電車に揺られながら、皆守が不意に思い出したように言った。

「買い物の途中だったんだ」
「え、迎えに来てくれたんじゃねーの?」
「調子に乗るな図体ばっかりデカくなりやがって糞餓鬼が」

無表情で吐き捨てられた。さすがに少々悲しくなったので、背後から皆守の肩に額を押し付けてみる。振り払われない。きっと彼は知らないのだろう。拒絶されない。その事実だけで、泣きたくなるほど締め付けられるこの心臓を。

 皆守が何度も主張した当初の予定どおり、駅前で物資を調達する。皆守が生活している、という至極当たり前の現実に、葉佩は何故か無性に嬉しくなった。荷物を持つという葉佩の言葉を頑なに拒み、皆守は少し前を歩いている。ゆったりとした歩調に合わせ、葉佩も緩やかに足を運ぶ。こんなにのんびりと歩いたのは、随分と久し振りだった。
 振り向きもせずに前を歩く皆守の背中を見詰める。小さくなったと感じるのは、相対的な印象なのかも知れない。背伸びしても指先すら届かなかった髪を、今では上から眺める事が出来る。つむじも容易く見付かった。肩に触れた時は、あまりの細さに驚いた。こんなに細かったのか。この腕が、本当にかつて軽々と自分を持ち上げたのか。

「ねえ皆守」
「あー?」
「ちょっと痩せた?」
「さあ」
「体重とか、軽くなってない?」
「そーいや、ここ何年か計ってないな」

と言うので、腋に手を入れて持ち上げてみた。皆守が変な声を出したが、気にせず重量の見当を付ける為そのまま固定する。だが暴れるので測定できないのと、危うく落としそうになったので、腕を回して胴を抱え上げた。道行く人々が、生ぬるい視線で見ている。都会の人も意外と優しい。

「暴れんなよ」
「下ろせ!」

記憶が湧き上がった。「暴れるな」「下ろせ」何度か交わした会話だ。ただし、逆の立場だったが。そうか、皆守はあの時こんな気分だったのか。いや分かってる。違うよな。うん、分かってるよ。内なる自分に応えつつ、皆守を地面に下ろした。着地と同時に、硬い肘が腹に突き刺さった。水月だ。そうか、やっぱり昔は手加減されてたんだな。物凄く痛い。でも嬉しい。その痛みは、もう彼は手加減する必要性を感じていない、という事の証明だ。上がった胃液を飲み込み、再び歩き出した皆守を追う。

 到着した彼の家は、有り体に表現すれば、安アパートだった。二階の一番端のドアに鍵を差し込み、開錠する。開けっ放し癖は治ったらしい。小さく安堵する。だがこの鍵も、葉佩の手に掛かれば十秒で開錠できるだろう。思ったが、口には出さないでおいた。肘に打たれた腹は、まだ鈍い痛みを発している。

「おじゃましまーす」
「まあ、その辺に座ってろ。コーヒーぐらい淹れてやる」
「え、あ、ああ、うん、ありがと」
「・・・コーヒー苦手か」
「いや!飲めるよ!淹れて!飲みたい!」

苦いのは嫌い、などと、言える筈がない。どうせまた子供扱いされる。
 言われたとおり、葉佩は客が座っても不自然じゃない場所に腰を下ろした。つまり、炬燵の一辺に。炬燵布団に足を入れ、ふと窓の外を見る。夕涼みにはうってつけの、心地好さそうな微風が枝を揺らしていた。蜩が鳴いている。何処か遠くで、風鈴が鳴っている。もう一度、自分が腰を下ろした場所を見る。炬燵だ。そして炬燵布団だ。その下は板の間だ。怠惰な彼の事だから、きっと夏も冬も絨毯など敷かないのだろう。足先に触れた物を引きずり出してみると、バスタオルと思しき物体だった。一緒に出てきた座布団を暫し見詰め、その一般的な使用方法に思い当たる。何かが可笑しいような気がする。言おうかどうしようか迷っていると、カップを二つ手に持った皆守が対面に座った。

