花は散るからこそ美しいのだと、誰かが言っていた。喪失を想像して惜しむ心が愛するという事なのだと、その言葉は語る。

 転校生の歓迎会も兼ねて催された花見の真っ最中に、その邂逅は行われた。緋勇が大きく声を張る様を見たのは、これで二度目だ。一度目は暗く湿った闇の片隅だった。彼の手の平が発した氣は、淀んだ空間でやけに美しく映った。
 予兆はあったのだ。不吉な予言めいた言葉や、呪わしい刀について興味本位で捲し立てた少女は、確かに一つの事実に繋がっていた。ほぼ聞き流していたのだが、あとになって「そうかこの事だったのか」とぼんやり思った。
 明るい日差しの下でも、緋勇の氣はまばゆく美しかった。だが、やはり最も鮮烈に美しく見えるのは闇の中の光だろう。唸り声を発して飛び掛ってきた犬を木刀の先で殴りながら、そんな事を考えていた。

 記憶を追うのをやめて、蓬莱寺は目蓋を上げた。窓の外は心地好い陽射しに満ち溢れている。机に立て掛けてある袱紗には、先日の一件でどさくさに紛れて拾ってきた真剣が包まれていた。それに手を伸ばそうとして、寸前で思い止まる。教師の声が睡魔を誘い、再び目蓋が重くなるのを感じた。抗わず、視界を閉ざす。頬杖をついて目を閉じた蓬莱寺に、醍醐が消しゴムの切れ端を飛ばした。正確に眉間を狙って飛んできた消しゴムを手の平で弾き、唇の端を少しだけ上げてみせる。

 退屈だ。

 この体は闘う事を許されているのに、どうして精神はこんなにも束縛されているのだろう。指先が馴染んだ感触を欲して疼く。早く夜になれ。狂気が許されるあの空間に、一刻も早く身を投じたい。誰だって他人には言えない狂気を体内に押し込めて生きているのだ。それを解放する術を得た自分は、なんて幸運なのだろう。勘違いだと分かってはいるが、そんな空想は蓬莱寺の精神を心地好く刺激した。
 前を向いて、やはり頬杖をついている緋勇の背中をチラリと見遣る。その頭部を狙って、先ほど飛んできた消しゴムを放ってみた。存在意義とは異なる使用方法で大活躍の文具が、緩やかな弧を描いて黒髪に接触する。その瞬間、緋勇の肩がビクっと震えた。どうやら寝ていたらしい。髪を掻き上げ、床に落ちた消しゴムを見て、肩越しに蓬莱寺を睨んだ。それに笑い返し、息をひそめて授業の終わりを待つ。彼も同じ気持ちでいるといいのに。終業の鐘が鳴る3秒前に、蓬莱寺はそんな事を考えた。












 待ちに待った放課後が訪れた。まずは腹ごしらえだな、という醍醐の提案に頷き、いつもの5人で道を踏む。ついでに骨董品店にまで足を伸ばすと、新宿に戻った頃には宵闇が世界を包んでいた。女子の帰路を案ずる醍醐が遠まわしに解散を主張したが、一考すらされずに却下された。真っ先に闇へと飛び込んだ蓬莱寺が、嬉しそうに得物を揺らす。

「醍醐、倒数で競争しよーぜ」
「常々疑問だったんだが、お前はここに何をしに来てるんだ」
「遊びに」
「そうだったな。お前はそういう奴だったな」

などと言っているうちに、周囲を異形に取り囲まれた。蓬莱寺と醍醐の二人が同時に氣を滾らせる。魔物すら命として認識している美里が、胸の内で逡巡を飲み下す。桜井が、命を貫く覚悟を終えて矢をつがえる。緋勇の一閃が合図だった。獲物を求めて、戦士の宿星を与えられた魔人達が地を蹴った。

 暫し狂宴に耽り、再び地上に戻ったのは夜半近くなってからだった。美里と桜井を自宅に送り届け、男三人がなんとなく手持ち無沙汰の顔を見合わせる。

「なー、もっかい俺らだけで潜ろーぜー」
「夜遊びもいい加減にしておけ」
「なんだよ、若ぇのに枯れてんなー大将」
「お前が元気すぎるんだ」
「へへへッ照れるぜ」
「何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しといってな」
「緋勇は?どーする?」

醍醐の言葉をあっさり無視して蓬莱寺が振り返った。その顔には太字で「一人でも行く」と書いてある。過たずそれを読み取った緋勇は、しかし首を横に振った。蓬莱寺が少しだけ眉を寄せて唇を曲げ、すぐにもとに戻した。そーかよじゃあな、と言って踵を返そうとしたその背中に、緋勇より先に醍醐が手を伸ばす。

