翌朝には、何事もなかったかのように緋勇はいつもどおりだった。柔らかい胸もない。片手で拘束できそうなほどたおやかだった腕も、見憶えのある無骨な緋勇の腕になっている。やっぱり写真に撮っておくべきだったと溜息をついても、もう全ては元どおりに戻ってしまったのだ。差し込む朝日に目を細め、蓬莱寺は望みが絶たれたような気持ちで窓の向こうの空を見上げた。
 せめて先日の一件が夢ではなかったのだという証拠が欲しい。夢だったとしたら悲しすぎて立ち直れない。そんな事を考えながら、先に目覚めていたらしい緋勇を、床に仰向けになったまま見上げる。

 この記憶は夢だろうかと疑いながら、眠る前の自分を思い出す。
 結局どうしようもなかったので緋勇は借り物の上着を羽織って帰宅して、当然のように蓬莱寺も同じ部屋で夜を過ごした。早々に寝入ってしまった緋勇を前にして、その寝顔を覗き込んだり頭を抱えたり胸に触れようとしてもし緋勇が起きたら殺されると考えてやっぱりやめたり意を決して頬に触れたり床を転がったりしていたが、いつの間にか眠ってしまったようだ。しかも床の上で。

 起きたか、と声が降ったので、起きたよ、と声で返す。見下ろす瞳も見慣れた緋勇のものだ。何故か腹に乗せられた足も、いつもどおり重たい。痛いと訴えて腹の上の足を両手で掴むと、黒い瞳がすっと白刃のように細められた。
 どんな姿になっても彼が緋勇であるという事実は変わらないのだと、悲しみのようにも喜びのようにも思う。

 触れた肩は、怖くなるほど細かった。それなのに食らった拳はそれ以上に怖いほど鋭くて、重たくて、彼の強さは腕力に起因するものではないのだと知って悔しくなった。技は力よりも優れていると、蓬莱寺は考えている。力が叩き壊す鈍器なら、技は研ぎ澄まされた刃だ。それ自体に価値がある。それに、力は衰えてしまえば終わりだが、技は練り上げられて更に鋭くもなり、また人から人へと伝える事ができる。強いのは、力ではなく技だ。蓬莱寺は、漠然とだがそんな思想を持っていた。
 だから緋勇が技を振るうところを見るのが好きだったし、こっそり観察して自分でもやってみたりした。綺麗でもない手が眼前でひるがえるだけで心が騒いだ。呼吸すらも音楽のように理に適っていて、瞬きも惜しんで見詰めた。修羅の地に在らずとも凛呼たるその姿は、不思議な昂揚と戦慄を胸に落とした。
 ずっと見ていた。自分の鼓動を聞きながら、その音が含む意味など気にも留めず、蓬莱寺はただ無邪気に緋勇を見ていた。あの目が自分を映すだけで、心臓は壊れそうなほど音量を上げた。それは今も変わらない。

 左手で足首を掴み、右手でくるぶしをなぞり、脹脛を撫でる。裾をたくし上げて膝裏に指を滑らせると、まだ腹に乗ったままだった足が重量を増した。じりじりと体重をかけてくる緋勇は、冷ややかなほどの無表情だ。

「何がしたい」
「すね毛」
「・・・どうした」
「どうもしねぇよ」
「そうか?」

蓬莱寺を足蹴にしたまま首を傾げた緋勇は、しかし追求などしないだろう。今まさに踏んづけている相手が、その胸中で何を考えているのかなど、きっと彼は知ろうともしない。
 蓬莱寺は身を起こした。それと同時に緋勇の膝を抱え、胸に抱き込む。咄嗟に大きく体を揺らがせたものの、緋勇は片足だけで重心を持ち直した。それでこそ、と声には出さずに呟き、抱えた足にぶら下がるような体勢で体重をかける。堪え切れずに落ちてきた体を、腕と胸で受け止めた。
 顔の両脇に手を付かれ、緋勇が自重で相手を苦しませないように留意したのだと察して、ひそやかに笑った。その相手は自分だという確信に、滑稽なほど心が躍る。それを知られるのはなんだか悔しいので表情には出したくなかったのだが、体は正直に動いて彼を抱き締めた。白い首筋に頬を寄せると、一呼吸ごとに緋勇の匂いで満たされてゆくような気がする。

「おい」
「んー」
「離せ」
「もうちょっと」
「乗るぞ」
「乗るな!」

緋勇は重い。しかも肘をこちらに突きつけながら言うので、首の一点で彼の体重を支えるのは不可能だと判断して、蓬莱寺は抱き締めていた腕を名残惜しげに緩めた。あっけなく体温は離れてゆき、鼻腔に残った匂いもやがて薄れる。彼はこんな気持ちにはならないのだろうか。切ないのも、悔しいのも、一人だけだのか。
 彼の欲望は、どんな形をしているのだろう。汚らわしくて醜悪だといい。綺麗で真直ぐな彼にも、自分と同じような歪みがあればいい。そんな空想で、蓬莱寺はいつも自分を慰めた。同時に、強く心が否定する。緋勇は清廉潔白なのだと、どこまでも無心に信じようとする自分を認識し、蓬莱寺はいつもそんな自分を憐れむのだ。勝手に作り上げた虚像を、彼に押し付けているだけだ。

