蓬莱寺が目覚めた時、時計の針は午前10時を指していた。そういえば夢現に目覚ましを叩いた記憶があるような、ないような。無様に転がってもなお律儀に秒針で時を刻むその姿を暫し眺め、蓬莱寺は溜息とともに身を起こした。どれだけ悔いようと嘆こうと、過ぎた時間は戻らない。時間が戻らない事を証明せよ、などという問いはそれ自体が理解できないが、その事象は理解しているつもりだ。
昨夜はさすがにはしゃぎすぎたな。そんな事を考えながら、ぺたぺたと素足を引きずって洗面所に辿り着く。夜遊びを控えるという選択肢は、そもそも初めから除外されている。
見慣れた自宅の洗面所で顔を洗おうとして、蓬莱寺はふとその手を止めた。
鏡に映る像は、左右が逆になっていると言う者がいる。だが蓬莱寺はその言葉を理解できなかった。自分が鏡の前で東を指差せば、鏡の中の自分も東を指差す。しかし立ち位置はそのままに背後の南を指差すと、鏡の像は北を指差す。むしろ反転しているのは前後ではないか。幼い頃、そんな事を考えていたのを思い出した。
目を閉じて、また開く。鏡の中から自分を睨む目を、負けじと睨み返す。実在する自分の体を見下ろす。違和感が身の内を駆け巡った。冷水で顔を洗う。もう一度、鏡を見る。
「女だな」
簡潔に結論を声に出してみた。胸に触れてみた。柔らかい。それを確かめ、蓬莱寺は無表情のまま自室に戻り、着替えを済ませ、家を出た。歩き慣れた道を歩き、通い慣れた校舎に到着し、この時刻は授業中である事に気付き、少しだけ時間を潰す必要があると判断した。そうして無事に教室に入り、見慣れた緋勇の顔を見た瞬間、蓬莱寺は思わず全速力で走り出した。
教室に入るや否や飛びついてきた蓬莱寺を冷静に躱しながら、緋勇が「遅かったな」とだけ言った。勢い余って机に激突した蓬莱寺が、その痛みを感じるのも忘れて緋勇を見上げる。三歩ほど離れた場所でそれを見守っていた醍醐が、まず異変を察して声を上げた。
「おい、京一?」
「うるせぇ!分かってるから言うな!」
「そ、そうか」
「あ!美里!これ治せるか?」
大声で呼ばれ、美里が顔を上げた。次の授業で使用する教科書をそろえる手を止めたまま、呆然とした表情で蓬莱寺を見詰める。記憶と現実の齟齬をどうにかして納得できる形にしようと、必死で思考を働かせる。その斜め後ろで、桜井がことんと首を傾げて言った。
「京一、だよね?」
「他の誰だと思ったんだよ」
「ええと、京一くん?」
「美里、これはあれだよな?呪詛とかそーゆうのだよな?」
「あ、え?そ、そう、かしら?」
「治せるよな?」
期待を含ませた瞳で見上げられ、美里が返答をためらった。確証のないその場しのぎの優しい言葉など、彼は欲していない。それを理解し、美里はその眼差しに応える権利を放棄した。頼れる親友に向かい、その意を表明する。
「小蒔、パス!」
「ええ!無理!醍醐クン!パス!」
「な、なんだと!」
親友同士のチームワークに感嘆する余裕もなく、醍醐は回された面倒事のバトンを受け取らざるを得なくなっていた。いち早く蓬莱寺の異常を察していた醍醐は、せめて級友の目から彼を守らんと身を挺して壁になっていたのだ。幸い、教室の隅で発覚した超常現象の情報は今のところ5人以外には流出していない。チラリと、先程から言葉を発していない緋勇を見る。更にその後ろでは、級友たちが何事かと視線を向けつつも、まあこいつらが固まってなんか変な会話してんのはいつもの事だしな、という無言の許容を示していた。それはさておき。
「龍麻、これは」
「おい、今すっげぇ華麗にたらい回ししてくれたよな?」
「ねえ京一、それって本物?触っていい?」
「やめろ!」
「あら、恥ずかしがる事ないのよ京一くん。女同士じゃない」
「助けてひーちゃん!」
始業の鐘が鳴る前に、5人は教室を出た。その対処が醍醐の発案である事も、念のため記しておく。
「起きたらなってた」
屋上で事の発端を聞き、それでも解明されない謎に一同は早くも諦観を受け入れた。
「まあ、害はないんでしょ?」
「そうよね、でもその服はちょっとどうにかした方がいいと思うの」
「うん、じゃあ放課後にでも買いに行こっか、服」
「小蒔と買い物に行くの久し振りね」
それが逃避なのか自然な流れなのかは判断しかねたが、美里と桜井が前向きな案を提示してくれた。つまり、諦めろと。蓬莱寺が縋るような目で醍醐を見上げた。その眼差しを直視できずに、醍醐がふいと目を逸らす。その視界に入った緋勇は、一応この場に同席しているが言葉は発していない。常に冷静に見えるがいまひとつ大事なところが抜けている彼に、それでも醍醐は信頼を寄せていた。
「龍麻、これが敵の攻撃という可能性はあると思うか?」
「不穏な氣は感じられないが」
「そうだな、可能性は低い、が」
「だが、完全に否定するにも情報が少なすぎる」
「確かに」
「あ!アン子に相談してみる?」
「ミサちゃんの方がいいんじゃないかしら?」
「それだけはやめてくれ!」