「そう焦って平らげる事もないだろう。旧校舎は逃げないぞ」
「分かんねぇだろそんな事!」
「明日また行けばいいだろう」
「逃げるかもしんねぇだろー!」
「そうしたら追いかければいい」
「すっげー足速かったらどーすんだよ!」

こいつは責任を持って自宅まで送り届ける。そう言って、何やら喚きながら引きずられてゆく蓬莱寺と、器用に歩きながら間接を極める醍醐を見送り、緋勇もやっと帰路に足を向けた。遠ざかる声が街の喧騒に紛れ、やがて同化する。見えなくなっても消えはしないのだと、そんな当たり前の事を緋勇は最近になって漸く知った。
 去って行った男とは、きっと明日になる前に再会する。緋勇にはそんな確信があった。蓬莱寺の顔に書いてあった言葉を、苦々しく思い出す。放っておけば、魅入られて堕ちるか引き裂かれて終わるかのどちらかだ。そのどちらが実現しても、緋勇を苦しめるだろう事は明らかだった。












 蓬莱寺は闇の中で目を開いた。耳を澄まし、家族が完全に寝静まっている事を確認する。枕もとに置いてあった真剣を握り締め、月のない夜を走った。慣れた仕草で校門を飛び越え、その場所に向かう。得物を握る手が汗ばんでいる事に気付き、我が身の滑稽さにふと笑みが浮かぶ。こんなにも熱心に学校に行きたいと思う日が来るなどと、数ヶ月前には想像もしなかった。
 眼前で幻が誘っている。こちらを振り向きもせず前だけを見詰め、ただ圧倒的な氣を滾らせる男の背中だ。綺麗な弧を描く爪先の軌跡。ひざまずくように身を低くしたと思えば、弾けるように高く跳んで雄叫びを上げる。腕がしなやかに振れ、ただ純粋な破壊力を撒き散らす。あの日以来、寝ても覚めてもそんな幻影が見えた。
 横に立つのではなく、あの瞳に真正面から見詰められたい。そんな映像を夢想する度に、蓬莱寺は背筋に鳥肌が立つのを感じた。冷たい快楽が背骨を伝って、脳を掻き混ぜられているような気持ちになった。そんな快楽を知らずに生きていたのかと思うと、今までの人生が悔やまれてならない。彼に出会うまで、自分は眠りながら生きていたも同然だ。
 肺の内側で震える破壊への期待が、吐息となって唇から溢れた。

 闇に降り立ち、氣を練り上げる。おぞましい異形が奇声を発して襲い掛かる。それらを殺傷する度に、自分の中で何かが大きくなるのを感じた。
 死角から衝撃が飛んできた。躱しきれなかった斬撃が肩を裂く。飛び散った自身の血液にすら興奮する。先程から頬が引き攣っているのが自分でも分かった。愉悦の笑みだと、心のどこかで暗く思う。清らかな白刃が、氣に反応して切っ先を鋭くした。手の中の無機物が、まるで自分自身であるかのように錯覚する。
 己は刃だ。くびきを斬り裂き、解放をもたらす。手の中の刃が、それを肯定するように震えた。喉が勝手に雄叫びを上げる。仕留め損なった剣鬼が、狂刃を振り翳してその声に呼応した。汚らわしい己の分身を叩き斬り、その感触に身震いする。不意に、背後に衝撃を感じた。振り向き様の一閃で、憐れな異形が塵に返る。

 次なる獲物を求めて踏み出した足が、不快な水溜りを踏んだ。粘度の高さが靴底を通して伝わり、その水の正体が泥と混じった自身の血液である事を察する。ここは闇の底なのだから、暗いのは当然だと思っていた。しかし、先程よりも光量が少なくなっているような気がする。気付き、左肩に手をやった。濡れている。急に体が冷えた。左側だけが酷く熱い。
 唐突に膝が抜けた。血溜まりに突っ伏し、蓬莱寺は漸く自分が傷付いている事を認識した。身を起こそうと立てた肘が、ぬめって再び地に落ちる。同時に胸と顎を強く打ちつけ、無様な声が喉から溢れた。

 視界が更に暗くなる。こんな闇は初めてだ。否、遠い昔に、どこかで体験した記憶がある。あれはどこだったか。追憶を、耳障りな音が遮った。まだ残っていたのか。苦い味のする口中で吐き捨て、こんな状態になっても右手にあった刀を握りなおす。闇色の霧に覆われた視界で、剣鬼が頬を引き攣らせて笑っていた。
 叫んだのは無意識だった。重たい体をどうにか持ち上げ、降ってきた刃を止めようと腕を振る。その腕も斬りつけられ、黒っぽい液体が眼前に散った。