「どうした?」
「え、あ、ええと、いや、あの、うん、何でもない」
「何でお前、炬燵に入ってるんだ?」
「・・・其処に炬燵があったから」

そう言いながら皆守は、台に肘を置いて足は外に投げ出している。成る程、そうやって使うのか。日本文化って奥が深いな。湧き上がる疑問を押し留め、無理矢理に得心した。突っ込めるものならとっくに突っ込んでる。変な意味じゃなく。
 目の前に置かれたカップの中身を確認する。疑うべくもないコーヒーだった。葉佩の幼い強がりを察して気を遣うなど、彼がする訳ない。予想されていた事だ。砂糖もミルクも無い。一口含んでみる。分かっていたが、苦い。
 皆守が、胸ポケットから煙草を取り出して銜えた。見憶えのあるパイプではない。花の香りがしなくなっている事には気付いていた。皆守に染み付いているのは、有害な煙の匂い。
 都会の荒波に揉まれて、擦れてしまったのだろうか。あんな学校にいて、よく社会復帰できたな。そうか、きっと苦労したんだろうな。だからこんなに凶悪さが増したのか。ああ悲しい。花の香りとカレーの匂いとポエムと黄昏に包まれていた彼は、もうどこにもいないのか。変化とは、喪失と同質のものなのか。
 流れて来た煙を眺めながら、葉佩が言った。

「ねえ皆守、アレは?」
「は?どれ?」
「えーと、あの、甘いやつ。精神安定剤」
「あ?ああ、アロマか」
「あ、アロマってゆーんだ」
「やめた」
「代わりに煙草?アレって何が入ってたの?」
「だから、ラベンダー」
「ハシッシュみたいなもん?」
「よく分からんが、多分もうちょっと合法」
「ふーん、でもさぁ、煙草もだいぶ体に悪いよ」
「長生きしたいとも思わない」
「してよ、長生き」
「お前には関係ない」
「あるよ」

皆守はもう、《墓守》ではない。敵同士ではない。だから、もう言ってもいいのだろう。あの夜に名付けた想いを口に出しても、背理にはならない。二人の間の炬燵が邪魔だ。季節外れの暖房器具の分際で人の邪魔をするなんて、身の程知らずだ。叩き壊してやりたい。しないけど。だって冬になったらまた必要になるんだろうし。何より皆守が怒るだろうし。腕を伸ばして、机の上で爪を弾いていた手を掴んだ。ビクリと震えた手首を、強く握る。

「皆守が死んだら、悲しい」
「殺すつもりだったんだろ」
「違うよ」
「本気で死ぬかと思ったぞ」
「ごめん」
「俺は、お前を殺そうとは思わなかった」
「・・・そうなの?」
「そーなの」

葉佩の口調を真似て、顔を逸らしたまま言った。掴まれていない方の手で吸殻を灰皿に押し付ける。その横顔を見詰めながら、葉佩は記憶を見ていた。

 如何なる決断も下せ得ぬまま、皆守を見上げた。その軌道すら感知させず、正確に急所を強打された。吹き飛んだ体が地に落ちる前に、二撃目を延髄に叩き込まれた。あれで殺す気がなかったと言われても、信じるのは難しい。皆守がどんな表情をしていたか思い出そうとしたが、どうやってもそれが浮かんでこない事に気付く。正直、顔を見るほどの余裕は無かった。だがそれ以上に、葉佩はその時には悟っていたのかも知れない。彼の希望が、自分にとっての絶望だという事実を。
 折れた腕に縛りつけたナイフ。それを見た瞬間の、皆守の目。その目蓋に落ちた、葉佩の涙。敗北したのは自分だと、今でも思っている。あの時、自分は死んだのだと。彼が狂おしいほどに求めていた希望を、この手が砕いた。罪悪などとは思わない。だが、それを思う度に葉佩は後悔した。罪など無い筈なのに、彼に裁いて欲しかった。