唐突に発せられた桜井の提案に、蓬莱寺が本気で叫んだ。既にその目は涙を湛えている。今更になって我が身の重大な変化を自覚し始めたらしく、軽く恐慌状態になって緋勇に助けを求めた。濡れた瞳に見上げられた緋勇は、しかし酷薄にも見える無表情でそれを見下ろしてから、先程からずっと胸に渦巻いていた疑問を口に出した。
「それで、具体的に何がどうなったんだ」
「だから、京一が女になったんだよ」
桜井がそれに答える。そうか、と緋勇が呟き、蓬莱寺に向きなおって視線を固定した。それでなくとも威圧的な緋勇の双眸に見据えられ、蓬莱寺が居心地悪そうに小さく身じろぐ。緋勇は射すくめるような目で暫し蓬莱寺を凝視し、やがて視線を醍醐に転じた。次に美里を見て、桜井を見て、少しの間だけ虚空を見詰め、再び蓬莱寺を見た。ゆっくりと、緋勇の目が見開かれてゆく。
「もしかして、気付いてなかったのか?」
遥か久遠の彼方を見るような目付きで、蓬莱寺がそっと問う。緋勇はそれに否定も肯定も返さなかった。ただ呆然と蓬莱寺を見詰めている。その表情が、言葉よりも雄弁な肯定だった。こいつにとって俺はなんなんだろう。そんな根源的な懐疑を胸中で転がしつつも深くは考えず、緋勇の再起動を辛抱強く待つ。
再起動を完了した緋勇が、やにわに声を張った。
「京一!何があったんだ!」
「会った時点で疑問に思えよ!」
「お前、そんな、何をどうしたらそんな事態に」
「そんなんこっちが聞きてぇ!」
「まさか、よくある事なのか?」
「初体験に決まってんだろ!何もかも初めてなんだよもっと優しくしろ!」
「そ、そうか、分かった任せろ」
「誰よりもお前には任せたくねぇ!」
どうやら緋勇は冷静だったのではなく、事態を把握していなかったようだ。激しく問答を繰り返す二人を、美里がどこか微笑ましそうに見ている。まあいっか、と呟いたのは桜井だった。醍醐は、額に手を当てて溜息をついた。
二人が自分たちだけ屋上に取り残されている事に気付いたのは、昼休みの終了を告げる鐘が鳴り響いた時だった。
ひととおりの恐慌状態を通過し、蓬莱寺が脱力してコンクリートの床に座り込んだ。まだ混乱している様子の緋勇をちらりと見遣り、次いで我が身を見下ろす。
余りぎみの袖を引っ張り、落ち着かない胸元を押さえてみる。女性の胸は、控えめに表現しても大好きだった。どうせならもっと大きければ楽しめたのに。いや、違うだろ俺。疲弊した精神が、逃避する先を探して浮遊している。
心臓に近い場所に手を当てて、自分の鼓動を聞いてみる。だが久しく接していなかった柔らかい感触も、今は蓬莱寺を慰める事はなかった。馴染んだ愛刀の感触の方が、よほど心を落ち着かせてくれる。
不意に浮かんだのは不安だった。計った訳ではないが、体が一回り小さくなっているのは確実だ。つまり、筋力が落ちている。この体で、果たして今までどおり戦えるのだろうか。湧き上がった不安を振り切るように立ち上がり、緋勇を呼ぶ。視線でそれに応えた緋勇に、袱紗に包まれたままの愛刀を突きつけた。
「ちょっと、やってみねぇか?」
否を許さぬと言外に含め、蓬莱寺は不敵に笑って見せる。無表情にそれを見返した緋勇は、言外の声など気にも留めず緩く首を横に振った。
「事の重大さを分かってないのか」
「いや、分かってなかったのお前だろ」
「・・・前を留めろ」
「あ?」
「襟を、締めろと、言ってるんだ」
視線を逸らしたまま、緋勇が何かを抑えたような口調で囁いた。いつもどおりに服を着たので、いつもどおり胸元は大きく開いている。緋勇にもそんな事を気にする神経があったのか。変な感動を覚え、思わず口にしてしまった。それを聞いた緋勇が、物凄い眼光を蓬莱寺に突き刺した。
「京一」
「お、おう、なんだよ」
「俺はお前を幸せにはできないかも知れん」
「待て、脳内で何があった」
「だが、努力はする!」
「何を」
「だから、お前もせめて味噌汁ぐらいは作れるようになれ!」
「おーい、どこ行く気だお前」
「そして慎みを持て!」
「それは大きなお世話だ」
何やら思いつめた表情で力説する緋勇を、地平線を見るように見詰める。暴走した緋勇は、既に蓬莱寺の手の届かない場所まで走って行ってしまったらしい。精神は遥か彼方の友人を木刀の先で小突き、妄想の最前線からの帰還を促す。痛みに瞬いた緋勇は、恨めしげに蓬莱寺を睨み、すぐに目を逸らした。
彼なりに事態を重く見て考えた結果がこれなら、お前は考えるな、と言いたい。言葉の代わりに溜息を吐き出し、蓬莱寺は空を仰いだ。極地から帰ってきた緋勇が、やはり視線を合わせずに呟くのが聞こえる。
「やるなら場所を変えるぞ」
「おお、今ならお色気の術とか使えそうだな」
「どんな技だ」
「食らってみるか?」
そう言うと、緋勇が冷めた目でひたりと見詰めてきた。ほんの数秒前まではうろうろと彷徨っていた視線が、真っ直ぐに研ぎ澄まされて蓬莱寺を貫く。体の奥が熱く奮えた。魂などというものが実在するのなら、緋勇の目はそれを見ているに違いない。余計なものも見えているようだが、それは考えない事にする。
はやる心を抑え、二人は禁じられた場所へと足を向けた。
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