花見の宴に乱入した男を沈黙させて、厄介事から逃走する為に踵を返した。その僅かな間隙を縫って、蓬莱寺が魅入られたように白刃に手を伸ばした。桜井に大声で名を呼ばれ、はっと我に返って、それでも手の中の刀は手放さぬまま走り出す。
どうしてその時に気付けなかったのかと、緋勇は後に苦く思い返した。
事態を察したのは数日後の夕刻だった。現場から拾ってきた真剣を片手に、蓬莱寺が満面の笑みを浮かべて旧校舎へ行こうと持ち掛けたのだ。それ自体は特に珍しい事ではない。
幼い破壊衝動を身の内に飼う蓬莱寺は、暗く淀んだ闇に惹かれている。力に目覚める以前から持っていた飢餓感を臆面もなくさらけ出せる場所を得たのだから、それも仕方のない事だ。有した能力を最大にまで振るう許しを、ずっと欲していたのだろう。
それは、彼の年齢を鑑みれば有り触れた衝動だった。大人になる寸前の子供が、ポケットにナイフを忍ばせるのと同じだ。自身とそれを包む世界の価値を、ただ無邪気に試してみたくなったのだろう。世界は己を許容するのか。己は世界を許容するのか。痛々しいほど真摯な眼差しで、蓬莱寺はずっと問い続けていた。
だが地の底に降り立った蓬莱寺の所作は、そんな青いもどかしさだけで説明できるものではなかった。汚れた液体を浴びて、蓬莱寺は恍惚とした笑みを浮かべている。その手に光る刃が、闇の底で三日月のように笑う。
面倒な事になった、と、緋勇は胸中で溜息を吐いた。蓬莱寺は魅入られている。血を欲する妖刀と、彼の飢渇が重なったのだろう。取り込まれるまでには至っていないが、理性が脆くなっているのは容易に知れた。それは、彼自身の欲望でもある。
己の強さを示したい。己がどれほど強いのかを試したい。眼前の敵を屠れば己の強さは証明できる。まだ足りない。この渇きを癒すには、もっと激しい戦いが必要だ。声ではなくそう告げる背中から、緋勇は思わず目を逸らした。
満たしてやりたいと願う心を、しかし緋勇は伝える術を持っていない。
そんな懊悩など知る由もない蓬莱寺は、今日もご機嫌な足取りで軽やかに旧校舎へと向かっていた。それに続く緋勇の足取りは重い。ここ数日の蓬莱寺の様子を思い浮かべ、更に気までもが重くなった。村正に侵されつつある事は明らかなのだが、まさか力ずくで取り上げる訳にもいかない。醍醐か美里に説得を頼むか、などと考えながら、抑圧された彼の欲求を思ってまた気持ちが沈んだ。赤毛を恨めしく睨みながら、やけに明るい呪いの歌を聞く。
「さーて今日も元気に殺戮殺伐殺傷事件♪」
「・・・楽しそうだな」
「まあな!」
「その刀、使いやすいか」
「おう!ちょっと重たいんだけどな」
「とっとと売り払うつもりだったんだが」
「ええ!なんでだよ!」
「・・・いや、ええと、呪われてるから」
緋勇の胸に、本当に彼は呪われているのだろうか、という疑問が湧き上がった。この天真爛漫な男は、妖刀に同調するような暗い精神をどのように理解しているのだろう。あまり深く考えてはいないのだろうか。
戦場に到達する前に、蓬莱寺が慣れた仕草で刃を抜いた。眼前に現れた酷薄な輝きに目を細める。その気持ちは緋勇にも理解できた。清らかな水にも似た刀身は、それに反してぞっとするほど妖しく艶やかだ。媚態すら感じる。その刃を、蓬莱寺がふと傾けた。左手の人差し指でそれに触れ、するりと引く。一筋の赤い糸が、指先から滴り落ちた。緋勇が素早くその手を取り、強く拘束した。腕を掴まれた蓬莱寺が、不思議そうに緋勇に視線を流す。
「だいじょーぶだって」
「その刀は危険だ」
「徳川の呪い?あんなもん迷信だろ」
「正確には徳川を呪ってるんだが、それ以前の問題がある」
「そんなに心配すんなよ」
そう言って、蓬莱寺が傷付いた指で緋勇の唇に触れた。柔らかい皮膚をくすぐるように錆色の紅を引き、頬をなぞる。反応できずに固まっている緋勇の肌に色を移し、名残惜しげに離れていった。
突然の奇行に声を失った緋勇が、憶えのある味に眉をしかめた。不快を隠しもせずに唇を拭おうとして、手甲を装備したままだったと気付いて思い止まった。さりとて飲み下すのもためらわれて、どうする事もできずにただ唇を引き結ぶ。それを見た蓬莱寺が、花を見るような目付きで微笑んだ。
「緋勇お前、血ぃ似合うなー」
明るい日が差す教室で言うような口調で言って、緋勇の頬に移った紅を舌でなぞった。咄嗟に発剄が出たのは仕方のない事だろう。躱しきれずに吹き飛んだ蓬莱寺が、呻きながら身を起こす。そうして顔を上げた時には、緋勇の姿は消えていた。
水道の蛇口を目一杯まで捻り、頭から冷水を浴びた。頬と唇の錆色を洗い流し、ついでに口中に残っていた錆の味も吐き捨てる。全て流れ去った筈なのに、彼の指が触れた部位だけやけに熱い。
意味が分からない。血を見たいなら手っ取り早く斬りつければいいのに、何故そうしない。せめてあの動作が攻撃的な意思を含んでいれば、緋勇もこれほどまでには動揺しなかっただろう。むしろ逆だ。何かを乞うような仕草だった。まるで女が媚びるような、とそこまで考え、緋勇は再び流水に頭を突っ込んだ。
兎に角、殴ってでもあの呪われた刀を取り上げなければ心臓がもたない。物凄い速さで脈打つ心臓に皮膚の上から拳を当てて、緋勇は冷めやらぬ熱に気を散らされつつも心に誓った。蓬莱寺から、あのふざけた妖刀を没収する。一瞬ちょっと勿体無いなどと思ってしまったのは、即座に記憶の底に封印した。そもそも妖刀に精神を侵された状態であんな事をされても嬉しくない。違うそうじゃない。あのままでは、間違いなく蓬莱寺は死地に向かう。そうだ重要なのはそっちだ。
そして後日、緋勇は明朗な彼がその身に棲まわせる闇の深さを思い知る事となる。
同時に突きつけられたのは、彼の喪失を受け入れ得ぬ己の心。
失う時を恐れながら、この先も戦わねばならないのか。
血に濡れた腕に抱かれ、緋勇は産まれて初めて自分の宿命を呪った。
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