葉佩が目覚めると、上に皆守が乗っていた。呼吸が苦しいのは、襟を掴まれているからだろう。圧迫された腹部にも痛みを感じている。苦痛を訴えようと口を開くが、締められた喉元にそれすらままならない。皆守が無表情のまま口を開いた。
「戻せ」
知っている言葉だったが、意味が分からない。その事を告げると、皆守は掴んだ襟を捻り上げた。眼光が鋭くなる。殺意すら含まれたその視線に、葉佩が寝起きの頭で事態を把握しようと眉間に皺を寄せた。彼が怒るような事をした憶えは、無いような、あるような。ええと、どれだろう。無意識に握り締めていた銃を枕元に置き、葉佩は身を起こそうと力を込めた。皆守の様子を注意深く窺いつつ、何はさて置き腹の上から退いてもらおうと慎重にその胸を押してみる。
皆守が、弾かれたように手を離した。
手に残る感触に、葉佩が目を見開いた。自分の手をじっと見詰め、次に皆守を見る。皆守は、歯を食い縛って葉佩を睨み付けていた。その目が涙ぐんでいる事に気付いた葉佩が謝罪を口にする前に、皆守は攻撃を開始した。空を切る音を発生させるほどの速度で放たれた蹴りを掻い潜り、葉佩がどうにか言葉を形にする。
「ごっごめ、ごめん!悪かった!ちょっと想定外の事態だったから・・・」
「ふざけるなこれぐらい想定しろ!それでも《宝探し屋》か!」
葉佩はその時、触れた体が柔らかかった事よりも、咄嗟に「お♪」とか言いそうになってしまった自分に周章していた。だがそれも仕方ない。葉佩は男で、今は朝だ。
揺さ振られた脳を心配しながらも、葉佩は狼狽している。それを認め、皆守は自分の認識が間違っていた事を悟った。てっきり葉佩の悪戯かと思っていたが、どうやら違うらしい。身に憶えの無い災難は全て葉佩の仕業だと、皆守は信じていた。
葉佩が、痛みではない何かに表情を歪めた。湧き上がった疑念を検証したいという欲求が、葉佩の胸中を渦巻いている。温かく柔らかい感触はまだ残っていた。それを確かめるように手の平を開閉させている葉佩に、皆守が嫌悪も露に舌打ちする。
「あ、あのさ、皆守」
「何だ」
「ええと、ちょっと見せてくれない?」
「何を」
「主に下半身を」
「埋めるぞ腐れ外道が」
「・・・ごめんなさい」
皆守の瞳には嫌悪と軽蔑が浮かんでいる。それを見て、葉佩が反省した。自分の探究心が誰かを傷付ける日が来るとは。目の前にある謎は魅力的だったが、皆守の蔑みは痛い。そんな目で見られる事には慣れている筈なのに、何故か彼に限っては耐え難く苦しくなる。
普段からゆったりとした衣服を好む皆守は、首を締め付けるような事はしない。大きく開けられた襟元は、束縛を嫌う彼の心を表していたのかも知れない。余り気味だった襟元は、今は肩口まで肌を露出している。引っ張ったらずり落ちそうだな、などと考えながら、葉佩はぼんやりとそれを眺めていた。目を伏せて心中の何かと戦っていた皆守が、諦めたように嘆息する。
「本当に知らないならいいんだ。忘れろ」
「え、いや、起き抜けに脳天に踵落とされて、忘れろと?」
「いつもの事だろ。それより起き抜けに死にたくなった俺を気遣え」
「それこそいつもの事じゃね?」
それに対しては何も言わず、皆守は踵を返した。呆然とした表情でそれを見送った葉佩が、手に残る感触を一頻り噛み締めてから身を起こす。
「態度も軟化すれば良かったのに・・・」
しかし、そんな皆守は葉佩の知る皆守ではない。彼でないのなら、硬かろうが柔らかかろうが意味は無い。
皆守には、どんな意味があるというのだろう。