「それで?」

前触れもなく、皆守が言った。何の話をしていたか思い出そうと記憶を探る。ああそうだ、炬燵だ。どうして炬燵に入ったのか。どうしてだろう。寒くもないのに。むしろ暑いぐらいなのに。やはり、其処に炬燵があったからだろう。そう言うと、皆守が頬杖をついたまま眉間に皺を寄せた。お気に召さなかったらしい。もっと哲学的な答えが欲しかったのだろうか。相変わらず無茶を言う。内心で炬燵に関する哲学的な考察を行っていた葉佩に、皆守が目を逸らしたまま言った。

「何か用があったんじゃないのか」
「この季節、炬燵に用は無いと思う」
「炬燵から離れろ」
「あ、うん、やっぱちょっと暑いね」

皆守の視線が鋭さを増した。苛立たしげにカップを置き、炬燵から足を出した葉佩を睨む。「わざとか?」と、低い声で言われた。何故だかさっぱり理解できないが、どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。気難しいのは変わっていない。少しは改善されていたら嬉しかったのだが。いや、駄目だ。簡単な皆守など、皆守ではない。
 凶悪な眼光もそのままに目を逸らし、皆守が溜息と共に言った。

「俺に用があったから連絡してきたんじゃないのか」
「・・・迷惑だった?」
「そんな事は言ってない」
「用ってゆーか、会いたかったから」
「俺が、忘れてるとは思わなかったのか」
「思ったよ。ずっと怖かったよ。空港で待ってるとき泣きそうだったよ」

一瞬だけ本当に涙が溢れたのは秘密だ。あの頃は、何度も皆守の前で泣いた。急に思い出し、無性に恥ずかしくなる。
 しかし、皆守は来た。短い文面から葉佩の心情を推測し、自分の意思で来てくれた。それだけでいい、と、葉佩は思っていた。顔が見たい。本当に、考えていたのはそれだけだった。
 実をいうと、葉佩は何度か日本に足を運ぶ機会があった。大学生の皆守を、物陰からこっそり窺った事もあった。その時の皆守が満たされた表情でいたのなら、きっとメールを送ろうなどと考えなかっただろう。雑踏の中、一人で空を見上げてなどいなければ。かつての自分と同じような背格好の子供に、あんな目を向けていなければ。あれは危なかった。そのうち通報されるのではないかとハラハラした。それはともかく。
 唇を引き結んだ葉佩の表情には気付かぬ振りで、皆守が呟いた。

「・・・何であんなメール寄越した」
「会いたかったから」
「俺が来なかったら、どうするつもりだった」
「皆守が忘れてたら、ってゆーか憶えててもどうでもいいと思ってたら、しょうがないと思った」

 初めて灼熱に触れたのは、もうだいぶ前の事だ。灼熱に熔かされる自分が恐ろしくなって、葉佩は逃げた。如何なる誓いも果たせずに、彼の望みをただ自分の為だけに破壊して、逃げた。それを思う度に、かつては空洞だった心臓が苦悶の声を上げる。だが、その苦痛は喜びだった。これは、優しい彼が残してくれた裁きだ。痛みに耐える事で、まるで罰を受けているように錯覚する。いつかは許されるのだという幻を見せてくれる。そして許された時、彼と本当に断絶されるのだろう。そう思っていた。
 だが、既に遅かった。変質はもう始まっていた。空洞だった心の中で、何かが震えている。熱を発し、震動を繰り返し、それは少しづつ溢れ出した。溢れ出した衝動を止める筈だった絶対の支配も、気付けば煩わしい鎖と成り果てていた。
 欲するのは、あれほどまでに恐ろしかった灼熱。指針を失った葉佩にとって、それは自分を生かす動力になった。