    熱い

    寒い

    痛い

    怖い

視界が滲んでいるのは涙の所為だと気付き、蓬莱寺はここに至ってやっと自分が危機に瀕していると悟った。全身を汚らわしい液体で濡らし、痛みと恐怖に泣き叫びながら、死にたくないと、ただそれだけを思った。
 闇雲に振り回した刀が、手の平から滑り落ちて血と泥に沈む。闘う術を逸した手が、取りこぼした狂気と昂揚を探して地をすべる。爪が硬い何かに引っ掛かって破れた。頭上できらめいているのは、自分の命を奪うものだ。声はもう出なかった。許しを乞うように、蓬莱寺は呆然とそれを見上げた。
























 光がはじけた。黄金色の氣が、闇の底で轟音を発する。罵声のような声とともに、人ではない何かが顔面にぶつかった。それが事切れた異形だと理解した時には、腕の中でさらさらと崩れて形を失っていた。口を閉じるのも忘れて顔を上げれば、幻と同じ姿の男が一人、闇に佇んでいる。

「・・・緋勇」

かすれた声で名を呼んだが、返事はなかった。チラリと蓬莱寺を一瞥し、その横に落ちていた刀を拾い上げる。一振りでその汚れを吹き飛ばし、辺りを見回し、もう一度こちらを見た。

「鞘は」
「は?」
「鞘はどうした」
「さや?ああ、鞘。えーと、どっかその辺に落ちてねぇか?」

緩慢にしか働かない頭をどうにか回し、言葉の意味を飲み込む。その様子を見て、緋勇が眉を寄せた。だが何も言わず、くるりと踵を返す。置いて行かれる、と慌てて立ち上がろうとして、またしても血泥に落ちた。先程は感じなかった屈辱を感じ、苦い唇を噛む。出血はもう少なくなっていたが、あれだけ景気よく血を流したのだから貧血にもなろう。気を抜くと飛びそうになる意識を掻き集め、鞘を捜して歩いている緋勇を睨み付ける。

「なあ緋勇」
「鞘を捨てるというのは、剣士としてどうなんだ」
「うっせーよ」
「抜いた刀を鞘に納めず終わる、というような意味じゃなかったのか」
「・・・」

視線も合わせずに淡々と吐き出される言葉が、酷く冷たく感じられる。蓬莱寺はその時、命を救われた感謝よりも、格好悪いところを見られたという気まずさだけが胸中を渦巻いていた。得物を取り落として恐怖に泣き叫んだところを、この男は恐らく見ていただろう。慙愧ばかりが喉元を圧迫し、うまく声が出せない。我知らず俯いていたら、緋勇の靴が目に入った。それでも顔が上げられず、蓬莱寺は逃げ出したいような気分で彼の侮蔑と嘲笑が落ちてくるのを待つ。だが予想に反して、落とされたのは事務的とも思えるほど無表情な声だった。

「傷を見せろ」

言いながら、緋勇が地面に膝を付いた。蓬莱寺が座り込んでいたのは汚泥の上だ。普段なら触れるのも躊躇するほど汚れた地面に、緋勇はいとも簡単に膝を付いた。綺麗な氣をまとった清廉な人が、自分の為に泥に膝を付いた。認識したその事実にたまらなくなって、蓬莱寺は顔を覆って込み上げたものを喉の奥で押し殺した。
 戸惑ったように手がそっと差し出されて、ためらうように引き戻されるのが、指の隙間から見えた。慌ててその手に縋り付き、お前がためらう必要なんてどこにもないんだと、声ではなく伝えた。無様な泣き顔を見られるより、彼の差し出した手が無為に終わる方が耐えがたかった。驚いた緋勇が一瞬だけ身を固くして、そうしてから暫く逡巡した後に、恐る恐るといった風情で傷付いた肩に触れた。冷水のような氣が、心地好く体に染み込む。飲み下したと思っていた涙が、堰を切ったように零れ落ちた。












 緋勇の肩を借りて地上に戻り、大きく息をついた。移動する際に再び開いた傷が、じくじくと痛みを訴える。貧血ぎみの脳は、油断するとすぐに意識を眠りへと導こうとする。もう地面でも道路でもいいから横になりたい。そんな誘惑を、眉間に力を込めて追い払う。コンクリートの壁に寄りかかり、まだ立ち去ろうとしない緋勇に顔を向けた。

「ええと、緋勇、あの、手間ぁかけさせちまったな」
「まったくだ」
「・・・ありがとな」

緋勇は、目を逸らしたようにも、頷いたようにも見える仕草で俯いた。
 決して浅い傷ではないが、蓬莱寺の経験則からいって病院に行くほどの怪我でもない。化膿さえさせなければ、跡は残るだろうが放っておいても完治するだろう。貧血も、寝て起きて飯を食えば治る。むしろ傷よりも、緋勇に泣き顔を見られた事の方が蓬莱寺にとっては重大事件だった。