予想どおり、教室には居なかった。屋上にも保健室にも姿は見えない。寮の部屋からも気配は無かった。葉佩がその他の可能性を脳内で並べていると、廊下の向こうから全力疾走してくる後輩と目が合った。可愛い後輩は、無表情のままスピードを落とす事も無く葉佩に衝突した。葉佩の顔面と夷澤の肘が、音を立ててぶつかる。殺しても死なないのが売りの《宝探し屋》が、顔を両手で押さえて床に突っ伏した。
「あんたの頭が面白おかしいのは知ってましたが、これほど面白いとは思わなかったっすよ」
「・・・」
「ほんっと何考えてんすか?欲求不満すか?神鳳先輩のエリアにエロいのいるんで紹介したげましょーか?まあ本体は甲虫っすけど。あんたにはそれで充分でしょう」
「・・・」
怠惰な彼は、隠し事すら面倒臭かったようだ。そして誰もが葉佩の仕業だと信じている。日頃の行い、という言葉が葉佩の脳裡を掠めて消えていった。言葉が去ると、後には何も残らなかった。言葉に因って構築される自己という存在の果かなさに、葉佩が鼻を押さえて涙する。同時に溢れた鼻血は気にしない。だって十秒で治るから。
「どうやったんすか?俺にもできます?いや別にやりたい訳じゃないっすよ。参考までに」
「一言、いいかな?」
「戻るんすか?戻りますよね?一生あのままとか、あんたはそんな跡を残すような事しませんよね」
「ええと、あのね」
「てゆーかあの人、あのままだと確実にやばいっすよ。普通にトイレ入ってましたよ。男子トイレっすよ。どうすりゃいいんすか?どうにかなるんすか?どうもしなくっていいとか言うなよ?あんたの所為だろ」
「俺じゃない!」
葉佩が、止め処なく溢れる言葉の洪水を止める事に成功した。夷澤が口を止める。声を発しようとして失敗し、そのままの状態で葉佩を見た。無言で、少し拉げた鼻っ柱を見詰める。その視線を受ける葉佩は、夷澤の肘に付着した自分の血液を見ていた。夷澤が、やがて力なく笑った。一瞬でも葉佩の言葉を信じそうになった自分自身を嘲ったのは、表記するまでも無い。
「いや、そんなあんた今更」
「何で呆れるんだよ!本当だってば!」
「だって、少しは考えてくださいよ。それは無理っすよ」
「正論みたいに言うな!何で諭されてんの俺!」
どうにかして冷静さを取り戻した(取り戻したのではなく、新たに構築したのかも知れない)夷澤に、自分の所為ではないという事を信じさせ(それでも半信半疑だった)、葉佩は後輩と共に廊下の隅でしゃがみ込んだ。額を突き合わせ、声を潜めて言葉を交わす。大声を出すには憚られる話題のような気がした。理由は分からない。
「朝、俺が生徒会室に行ったら、阿門さんとお茶してたんすよ」
「・・・優雅な朝だね」
「会長は授業とか無いっすからね」
「え、ちょっと待って、何で皆守が生徒会室にいんの?」
「あ、そういえば・・・でもあの人、たまにあそこで寝てますよ。そーいや何でだろ」
「そっかー、そんなとこにも寝床キープしてたのかぁ。どーりで見付かんねぇ訳だ」
その事について深く考える余裕は、今の葉佩には無かった。眉間に皺を寄せて続ける夷澤に、少しだけ同情する。信じていたものが崩れ去るのは、いつだって辛い。
「で、何かいつもと違うよーな気がするって言ったら、服脱ぎやがったんすよ・・・」
「脱いだ!?」
「信じらんねぇっすよね!」
「みみみみ見たの!?」
「見ましたよ!ちょっと勃ちましたよ!」
「ああ、夷澤、お前もう終わりだ」
「・・・そう、思いますか?」
「思うよ。もう昨日までのお前は何処にもいないよ。さよなら昨日までの可愛かった夷澤。俺はお前を忘れない。
そして、こんにちは俺と同類の夷澤!」
「ああああ!」
夷澤が頭を抱えて叫んだ。本気で泣きそうなのは、葉佩の言葉を否定する根拠を見出せなかった為だ。同類、と呟いたその表情は、葉佩が今までに見たどんな絶望より深く、暗かった。想定していた最悪よりも、現実の方が何倍も残酷だったのだろう。世界を認識する自分を疑うという事は、世界に恐怖する事だ。今日から夷澤は、地面を疑いながら歩かなくてはならない。
