屋上へと続くドアを開き、すぐに閉じた。屋上の支配者との異名を持つ皆守だが、今日の風は冷たすぎる。閉じたドアの前で、今から階段を降りて保健室まで歩く労力を想像してみた。暫し逡巡し、意を決して支配下にある(と一部の人間には思われている)領地へと足を踏み入れた。
風は冷たかったが、陽射しは心地好く肌を温める。コンクリートも、思ったよりは優しい感触で皆守を迎えた。求めたものは自分を拒絶していないという確信に、唇の端で笑みを浮かべる。次は毛布を持って来よう。眠気に霞んだ脳裡でそんな事を考えながら、お気に入りの場所に腰を下ろし、目蓋を下ろし、漠然と耳を澄ました。その耳に憶えのある気配が触れ、閉じた目蓋もそのままに舌を打つ。
「俺は眠いんだ」
「うん、そんな感じだね」
「お前の相手をする気分じゃない」
「俺の相手する気分な時ってある?」
「・・・難問だな」
言う間にも気配が近付いてきた。目蓋を閉じていても感じていた陽光が遮られ、柔らかい闇が視界と精神を包む。薄目を開けてみると、予想違わず葉佩が見下ろしていた。逆光で、表情は確認できない。目を刺す光に耐えかねて、再び目蓋を下ろす。葉佩が少しだけ躊躇って隣に腰を下ろすのを、音だけで察した。
「ねえ皆守」
「んー?」
「あのさ、ええと、たとえば、だよ」
「なんだよ」
「えーっと、あのね」
「・・・熟睡まであと五秒」
「あ、待って!寝ないで!」
「よーんさーんにー」
「早い早い!待ってってばぁ!」
葉佩が叫びながら皆守の肩を掴んで揺さ振る。葉佩の動きを封じると同時に、風の冷たさに少々うんざりしていた自分の欲求をも叶えられる体勢を思い付き、実行に移した。つまり、肩を掴んでいた腕を取って、その小さな体を引き寄せた。日向と火薬と汗と、よく知っている墓土の匂いが鼻腔に触れる。或いはそれは、皆守自身の匂いだったのかも知れない。皆守の体の奥深い場所が芳香を強く欲した。自分で引き寄せた幼い体を、力任せに突き飛ばしたくなる。さすがにそれは酷いと思ったので、衝動は気付かなかった事にして身を起こした。如何にも不本意といった仕草で目蓋を開き、そういえば今日は初めて顔を見た幼い《宝探し屋》に視線を合わせる。
葉佩は、困り果てた表情で耳を伏せていた。同時に、視界の端で尻尾がゆらりと揺れる。
「あ、あのね、皆守」
「・・・おやすみ」
「待ってぇ!カレーあげるから寝ないでぇ!」
「・・・早く覚めろ」
「夢じゃないよ!起きて!こっちが現実だから!」
「その証拠はどこにある」
「みーなーかーみー!」
泣きそうな声で名を呼ばれ、悪夢に飛び込むような気持ちで再び目を開けた。もう一度、葉佩の顔を見る。耳だ。正確には、猫の耳。今は心細げにぺたりと伏せられたその耳は、人間が持つべき物ではなかった。同じように不安げに床を叩く尻尾は、思わず掴んで引っ張りたくなるほど猫だ。
一通りの観察を終え、皆守は漸く思い出したようにポケットのアロマを取り出した。緩慢な動作で口に銜え、火を点ける。それをじっと黙って見詰めていた葉佩が、真っ直ぐに皆守を見上げて「どうしよう」と言った。
「・・・気にするな」
「無理!」
「おい、いま耳が動いたぞ」
「動くよ!耳だもん!」
「そ、そうか」
「ねえこれ何?呪い?皆守の呪い?」
「いや、仮にそんな呪い知っててもお前は絶対に呪わない」
「じゃあ誰なら呪うんだよ!阿門か?阿門だろ!この阿門ばか!」
「想像させるな!」
「どうせ阿門なら萌えるんだろ!この変態!」
「・・・あ、そんなに悪くないかも」
「駄目だ皆守!そっちは駄目だよ!帰ってきて!」
「なんかでも猫って感じじゃないな、あいつは」
言いながら、ぴんと立った耳に手を伸ばしてみる。葉佩が口を閉じ、動きを止めた。どうやらON/OFFのスイッチにもなるらしい。便利だ。指先で摘まんだ薄い皮膚が、痙攣するようにピクリと震える。うっかりその反応に熱中していると、葉佩が「違う!そうじゃなくって!」と叫んで皆守の指を振り払った。我に返って手を離すと、尻尾を内股に巻き込んだ葉佩が大きく後ずさった。
「違うんだからな!」
「違ったか」
「違う!ぜんっぜん違う!」
「俺もそんな気はしてたんだ」
「違うんだよぉ!俺はそんなんじゃない!」
「ああ、分かった」
