざまだな、おい」
「授業はどうした」
「やられてんじゃねーよ」
血の滲んだ緋勇の左肩を掴むと、彼が小さく呻いた。いつものように鋭く振り払われたが、いつもより痛くない。重傷なのかと考えて、腹に嵐が発生する。俺の知らない所で、俺以外の奴が、こいつに傷をつけた。力任せに緋勇の両肩を掴みなおし、背を向けようとした体を拘束する。
想像していたとおり、切り裂かれた皮膚からは大量の出血があった。鮮血が白い肌を伝い、シャツを汚しながら滴り落ちる。喉が焼けたように錯覚した。一言も発せられずに唇を引き結んだ蓬莱寺を見て、緋勇は少しだけ困った顔をしている。しかし手を離せと告げた声は、泣きたくなるほど冷静に聞こえた。
「見せろ」
「何を」
「真顔で言うな!傷だよ傷!」
「あ、ああ、そうか」
「どうした、てめぇで脱がねぇんなら俺が引き千切るぞ」
「いや、ええと」
「さんにーいち、はい時間切れ」
「ちょっと待て!」
珍しく大声を上げた緋勇の訴えは無視して、宣言したとおりに汚れたシャツを引き千切った。そうしてあらわになった肌は、見慣れた緋勇の物ではなかった。
視覚が得た情報を処理できずに、蓬莱寺が動きを止める。そういえば伝言を預かっていたのだと思い出す。なんだっけ、ああそうだ、あんみつだ。ええと、これ、夢かな。夢って願望の現われなんだってな。そうか俺はこんな事を望んでいたのか。どうしよう、それってどうなんだ。しかも、たぶんこれは殺されても仕方ないな。よし、折角だから揉んでおこう。
心の中で何かと戦う(負けてる)蓬莱寺の手を叩き落とし、緋勇が千切れたシャツで胸を隠した。柔らかそうな肌が、指に押されて僅かにたわむ。昨日まで、緋勇の胸にそんな物は存在しなかった。それは、こんな風に突如として発現する物ではない。ゆっくりと育ち、徐々に実ってゆく物だ。
導き出された解答に、蓬莱寺は素直な謝罪を落とした。
「ごめん間違えた」
「?」
「や、知り合いに似ててさ」
「そうか」
「てっきりひーちゃんかと思って」
「・・・」
「こんな時間に旧校舎で遊んでる奴、あいつしかいねーと思ってたから」
「いや、遊んでる訳ではないんだが」
「しかも素手であんなごついの殴るとか」
そんな女が存在するなんて信じられなかった、と言おうとして、蓬莱寺はごくりと唾を飲み込んだ。それは決して眼前の柔らかそうな肌に欲情したからでも、流れ出る血液に嫌悪を感じたからでもない。疑念が湧き上がって心臓を絡め取ったからだ。
清廉な眼差しが、真直ぐに蓬莱寺を貫いている。そんな瞳の人を、蓬莱寺は彼以外に知らない。衣服を引き千切ったので見える白い肌には、見憶えのある傷跡が走っている。この傷を目にした瞬間の気持ちを、蓬莱寺はまだ憶えていた。
「まさか、あの、ひーちゃん、じゃねぇよな?」
「俺はそんな名前じゃない」
「ですよねー」
「気がついたら定着してただけだ。主にお前の所為で」
「へえ、お前もひーちゃんって呼ばれてんのか」
「気持ちは分かるが、そろそろ認めろ」
「だって、お前、それ、なん、なに、なんで」
「三段活用か?」
「違う」
溢れていた血液は、もう乾き始めている。傷も塞がりつつあった。彼の能力はもう知っているのだが、いつ見ても不思議だ。跡すら残さず綺麗さっぱり消えてしまうのに、どうして彼はこんなにも傷だらけなのだろう。傷を負った直後でなければ、完全には回復できないのだろうか。つまり、彼はかつて回復する余裕もないような状況で戦ったのか。俺の知らない所で。
「ところでひーちゃん」
「視線があからさますぎるぞ京一」
「それ、どうした?」
「さあ」
「ええと、あの、あれ、下は?」
「下?」
緋勇が首を傾げたので、手っ取り早く触って確かめてみた。在るはずの物が無い。確認すると同時に、蓬莱寺は腹に鋭い拳を受けて宙を舞った。地に落ちるより早く、追撃が脇腹と背中に突き刺さる。どうせなら上も触っておけば良かった。後悔と衝撃に息を止め、受身も取れずに地面を転がる。
緋勇が乱れた息を整えながら、血に濡れたシャツの裾を握り締めた。立ったまま内膝をすり合わせ、痛みに耐えるように眉間にしわを寄せてから顔を上げる。
「そんな訳だ、俺はしばらく身を隠す」