後輩の絶望を、これ以上ないほど愉快そうに見ていた葉佩が、優しく言った。
「今なら、やれるぜ」
「何をっすか?」
「何だって出来るよ!あいつ今すっげぇ弱いぞ。体重も軽くなってるから、蹴られてもそんなに痛くなかったし」
「弱い奴に勝っても嬉しくないっす」
夷澤の清廉な言葉に、葉佩が顔を歪めた。価値ある敗北などというものが存在すると、この少年はまだ信じている。敗北とは、奪われるか差し出すかのどちらかではないのか。敗北して尚晴れやかに笑う人間を、今でも葉佩は理解できなかった。所詮は飼い犬か、と吐き捨て、軽蔑を含んだ眼差しから目を逸らした。ついでに話も逸らそうと、会話の糸口を探す。
「てゆーか、見たんだ」
「・・・はい」
「俺もまだ見てねぇってのに」
「あ、そうなんすか」
「何ちょっと『勝った!』みたいな顔してんだよ!」
そこはかとなく満足気な後輩の頭に拳をぶつけ、葉佩が立ち上がった。無益な暴力を振るった事で、少しだけ落ち着いたような気がする(その行為は一般的に、八つ当たりと呼ばれる)。それに続けて、夷澤も打たれた部位を撫でながら立ち上がった。同時に、廊下の向こうから靴音を響かせて歩いてくる姿を目に留める。燃えるような色の髪が、風を切って優美になびいていた。妖艶なその顔に、表情は無い。夷澤の視線が向かう先に気付いた葉佩が「あ、双樹さん」と、無害にして無意味な言葉を発する。
双樹が、歩きながら手にしていた小瓶の蓋を弾いた。
「ねえ葉佩、あたしはどうしたらいいの?貴方を殺せばいいの?それともあいつを殺せばいいの?」
「え、あ、ええと、あの、落ち着くのがいい、と、思います・・・」
「そんなこと言わないで。あたしは冷静よ」
「そ、そうですか。(その方が怖いな・・・)」
「で?どうすればいいの?」
微笑みすら浮かべて葉佩を見詰める双樹は、どう見ても正気ではなかった。その横で、夷澤がどうやってこの場を立ち去ろうかと思案している。暫く考えても妙案は思い付かなかったので、何も言わずに去る事を選択した。
視線は逸らさずに、じり、と後退した夷澤に、双樹が瓶の中身をぶちまけた。夷澤が崩れ落ちる。双樹はその動作の全てを、葉佩を見詰めたまま行った。夷澤が足元に倒れても、射抜くような目で葉佩を見ている。もう一つ瓶を取り出し、指先でそれを弾いた。
「ねえ、呪いなの?それとも他の何かなの?」
「え、ええと、何の話ですか?」
「貴方に分かる?愛する人が、自分ではない誰かを見詰めている時の狂おしさが」
「あ、あの、ごめんなさい、分かりません」
葉佩が愛する闇は、誰を見詰める事も無い。もしかしたら、だから葉佩は狂ったのかも知れない。
落ちた後輩の後頭部をちらりと見遣り、意識が失われている事を確認する。彼を放置して逃げるか否かを一瞬だけ迷い、直後に結論を下した。葉佩は、自分が一番大事だった。
「ふふ、滑稽ね。あの方を包み込めるのは、あたしだけだって思ってたの」
「いや、まあ、挟めそうではあるけど。てゆーか確実に俺なら包める。むしろ埋まる」
「貴方を包むつもりは無いわ」
艶やかな仕草で吐き捨てた双樹が、苛立たしげに髪を掻き上げる。その瞬間を逃さず、葉佩が離脱を果たした。憐れな後輩の足につまづきながらも、何とか体勢を立て直して走り出す。同時に事態を把握しようとして失敗した。どうして殺されそうになっているのか、さっぱり分からない。
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