「分かった?ほんっとぉーに分かった?」
「ああ、クミンアルデヒドは水に溶けないんだろ?」
「お前いま本当に世界と繋がってる?目の前の俺と会話してる?どっか別の次元に居ない?」
「猫耳と尻尾くっつけて何を言ってんだ」
「うわああん!見るな!俺を見るなぁ!」
頭を抱えて泣き出してしまった葉佩を、皆守はどうする事も出来ずにただ呆然と見下ろした。何やら苦悩しているようだが、解決策は提示してやれそうにない。自分が無力だった事を思い出し、忘れていた世界への倦怠感が喉元を上がる。目の前のこの子供があまりにも真っ直ぐに見詰めてくるので、まるで世界から必要とされる存在であったかのように錯覚してしまっていた。もしかしたら自分は何かを救えるのではないかと、そんな期待をしてしまったのだ。
自分を嘲り口角を上げた皆守に、葉佩が「笑うな!」と言ってまた涙を流した。どこまで行っても交わらない会話に、全てを投げ出したくなる。投げ出したくなったので、皆守は素直に全てを投げ出した。
「まあ気にするな。見慣れると可愛いぞ」
「・・・うわあ、お前を殺して俺も死にたくなった」
「それも悪くないな」
「いや、拒否しようよ。どっちかっつーと最悪だから」
「想定し得る最高だと思ったんだが」
「投げすぎだよ!もうちょっと背負おうぜ!」
「スプーンより重たいものは持たない主義なんだ」
と言いながら、立ち上がってうずくまる葉佩の襟首を掴んで持ち上げた。ドアの向こうから人の気配が近付いている事を察知したのだ。猫耳と尻尾を付けて泣いている子供と一緒に目撃されるのは、相手が誰であれ少々気まずいだろう。遅れて葉佩もその気配を察知したらしく、皆守の肩の上でピクリと耳を立てた。鼻先で、しなやかな尻尾がゆらりと揺れる。ちらちらと視界の端で踊るそれが鬱陶しくて、皆守は右手でその動きを制した。
「ぎゃあ!」
「今度はなんだ!」
「掴むな!」
「お、おお、すまん」
「ううう・・・皆守のばか」
背中に爪を立てる葉佩を背負ったまま、皆守は素早く柵を乗り越えた。葉佩が常日頃から壁を伝って移動しているのは、もう知っている。そして皆守の視力と反射神経を以ってすれば、落下の速度をコントロールする事も容易い。つまり、互いに単独ならばこの窮地を脱出できる。一瞬で皆守の意図を理解し、葉佩が身じろいだ。
「何はさておき、人目は避けろ」
「うん」
一つ頷き、葉佩が皆守の肩を蹴った。そのままスルスルと突起を利用して地上に降りるのを見届け、ほぼ同時に屋上のドアが開く音を聞く。人影が柵に近寄る前に、皆守は地上に向かって身を投げた。
着地の音が鳴りやむ前に、葉佩は走り出していた。授業中とはいえ、完全に無人だとは断言できない。正しい判断だ。葉佩の身体能力と判断力に、満足気に吐息を漏らす。そうして、それを身に付けざるを得なかった環境にまで思考が飛びそうになり、慌ててアロマを銜えた。
そういえば、昼寝をするつもりだったのだ。思い出したが、心も体も既に睡眠を欲してはいなかった。教室に戻るのも気が進まない。もう一つの寝床である保健室も、今は劉の鋭い視線を受け流すのが億劫だ。言い訳じみた言葉を胸中で並べながら、初めから決まっていた結論に不承不承ながらも落ち着いた。結局は葉佩を追うしかないのだと、皆守はそんな事実を容易く受け入れられるような人間ではない。
葉佩が寝床にしている大木の根元で、漫然と周囲を見渡す。頭上から名を呼ばれ、その声に反応する前に葉佩が音を立てて着地した。髪や服に付着した枯葉を払ってやりながら、皆守がもう一度その体を観察する。黒い頭髪と同じ色の耳が、触れた指先に反応してぶるっと震えた。ほぼ同時に、葉佩がぺたりと耳を伏せて身を引いた。
「耳は触んな」
「・・・おう」
気まずそうに視線を落とす葉佩から目を逸らすと、視界の端で何かが光った。引っ掛かった違和感を確かめるべく、陽光を反射してキラリと光る瞳に顔を近付ける。驚いた葉佩が上体ごと引いたので、顎を掴んでその動作を制した。葉佩が息を止めて硬直したが、構わず知的欲求を満たす為にその瞳を覗き込む。
「お前、瞳孔が縦長になってるぞ」