「あの、まあ、できたら忘れてくれるとありがたい、です」
「無茶を言うな」
「やっぱ無茶か」

せめて女子には言わないで欲しい、と思ったが、これ以上の言及は心の傷を深くする。緋勇ならば言い触らすような真似はしないだろうが、当分は気まずい気分を味わい続けるだろう。それも己の不覚が原因だ。恨み言は吐けない。むしろ悩ましい退屈がなくなったのだから、それはそれで喜ばしい。無理矢理に前向きな思考をひねり出して「修行が足んねぇな」とわざと明るく笑ってみても、緋勇はじっと押し黙ったまま微動だにしない。急に居心地が悪くなり、無表情のまま少し離れた場所に立っている緋勇に視線を流した。

「助かった、ありがとな」
「・・・」
「俺はもう大丈夫だから」
「・・・」
「ええと・・・」
「・・・」
「なあ、帰ろーぜ」

壁から背中を離しても、緋勇はまだ動かない。重たい体を苦労して通常どおりの足取りで前に出して、緋勇に歩み寄る。緋勇はそれでも動かなかった。射抜くような目で、じっと蓬莱寺を見詰めている。
 ふと気付いた。真正面から彼に見詰められたら、どれほど昂揚するだろうと想像していた事を思い出す。この状況は、まさに夢想しては溜息を吐いていた映像そのものではないか。しかし今、脳内で描いていた時のような昂揚は微塵も湧いてこなかった。現実なんてこんなもんさ、と胸中で呟き、まだ突っ立っている緋勇に笑って見せる。
 緋勇が、漸く口を開いた。

「死んだかと思った」
「ああ、俺も一瞬そう思った」

軽く言いつつ、ポケットに手を突っ込んで校門に向かって歩き出した。馴染んだ重さがないと、どうにも手の置き所に困る。今は鞘に納められて緋勇の手の中にあるそれに、無意識に視線を走らせた。さすがにもう懲りたので再び手にしたいなどとは思わなかったが、なんとも表現しがたく手が寂しいのだ。今は自室に放置されている、長年にわたって愛用した木刀を思い浮かべる。俺の相棒はお前だけだぜ。心で無機物に語りかけ、まだ動かない緋勇をもう一度だけ呼んでみた。ついでに顔も覗きこむ。

「緋勇?」

鼻先が触れるほど接近した蓬莱寺を、黒い瞳が静かに見返す。無音だったが、蓬莱寺は確かにその声を聞いた。同時に、心臓が締め付けられた。言葉などでは足りない謝罪が胸中で溢れる。

 緋勇は恐怖している。その体に刻まれた悔恨が、蓬莱寺の行動で呼び覚まされたのだ。或いは、その嘆きは常に緋勇の耳元で響かれているのかも知れない。いつも何かに堪えるようにして押し黙っているのは、その声に引かれる精神を繋ぎ止める為に戦っているからなのではないか。
 傷に触れた手が、僅かに震えていた。あの時、緋勇がどんな表情でいたのかを思い出そうとして、それが不可能だったと気付いて悔やんだ。顔を上げて、あの時、あの場所で言わなければいけなかったのに。

 かすかに震える手に触れようとして、血に濡れた我が身を意識する。またしても涙が出そうになって、きつく唇を噛み締めた。自分の慙愧など、傷の痛みなど、彼の心を傷つけた事に比べれば遥かに軽い。

「ごめん」

やっとの思いでそれだけを吐き出し、汚らしい染みが彼に移るのも忘れてその肩に腕を回した。縋るように背中に爪を立て、もう一度「ごめん」と声にしたが、ほとんど嗚咽のようになっていた。それでも伝えなければ、と狂信のように思い、喉に引っ掛かってうまく出てこない声を必死に絞り出した。同時に涙が彼の上着に染み込むのも、もう気にならなかった。

 花は散るからこそ美しいのだと、誰かが言っていた。喪失を想像して惜しむ心が愛するという事なのだと、その言葉は語る。
 それは違う、と、蓬莱寺は叫ぶように思う。花は咲くから花なのだと、切望と同じ心でひたすらに信じる。
 彼の心を満たすものは喪失の痛みなどではない。散り逝くものへの哀悼などではない。ではそれは何かと問われても、明確な言葉は浮かばない。それでも蓬莱寺は否定を叫んだ。

 彼が愛する花は、気高く貴く、強くなければならない。
 そうでなければ、どうして己はここに生きているというのだ。



















緋勇視点