葉佩は走っていた。呼吸は荒くなり、心臓は痛いほど脈打っている。だがそれは苦痛ではなかった。死から逃れる為に走り続ける事こそが、即ち生きるという事だと葉佩は考えている。生きているのが苦痛だなどと、そんな事は思わない。ただ、もう少しだけ世界が優しくなったらいい。訳も分からず殺されそうになったり、そんな事がなくなればいい。世界にはもっと綺麗なものが存在すると、葉佩は信じていたかった。
 原因と思しき人物の居場所に、そのままの勢いで走り込む。確証は無いが、確信していた。開かれる事を拒絶するような頑迷な扉を、力任せに押し開ける。探し人の姿を認め、葉佩がその名を呼んだ。

「皆守ぃ!」
「お、どうした?」
「・・・そんな普通に返されても・・・」

 皆守は、生徒会長と共に気だるげなティータイムの真っ最中だった。朝っぱらから退廃的だなこいつら。なんかもう世界の黄昏じゃねぇか此処。葉佩が突如発生した奔流のような衝動と戯れている事を知ってか知らずか、皆守が焼き菓子を口に入れたまま阿門を見た。それを受け、阿門が軽く頷く。視線だけで会話を終えた二人を見て、葉佩に奇妙な不安感が湧き上がった。だがその正体を見極める前に、死の匂いに慣れた体が危険を察知する。
 阿門が、物憂げな表情で葉佩を見ていた。彼には葉佩を憎む理由がある。葉佩が絶望して深淵に落ちる事を望んでいる。だが葉佩の知る阿門は、いつだって物憂げだった。声すらも遣る瀬無いほどに深く響く。彼はいつも、何をそんなに憂いているのだろう。てゆーかもしかして、お邪魔でしたか?その全ての憂鬱はお前の所為だ、みたいな表情は何事ですか。

「何の用だ」
「え、と、皆守が・・・あの、皆守の、それ、気付いてる?」
「皆守が、どうした」
「・・・皆守ー、言っていい?」
「どうでもいい」
「皆守が女になってるんだけど」

本人の承諾を得て葉佩が放った一言は、しかし阿門の表情を変えるには至らなかった。阿門は無表情のまま葉佩を見ている。だからどうした、とでも言いそうなその口を、葉佩は遠くを見る目付きで見返した。暫く待っても阿門は微動だにしなかったので、アロマをくゆらせつつ成り行きを傍観していた皆守に向き直る。

「皆守ー」
「まあ、そいつはそーゆー奴だ」
「そうなんだぁ・・・」

どういう奴なのか、さっぱり分からない。追求を早々に断念し、葉佩は脱力した体をソファに投げ出した。朝食がまだだった事を思い出し、目の前に並ぶ茶菓子を無断で口に入れる。ちらりと盗み見た皆守は、やはり大き目のセーターを辛うじて肩に引っ掛けていた。肩を竦める動作でもしたら、確実に落ちる。危うい均衡を保つその襟元を、葉佩は思わず固唾を呑んで凝視してしまった。視線に気付いた皆守が、嫌悪すら浮かべて顔を背ける。葉佩が慌てて目を逸らした。阿門はまだ止まっている。

「あのさ、夷澤が言ってたんだけど、脱いだんだって?」
「ああ、見れば分かると思って」
「・・・俺が此処で脱いでって言ったら、脱ぐ?」
「脱がない」
「何で?」
「何となく、本能的に」
「人として危険だとでも言いたいのか」
「違うのか?」

 可憐で健気なあの教師は、どんな気持ちで自分の受け持つ生徒にそのような評価を下したのだろう。葉佩が、記憶の中の苦痛に耐える為に目を閉じた。こんな感情は要らない。一人で闇に包まれていれば、そんなもの見なくて済むのに。どうしてこんなに明るい場所に来てしまったのだろう。
 葉佩が目を閉じたまま自分を嘆いている事など、皆守は知る由も無い。鬱陶しそうな仕草で落ちそうになる襟を引き上げ、まだ止まっている阿門に視線を投げた。

「阿門、お代わり」
「・・・自分で淹れろ」

呟くように言ってから、阿門は皆守に視線を流した。数秒だけじっと見詰め、再び目を伏せる。眉間を押さえ、小さな声で何事か言った。皆守が片眉を上げて聞き返す。

「何だって?」
「いつからだ」
「あ?何が?」
「いつから、女だったんだ」
「気付いたのは、今朝」
「そうか・・・」

吐息と共にそう吐き出すと、阿門は葉佩に向き直った。真正面から威圧的な視線を受け、葉佩が最後の一つを口に入れるのを躊躇う。手に持った焼き菓子を、そっと皿に戻した。左手に持っていた飲みさしのカップも、なるべく音を立てないように置く。それは阿門の飲みさしだったのだが、指摘する者はいなかった。