 柔らかそうな肢体を思い出す。あれはとても魅力的だった。やっぱり揉んでおくべきだったと後悔しつつ、制服に着替えようとシャツを脱ぎ捨てた緋勇を寝転がったまま見上げた。骨ばった背中に、横たわるようにして傷跡が走っている。動作に合わせて肩甲骨が浮き上がり、首筋にかかった黒髪がさらりと落ちた。
 どう見ても柔らかそうには見えない皮膚を見て、込み上げたものを自覚する。慌てて目を逸らし、先程まで緋勇が寝ていた布団に潜り込んだ。そこはもう冷たくなっていたが、かすかな匂いが残っていて蓬莱寺を更に追い詰めた。逃げ込んだつもりが、どうやら自ら死地に飛び込んでしまったらしい。俺はもう駄目だ。心で呟き、唇を噛み締める。

「俺、今日は心痛で欠席する」
「そうか」
「ってマリアせんせーに言っといて」
「分かった」

何が分かったというのか。どうせ何一つ分かってはいないのだ、この男は。たとえば心痛の理由も、布団から出られない理由も、その他の懊悩も何一つ。八つ当たりぎみに胸中で吐き捨て、布団で自分を隠し、膝を抱えて目を閉じる。そうすると、すぐ傍に座り込む気配がした。

「体調が悪いのか?」
「別に」
「何かあったのか?」
「あった。俺じゃなくてひーちゃんにだけど」
「俺に?」
「忘れてんのか?」
「?」
「女になったとかって、お前にとっちゃよくある事か?」
「ああ、そういえば」

思わず布団から顔を出してじっとりと睨むと、緋勇は得心して頷いた。本気で思い当たっていなかったらしい。なんでだ。そんなに些細な事だったのか。その頭を掴んで振り回したくなったが、ぐっと我慢して、とりあえず記憶が夢ではなかったのだという証言が得られた事に安堵する。












 不満を表す為だけに顔を出して、すぐに再び布団に潜ってしまった蓬莱寺を、緋勇は無表情に眺めていた。何やら苦悩しているようだ、とは察したが、具体的にはさっぱり分からない。時折、彼はこんな風に壁を作る。お前には理解できないと、無言で緋勇を締め出すのだ。人心に聡い者ならば察せられるのだろうと考え、緋勇は自分の貧しい心を悔やむ。彼の欲するものが自分には欠落しているのだと思い立ち、しかしそれを埋める手段も知らず、途方に暮れてしまう。
 そうして緋勇は、いつもどおりの冷淡な声だけを落として腰を上げた。熱はなさそうなので、雪蓮掌は必要ないだろう。せめて体調不良だったら、冷やすとか熱するとか色々とできる事もあったのだが。

「京一」
「おう」
「雪蓮掌してやろうか?」
「どんな事態だったら雪蓮掌してくれって言いたくなるんだ」
「火系の敵に囲まれたり」
「え、この部屋なんか出てくんの?」
「じゃあ巫炎は」
「やっぱ俺も行く」
「そうか、無理はするな」
「そんなん聞いてこの部屋で寝てる方が無理」

緋勇にはよく分からなかったが、蓬莱寺はそう言って布団から出て身を起こした。そうして暫くぼんやりと緋勇の顔を見ていたが、やがて何かを諦めたように溜息をついて立ち上がり、冷蔵庫まで歩いて行って中身を確認してまた溜息をつく。

「なあひーちゃん、腹減った」
「謎の黒い液体ならあるが」
「捨てろ。学校はラーメン食ってからにしねぇ?」
「たぶん店はまだ開いてないと思うが」
「じゃあコンビニで買ってこよーぜ」

ついでに夕食の買出しにも行こうと誘われて、「学校は」と返せば、いいじゃねぇかと笑われた。いつものように肩を叩かれ、いつものように心臓がじんと痛んだ。その手が自分を欲する時を想像して、いつかそんな日が来ればいいと考えて、緋勇は不器用に頬を歪める。そうすると、なに変な顔してんだよ、と言って彼がまた笑った。それが嬉しくて、赤毛に軽く拳を当てる。
 伸ばしたその腕を流れるような仕草で絡め取られ、あんまり俺を甘く見てっとやっちまうぜ、と耳元で囁かれて、くすぐったいのを我慢して「望むところだ」と返したら、蓬莱寺は動きを止めて、それどころか表情も失って緋勇をまじまじと見詰めた。

「なんだ?」
「いや、ええと、まあいいや」
「何が」
「ひーちゃんも俺とやりてぇのか」
「そうだな」
「うん、そんならいいや」
「そうか?」
「うん」

 同じ想いではないのだろう、とは感じた。
 だが彼も自分を求めているのなら、それはきっと望んでいたものだ。