地下深くでわだかまっていた魔物を一閃で蹴散らし、緋勇が闇の底で氣を昂ぶらせる。呼応するように発熱する心と体に、蓬莱寺が薄く笑みを浮かべた。憐れがましい鳴き声を上げた管狐が塵に返ったのを確認し、緋勇に切っ先を向ける。

「女だからって手加減すんじゃねぇぞ」
「ほう、本気でやっていいのか?」

 緋勇は既に、真正面から蓬莱寺を見据えていた。先程までは所在無げに胸元を彷徨っては逸らされていた視線が、刃の鋭さで皮膚に触れる。その視線に引かれ、爪先を移動させた。緋勇が腰を落す。
 現実に、そして夢に、何度も見た姿だ。覚めては夢想し、眠っては身悶えた彼の立ち姿。いつだって思っていた。彼を屈服させるには、どのように動くべきか。重心はどこに置くべきか。指先はどこを捉えるべきか。視線はどこに向かうべきか。爪先はどこを踏むべきか。踵は、膝は、肘は、肩は、いつだって蓬莱寺の頭は、そんな事でいっぱいだった。

 思い描いていたとおりの形で、緋勇が地を蹴った。その息づかいさえ夢に見たそのもので、蓬莱寺は歓喜の声を張り上げる。緋勇の足が次にどこを踏むのか、全身で察知する。瞬きの間すら惜しみ、黄金の氣を受け止めた。
 拳と木刀が衝突する。棟でそれを流し、緋勇の押す力を利用して懐に引き寄せる。これは、緋勇と出会ってから学んだ方法だ。柔らかく、水のようにと念じる。懐に招き入れ、完全な間合いで腕とその先の刀を振り下ろした。
 しかし限界まで沈んだと思った緋勇の体が、更に深く沈んだ。空を斬った得物を戻し、追撃から逃れようと後退する。だが、予想以上の速度で伸びた緋勇の拳が鼻先を掠めた。たったそれだけで、目頭がツンと熱くなる。

 地に接するほど低く構え、緋勇が空いた間合いを詰めるべく走った。足を取られては為す術がない。咄嗟に蓬莱寺も重心を落し、地面を削るような気持ちで複雑な軌道を踏む足元を薙ぐ。それを読んでいたのだろう緋勇が、大きく跳躍した。待っていたのはこの時だ。動きの制限される空中でなら、彼を捉えられる。薙いだ刀を返し、慣性を利用して腕を振り上げた。
 体の一部に成り果てた木刀が、緋勇の肩に激突する。その瞬間、遠心力ではない力に得物を引かれた。緋勇の左腕が、刃を持たぬ切っ先を絡め取ったのだ。肘で固定され、動きを封じられた。緋勇の靴が再び地に降り立ったと同時に腕ごと取られて、膝裏に爪先を入れられ、反射的に引いた上体を押される。結果、蓬莱寺は後方に倒れた。
 無防備に晒された腹に、緋勇が全体重を掛けて踵を落す、と思いきや、こつんと軽く乗せられた。なぶりやがるかこの野郎。かっと頬に熱が集まる。喉の奥で唸ると、ほんの僅かに掛けられていた重さが更に軽くなった。

「寸止めとかしてんじゃねぇよ」
「しなくていいのか、死ぬぞ?」
「・・・」

 まだ腹に乗っていた緋勇の靴を、手の平で押し返してどかせる。腹筋も衰えているようだ。常ならば感じない程度の重みで痛みを訴える自身が、たまらなく悔しい。いつか必ず届くと思っていた高みが、絶望的なまでに遠くなったような気がする。こんな柔らかい体では、彼の拳など受けられない。こんな体、緋勇はきっと触れる事も恐れるだろう。
 両手で顔を覆った蓬莱寺を、緋勇が不思議そうに見下ろした。一度こかされただけで蓬莱寺がここまで意気消沈するとは予想していなかったらしい。慌てて手を伸ばし、しかし触れる事は躊躇して、戸惑うように名を呼んだ。

「おい、京一」
「・・・」
「だ、大丈夫か」
「・・・」
「京一?」

大きく開いた襟元を見ないようにと不自然に視線を固定しながら、緋勇がそっと覗き込む。それがなんだか面白くなくて、蓬莱寺は開いていた襟を更に大きく広げた。眼前に現れた白い肌に、緋勇が物凄い速さで身を引いた。戦闘中は一瞬たりとも揺らがなかった視線が、風に翻弄される木の葉のように乱れる。その反応に気を良くして、蓬莱寺は上体を起こし、膝を立てて笑みを浮かべて見せた。

「どーしたひーちゃん」
「・・・隠せ」
「俺だったら遠慮なく見るのになー」
「お前と一緒にするな」

などと言いながら緋勇はじりじりと後退し、踵を小石に引っ掛けてよろめき、どうにか踏み止まって体勢を立てなおした。やはり視線は落ち着かない。常に倣岸なまでに涼やかな顔をしている彼が、こんなにも動揺するなんて。蓬莱寺が、新しいおもちゃを発見した子供のように目を輝かせた。
 ゆっくりと距離を詰め、壁際に追い詰められた緋勇に迫る。緋勇が手の平を掲げて見せた。犬にやる「待て」の動作だ。しかし人間である蓬莱寺は、それに従う理由などない。視線を落したまま、緋勇が今度は声で「待て」と言った。顔を上げれば目の前に白い柔肌があり、更に上には見慣れた蓬莱寺の顔がある。陽射しのように緋勇をあたためた男が、今は黒い微笑を浮かべてさも愉快そうににじり寄ってくる。
 壁に背を貼り付けた緋勇の前に立ち、記憶にあるよりも少しだけ高い位置にある肩に両手を置いた。逃げ道を塞ぎ、挑むように口角を上げる。緋勇が観念して視線を合わせた。黒い瞳を真っ直ぐに見詰め、言い放つ。