「どんな訳だかさっぱり分かんねーよ」
「ここなら何か手掛かりがあるかと思ったんだが」
「なあひーちゃん、おっぱいも触っていいか?」
地に伏したまま問うと、延髄に踵が乗せられた。「ごめんなさい」と早口で告げれば、後頭部を爪先で軽く小突かれる。どうやら許してくれたらしい。優しいなこいつ。やっぱり男だから気持ちが分かるのかな。乳派なのかな。乳派って父母と似てるな。それはさておき、ちょっと勃ってきたのはどうしよう。生理現象ってやつだ、どうしようもない。
「ひーちゃん、俺はどうしたらいい?」
「取り敢えず他言するな」
「写真とか撮っても」
「そして忘れろ」
「無理。不可能。ぜってー夢に見る」
俯かせていた顔を上げて、蓬莱寺がきっぱりと言い放った。緋勇が物凄く嫌そうな顔で見下ろしてきたが、男には決して引けない時がある。この時がその時なのかは分からないが(たぶん違う)、とにかく蓬莱寺は強い眼差しで緋勇を見上げた。
先程ボタンを引き千切ったので、肌蹴たシャツは既に肌を隠してはいない。蓬莱寺の好む大きさには少々足りないが、形は魅力的だ。惜しむらくは緋勇であるという事実だ。この魅力的な肢体が緋勇である以上、怖くて触れない。いや、思いっ切り触ったのだが、あれは勢いというか、ただ純粋に確認したかっただけで、誓ってやましい心などなかった。今はもう、あの頃の純真な探究心など失ってしまったのだ。
「あの頃に戻りたい」
「どの頃だ」
「ひーちゃんにだってあるだろ」
「たぶんないと思うが、なんの話だ」
「アリの巣に水流し込んだり」
「ない」
「トンボの羽むしったり」
「ない」
「純粋な好奇心に満ち溢れてたあの頃」
「ない」
「そっか、可哀想な奴だな」
「その憐れみの目を今すぐやめろ」
蓬莱寺が思い出に浸っている間に、脱力したのか他の理由からなのか、緋勇は地面に座り込んでいた。後ろ手に上体を支えているのだが、足を大きく開いているのがとても気になる。以前ならば意識すらしなかっただろう些細な仕草が、もう駄目だと叫びたくなるほど気になる。
「ひーちゃん」
「なんだ」
「それ、いつ戻るんだ?」
「さあ」
「ってゆーか、戻るのか?」
「さあ」
「ずっとそのままだったら?」
「さあ、分からない」
「あんみつって好き?」
「別に」
「小蒔がさ、美味い店見つけたから行こうって」
「そうか」
「あと、レポートの提出期限もうすぐだぞ」
「・・・あ」
「って醍醐が」
「そ、そうか」
「美里も心配してた。風邪でも引いたんじゃないかって」
「そうか」
「ひーちゃんは風邪なんか引かねぇよな」
「引いた記憶はないな」
「ああやっぱり」
返る言葉が、ふと見せる表情が、本当に記憶にあるとおりの彼で、蓬莱寺は心が静かになってゆくのを感じた。影さえ落ちぬ地の底で、見知った友人に降りかかった超常現象を前にして、こうも穏やかな気持ちになるのはどうかと思ったが、深くは考えずに身を起こす。上着を脱ぎ、まだ恥ずかしげもなく露出している肢体に投げ落とした。きょとんと見上げてくる瞳は、間違いなく緋勇のものだ。ずっと見ていたのだから間違えるはずがない。
この人は緋勇だ。春に会って以来、ずっと見詰めて、焦がれて、望んでいた男だ。そう確信した瞬間、何故か急に下腹が疼いた。無防備に肌を露出して、分かりづらいが心細げな表情をして、たった今まで自分が着ていた上着に不本意そうな顔をしながら腕を通して、少し余った袖を気にしているこの人は、あの緋勇だ。
蓬莱寺はその場でしゃがみ込んで顔を覆った。唐突な動作に驚いた緋勇が、気遣わしげな声を投げて寄越す。どうした、と問われ、どうしたもこうしたも欲情したとは言えず、しかも相棒だと認識した瞬間に反応したなどとはとてもじゃないが言えず、泣きたいような笑いたいような気分で唇を噛み締めた。
緋勇が元に戻っても、もう二度と元には戻れない。それが悲しくて、それなのに心は狂ったように喜んでいて、蓬莱寺は自分が愚かだったのだと初めて知った訳ではないが絶望した。そして、同じだけ切望した。
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