「《転校生》よ・・・何のつもりだ」
「え、あ、ごめん、腹減ってたから、つい」
「空腹を理由に、お前は人を貶めるのか」
「悪かったよ、今度作ってくるから」

 擦れ違う会話を、皆守はただ聞き流している。引っ掛かったのは、小さな棘だった。「貶める」という言葉に、皆守は自分の境遇をこの時初めて認識した。そうか、やっぱりこれは辱めに等しい事態なのか。薄っすらそんな気はしていたのだが、突きつけられると急に腹が立ってくる。気付いてみれば、緩すぎる衣服にさえ苛立ちが募った。葉佩の視線が胸元を彷徨っているのも気に入らない。性別が変わっただけで態度まで変わるのか。葉佩にとって俺は、その程度の存在だったのか。

「阿門、もういい」
「いや、冷静になれ。よくはないだろう」
「お茶菓子ぐらいでそんな」
「お前は黙ってろ」

口を挟もうとした葉佩を黙らせ、皆守は立ち上がって阿門に歩み寄った。青い瞳が僅かに揺れている。戸惑いなのか、それ以外の何かだったのかは分からない。揺れる水色を、貫く強さで見返す。阿門が、ふと表情を変えた。眼差しが柔らかな光を放ち、次いでもう一度伏せられる。同時に唇が僅かに持ち上がる。それを見て、皆守もまた表情を和らげた。
 だから何でそれだけで会話が成立するんですか。俺はどうすればいいんですか。此処に居たらいけないんですか。お邪魔ですかそうですか。無言で立ち上がった葉佩に、阿門が再び顔を向けた。

「お前が何を望んでこんな事をしたのかは知らないが、俺は必ずお前を排除する」
「・・・だから俺じゃないってばー」
「覚悟しておけ」
「あれ?何で逆鱗に触れたみたいになってんの?」
「待て阿門、お前は手を出すな。俺がやる」
「そうか、お前がそう言うなら、任せよう」
「あれ?何か絆が深まったように見えるんだけど」

だが葉佩は、彼等の間に如何なる絆があったのかなど知らない。
 復活した夷澤と、未だ小瓶を手にした双樹が戻ってくる前に、葉佩はその部屋を出た。扉の前で、一瞬だけ中を覗き見しようかと考える。だが途方もなく嫌な予感がしたので、それはやめておいた。そんな現実を受け入れる自信は無い。どんな現実も、自分の上を行き過ぎるだけのものだと思っていたのに。
 重い足を引き摺って、葉佩がその場を離れようと歩き出す。角を曲がった所で、涼やかな声が聞こえた。

「おや?こんな所で何をしてるんですか?」
「うん・・・何してんだろね、俺は」
「先程、双樹さんが貴方を探してましたよ」
「・・・俺は死んだって言っといて」
「分かりました。ですが、僕は嘘が嫌いです」
「それがもう嘘だろ」
「なので、それを双樹さんに伝える為には、それが真実である必要性が生じます」

神鳳の回りくどい言葉を、数秒かけて理解する。理解すると同時に、葉佩は全速力で走り出した。未だ手に残る感触を握り締めるように拳を握り、自分が何処へ向かっているのかも分からずに走った。
 その背後では、軽い冗談を飛ばしただけのつもりだった神鳳が、いきなり走り出した葉佩に首を傾げていた。神鳳には《転校生》を排除する義務はあっても、葉佩の死を願う理由は存在しない。だが葉佩の奇行癖を知っている神鳳は、その疑問をすぐに投げ捨てた。いつものように生徒会室の扉を開ける為、ドアノブに手を掛ける。







 本当は何でもいいんだ、あいつなら。硬い踵でも、鋭い爪先でも。少し痛いけど(相当痛いけど)、それが彼のものならば。でも、それが柔らかくて温かければ、もっといい。しかしそれは、彼の意思で与えられるものでなければ意味が無い。意味なんて、初めから終わりまで無かった筈なのに。

 胸中で形作られる言葉を無視して、葉佩は走った。
 だがこの《學園》に、葉佩が逃げ込める場所など存在しない。
 この世界の何処にも、葉佩が逃げ込める場所など存在しない。