空いている方の手で日差しを遮って影を作ると、息づくようにその瞳孔が形を変えた。何度かそれを繰り返し、漸く気の済んだ皆守が葉佩を解放する。その時には、葉佩はもう全ての抵抗を諦めていた。皆守の指が離れた途端、数歩よろけて背後の木に背中をぶつける。そのままずるずると座り込んだ。
「まあ、夜目が利くのは便利なんじゃないか?」
「・・・暗視ゴーグルあるし」
「そうか」
何故か顔を覆って俯いている葉佩をどうやって慰めようかと数秒だけ思案し、何も思いつかなかったので顔を上げるのを待つ事にする。そのまま暫く無表情に見詰めていたら、葉佩が恐る恐るといった仕草で顔を上げた。だが、目が合った瞬間にまたしても顔を逸らす。何度かそんな動作を繰り返し、皆守が眠気を思い出した頃、漸く葉佩が意を決したように声を発した。
「ねえ皆守」
「・・・ん?」
「お前さ、目ぇ開けたまま寝るのやめない?」
「寝てない」
「猫、好き?」
「いや別に」
「俺は好き」
「へえ、どうでもいい情報だな。阿門に報告しておく」
「皆守が猫になったら、俺きっと死ぬほど可愛がる」
「死ぬほどはやめてくれ」
「いや、殺さないけど。なんつーの?」
「溺愛する」
「違う!言葉の、あや?で、あってる?」
「ああ、そっちか」
「溺愛とか、お前が言うとやらしいな」
「お前に飼われる気はない」
「阿門には飼われてるくせに」
「あ、そういえば」
「否定しねぇのかよ!」
と言って、葉佩が頭を抱えた。会話が迂回した挙句に正面衝突するのはいつもの事なので、それが原因ではないだろう。しかし葉佩の行動が理解できないのもいつもの事なので、皆守は特に気にせず腰を下ろした。前触れも無く隣に落ちてきた皆守に、葉佩がビクっと肩を揺らす。だが走って逃げる事はせずに、近くなった顔をそっと覗き込んだ。
地獄に近い墓土は、天空に近いコンクリートよりも柔らかく、暖かい。微睡みの入り口付近で、皆守は先ほどの問いにもう一つの答えを落としてみた。
「まあ、嫌いでもない」
「やっぱりな!どうせ阿門が大好きなんだろ!ああ分かってたよ!」
「そっちじゃない」
眠気を含んだ否定に、葉佩が耳を伏せて首を傾げる。幹に寄りかかって足を投げ出した皆守を、その表情のままじっと見詰めた。逡巡するように手が伸ばされたのを、目蓋の裏で感じる。その手が温かい事を、皆守はもう知っていた。欲しているなどと、認められはしないが。まだ躊躇っている手に焦れて、寝言のように付け加える。
「昼寝の邪魔さえしなければ」
呟くと、嬉しそうに少し高めの体温が抱きついてくる。目を閉じたまま髪を撫でてやると、指先が柔らかい耳に触れた。その直後、腹に鈍い衝撃が走った。弛緩していた体が硬直する。喉元を上がった熱い何かを飲み下し、腹の辺りに留まっていた猫耳つきの頭を殴り飛ばした。
「永眠するか本気で!」
「耳は触んなっつってんだろ!」
「やかましい!引き千切るぞ!」
「痛い痛い痛い引っ張るな!」
「泣くな!俺が加害者みたいだろーが!」
「あきらかに危害を加えてるのはお前だろ!」
「先手はお前だ!」
「やめろってば!あ!尻尾はマジで勘弁して!」
尻尾を掴んで引っ張ると、葉佩が本気で泣き出した。さすがに少々やりすぎたかと手を離し、伏せられた耳には触れぬよう留意して頭を撫でる。「最低」だの「外道」だのと小さな声でまだ言っているが、葉佩が立ち上がる気配はない。皆守のシャツから手を離す気配もない。泣く子と地頭には勝てぬとは、よくいったものだ。
諦観の眼差しで天を仰げば、情など微塵も感じられない青が広がっている。空に情を求めるなど、愚昧の極みだ。天空に在るのは神などではなく、永遠の国などでもなく、死者の面影などでもない。既に人が踏み込んだその空間は、無限の比喩にも用いられるが、理論上は有限だと考えられている。だが、使い古された空想のほかに皆守を慰めてくれるものなど存在しない。
いつの間にか、葉佩が寒風を避けるように皆守にくっ付いていた。
猫ならしょうがない。そう断じて、皆守は膝の上で目を閉じた葉佩を許容した。風が冷たいから。この子供は温かいから。それだけだ。閉じた目蓋の裏で繰り返す。
浅い夢の中で、皆守はふと思った。この子供に溺愛される猫は、きっと不幸だ。
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