「童貞かお前」
「・・・」

雪蓮掌も斯くやという冷ややかな目で見下ろされた。地雷を踏んでしまったのだろうか。それとも違うのだろうか。判じかねたが追求はせず、硬い二の腕を強く掴む。片手では余るほどの太さに、胸が詰まるほどの嫉妬が溢れた。一切の抵抗を諦め、緋勇はじっと押し黙って蓬莱寺を見下ろしている。

「つーかお前がそんな可愛い反応するとは思わなかったぜ」
「どうでもいいから襟を留めろ」
「美里の裸にも顔色変えなかったくせに」
「状況が違うだろう」
「そーか?俺だからじゃねぇの?」

軽く放った冗談のつもりだった。いつものように苦い顔をしつつも冷静な声で、莫迦な事を言うな、とでも返ってくるとばかり。それなのに、何故か緋勇は、まるで重大な秘密が暴露されたかのように目を見開いて絶句した。

「え、おい、ひーちゃん?」

呼びかけた蓬莱寺から素早く目を逸らし、逃げるように身をひるがえす。おい待てこら!と叫びつつ、蓬莱寺がそれを追う。












 日の下に戻り、目が眩んだ。瞬く間に遠くなった緋勇の影に舌を打ち、先程ぶつけた背中の痛みに小さく呻く。こんな体では、彼と並ぶ事さえできない。それどころか、追いつく事さえできない。知らず俯いて奥歯を噛み締めていたら、頭上から黒い物が降ってきた。鼻を突いた汗と埃の匂いに、思わず顔をしかめる。そのままの表情で顔を上げると、眉間に皺を寄せた緋勇が見えた。

「そんなものを気安く見せるな」

と不機嫌そうに告げて、緋勇が再び踵を返す。頭から被せられた物体は、緋勇の制服の上着だった。今度こそ逃げようとするシャツの裾を掴まえて、落とされた上着を突っ返す。

「上着ならあるし」
「着てないも同然だろうが」
「着てるじゃねぇか」
「前を留めろ」
「うるせーよ、俺の勝手だろ」

さすがに不愉快になって、吐き捨てるように言った。緋勇が凶悪な眼光で睥睨してきたが、負けじと睨めかく。暫くそうして睨み合い、先に業を煮やした緋勇が無造作に蓬莱寺の襟を掴んだ。やる気かこの野郎、と更に眦をきつくすると、無骨な手が丁寧な仕草でボタンを留め始めた。今まさに振り上げようとしていた木刀が、行き場を失い地に落ちる。
 淡々と全てのボタンを留め、一仕事を終えたような表情で緋勇が息をついた。なんとなくその一部始終を見守ってしまった蓬莱寺が、諦めたように嘆息する。

「女になったからって扱い変わりすぎじゃね?」
「前から気になってたんだ」
「は?」
「お前は肌を見せすぎる」
「ん?」
「無防備なのも大概にしておけ」
「えーと、前から?」
「前から」
「って、どんだけ前から?」
「・・・」

少なくとも、今朝からではなさそうだ。

 変な事を気にする奴だ、と、蓬莱寺はその程度にしか考えなかった。
 距離を取ろうとする緋勇の裾を握り締めたまま、第一ボタンまできっちり留められた襟をくつろげる。緋勇が、すげなく返された上着に腕を通しながら何か言いたそうな顔でそれを見ていた。しかし口は閉じたまま、まだシャツを掴んでいる指に手を乗せる。それは頑なに結ばれた指をほどかせようとする行動だったのだが、そして蓬莱寺もそれを察したのだが、結局その指はほどかれず、緋勇はシャツを掴まれた状態で歩く事となった。しかも中のシャツを引かれているので、上着の前を留められない。

「・・・おい」
「なんだよ」
「掴むならせめて上着にしろ」
「やだ」
「・・・逃げないから」
「信じらんねぇ」
「信じろ」
「命令口調なのが気に食わねぇ」
「・・・信じてくれ」
「やだ」
「殴るぞ」
「殴り返すぞ」
「・・・京一」
「なんだよ」

何故か校舎ではなく校門に向かって歩いていた緋勇が、唐突にピタリと止まった。怪訝そうに見上げる蓬莱寺を真正面から見詰め、連絡事項を伝えるような声で呟く。

「お前は俺が守る」
「おう、じゃあ俺はお前を守ってやるよ」

 蓬莱寺が軽くそう返すと、安堵したように唇の端をかすかに緩め、何事もなかったように前に向きなおった。掴んだ裾は離さぬまま、蓬莱寺もそれに続く。腕にでも抱きついてやろうか、などと考えたが、さすがにそれはやめておいた。

 頬がやけに熱いのだが、特に意味などないのは分かっている。
 心臓がうるさいのも、喉が渇くのも、もっとゆっくり歩きたいと思うのも、無意識に節くれ立った拳を見詰めてしまうのも、その拳が飛んでくる軌道を想像してしまうのも、横顔から目が離せなくなるのも、油断すると髪に触りたくなってしまうのも、首筋に噛み付きたくなるのも、自分の拳をぶつける隙を探してしまうのも、取り立てて特別な事ではない。
 だってこれは、彼と出会って以来いつもの事なのだから。