凶津が醍醐と出会ってから二度目の冬だった。新年を祝う虚ろな装飾が取り払われ、義務教育と銘打たれた支配から開放されるまで一月ほどを残す日。空は重く、大気は冷たく身を苛む、そんな日だった。
寒風ではない何かに身を震わせた凶津がかつては安息の場所だったその場所で、呟いた。
「醍醐・・・助けてくれ。醍醐。」
体は血に染まり、表情は惨めなほどに弱弱しかった。真っ赤な右手には、輝きを失った一振りのナイフが握り締められていた。
「凶津・・・一体何があった・・・」
聞くまでも無いことだった。醍醐が危惧し、いつか来るであろうその時を必死で回避しようとしていた、その時が来たのだ。
「親父が・・・俺っ・・・親父を・・・!」
助けを求めている。あの凶津が。どれだけ傷ついても支えられることを拒み、与えられることを拒み、それを誇りにしていた凶津が惨めに膝を付き泣いている。
数時間前、凶津は何日かぶりの自分のベッドでうとうととまどろんでいた。幾度と無く繰り返されていた闇討ちが凶津から熟睡を奪って以来、彼にとって眠りとは休息ではなくなっていた。
その為、微かな音を立ててドアを開けた父親にも凶津は過敏に反応した。無様にあわてることも無く慎重に身を起こし、たった今入ってきた自分の父親を無表情に見つめた。
数え切れないほどの夜が凶津に戦うことを教えていた。身体能力でも、十四歳にしては早熟な凶津がアルコールに漬かり切った父親に引けをとることは考えにくい。しかし、父親の拳はいとも簡単に凶津の左ほほを打ち据えた。わずかに身じろいだ体を抱えられ、鳩尾に膝が突き刺さる。
路上であったならばたやすく避けられたであろう一連の動きを、凶津は指一本動かすこともできずにただ見つめていた。
肉体は確かに苦痛を訴えている。しかし心は凍りついたようにその苦痛を無視していた。
空腹を訴えて鳴いていた胃に衝撃を感じ、痙攣するように熱いものが食道を上ってくるのを感じて凶津は口元を押さえた。ほとんど消化された昨日のクリームパンが胃液とともに口からあふれた。
筋肉の緊張による無意識の防御すらしていなかったのだ。吐き出すものが無くなっても胃からあふれる苦痛は止まらない。搾り出すように、喘ぎながら黄色く濁った粘液を力なく落としながら、上を見た。
「・・・ちっ・・・」
降りてきたのは無気力な舌打ちだった。凶津にとっても馴染みのある、あの感情。込み上げるというはど強くは無い。ただ、気づくとそこに在る。あの感情をなんと呼べば良いのか凶津は知らなかった。それが、上から降りてきた。
環七の単車の群れを思い出した。
どこか遠くで、誰かが自分の名前を叫んでいた。
あの時、隣にいると思っていた声の主は誰だったのだろうか。
そこに立っていたのは自分だけだったはずなのに。
馴染んだ感触が右手に触れていた。五年に少し満たない時間、片時も離したことのない心地良い重さが凶津に染み付いたいつもの行動を取らせた。いつもと違ったのは、隣ににいるはずの醍醐がそこにいはなかったという事だけだ。
(・・・醍醐・・・?)
奇妙なうめき声が聞こえた。それと同時に暖かい何かがシャワーのように凶津を濡らす。心地よい暖かさに少し笑みを浮かべた。暖かく、赤い液体はやがて勢いを弱め数秒前までは彼の父親だった男をどす黒く染め上げ、畳の上に散らばった。
右手にはナイフが張り付いていた。常にポケットに忍ばせていた愛用のナイフは錆色に染まっている。気に入っていた少しゆがんだ銀色の刃が、輝きを失ってしまっている。鈍く光る控えめな輝きを汚してしまった事が、その時はただ悲しかった。
綺麗だったのに、気に入っていたのに、きっともう、あのような輝きは戻らない。そう思うと悔やしさに泣けてきた。数少ない好きなものの一つだったのに。愚かな凶津は自らの手でそれを汚してしまったのだ。
「醍醐も、気に入ってたのにな。」
呟いて思い出した。あの心配性でお節介やきな友人。彼が今の自分を見たらなんと言うだろうか。きっとナイフの輝きよりも人間の命に価値を置くであろう生真面目な彼は、間違いなく自分を責めるだろう。馬鹿なことをしたと、いつもの口調で怒るだろう。そしていつものように呆れながらも手を差し伸べてくれるのだろう。
凶津を知り、同情でもなく、憐憫でもなく、共にいることを望んだ彼ならば、きっと。憐れみではなく怒りを口にした誰よりも優しいあの男なら・・・
人を殺した。それは確かに罪だ。だが凶津が殺した男は、十四年の長きに渡り凶津を殺し続けた。その罪は、一体誰が裁くのだ。自分の生命を守るための殺人は、果たしてそれさえも罪なのか。
正当防衛という言葉くらい凶津は知っていた。そして法的に無罪であるということが心を軽くするわけが無い、ということも知っていた。
狂いそうな心を救ってくれるのは些細な共感と、激情を受け止めてくれる友人だけなのだということを、この少年ははごく最近知ったのだ。
重くのしかかる法的な制裁への恐怖と唯一の肉親を失った苦痛を一人で抱えるには、凶津の心は幼すぎた。
そして、凶津が口にした初めての本心は叶えられることなく白くたゆとい、消えていった。
「自首しよう、凶津。お前は罪を償わなければならない。」
心のどこかで期待していたのだろう。『お前は悪くない』という言葉を。傷つけられ、得るはずのものを奪われ、恐怖と屈辱に心を壊され、それでも生きたいと願った自分に誰かが安息を与えてくれるのではないかと。それはもしかしたら、唯一友と呼べる醍醐がもたらしてくれるのではないか。凶津自身も意識しなかった小さな希望は、言葉として音になった瞬間に砕かれた。
「・・・醍醐・・・」
甘えていたのだ、自分は。助けを求めることは即ち敗北なのだから。与えられるのを期待するなど、まったくどうかしていた。欲しいのなら奪えばいい。この俺が膝を付いて許しを請うなんて、なんとも無様なことをした。何を期待していたんだ。こんな男におとなしく説教されて、見下されていることにも気づかずに。『心配している』だと?そんなに俺は頼りないか。手を貸さなければ立っていることも出来ないと、憐れんでいたのか。・・・醍醐!
硬い拳が凶津の鳩尾にめり込んだ。父親に打たれたときは感じることのなかった痛みに思わず膝を付いた。
サイレンが近づいていたが、逃げようとは思わなかった。
空から雪が降りてくる。
冷たく凍てついた大気は、虚無を抱え凪いでいた。
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